12話 出し渋るものでは
腹くちくなって夜が深まった頃、下層へ降りてきたガントールが人集りの中を掻き分け、その中央に坐す娘を見つけたときに始めて継承者二人が出会った。
「はじめまして」ガントールは高台に据えられた玉座に座る賢人の少女に声をかける。
オロルの方は声をかけられる前からガントールを見つめていた。その者が待人であると悟り顔を向ける。毅然と見つめ返す少女の顔は年相応に可憐で、丸みのある頬の輪郭にあどけなささえも感じさせる。ガントールはふと、首筋にかけて襯衣の陰に消える蜘蛛の糸のような筋が目に留まるが、言葉を継ぐ前にオロルが口を開いた。
「……長女継承者じゃな」
いやに古臭い言葉づかいだ。ガントールは片眉を吊り上げる。若い少女の口から老婆の様な訛り、だというのにそれが様になっているとも感じられた。小さくもどっしりと構えた彼女の悠然とした雰囲気は、精神的な成熟によるものだろう。
「わしの名はチクタク・オロル。呼ぶときはオロルで良い。察する通り、三女継承者じゃ」
息を吐くついでのように間延びした、しかし油断ならない気配を纏ってオロルは名乗った。射抜くような金色の瞳が脂下がった笑みを浮かべて、遠くを睨む夜鷹を思わせる。ガントールはその瞳を見た時に得も言われぬような感覚で腑に落ちた。なるほど、これは生き残るだろうな。
その直感は前線に向かう者の目利きのようなもので、つまるところ互いに会話を交わしただけでおおよその力量を推し量ったのだ。ガントールの内に漠然と抱いていた不安はここで随分と晴れた。内地に継承者が現れたのだから、前線の厳しさとは無縁の、もっと軟弱な者が現れるのだろうと覚悟していたが、いま目の前に居るのは少なくとも肝の座った賢人である。祝祭の主役として祭り上げられて尚、玉座に悠然と腰を落ち着かせ、手には酒の入っていたであろう杯を乾かしている。
一方でオロルもまたガントールを値踏みするように不躾に眺めていた。笠と長衣に隠しているが、朱い髪に緋色の瞳。対の頭角を備えた天を衝くような獣人種の女。もとよりその者の存在は誰もが知るところで、当代唯一の継承者として嬰児の頃より広く膾炙している。
「それではよろしく、オロル。私はリブラ・リナルディ・ガントール。ガントールと呼んでくれ。前線出征を前に君達継承者を迎えに来た」
そう言って握手を求めて右手を差し出し、オロルがそれに応じると、握りあった腕に対して眉を顰めてから言の葉を継いだ。
「『君達』? わしの他にも……つまり次女も揃ったのか」
「ああ。隣国ナルトリポカでも魔術陣が現れたんだ。そっちには別の者が迎えに行ったよ」
「ふむ、内地か。であれば襲われている可能性は低いが……いや、ナルトリポカとなると油断はできんな」
「こことは違って農地だからな。まあ、迎えのものも油断する性分じゃないし、心配はしてないよ」
「お主がそういうのなら抜かりはないのじゃろ。とはいえ、肝心の継承者が腑抜けでなければよいがのう」
オロルは自分も内地生まれであることを棚に上げてずけずけとそんなことを言う。ガントールは笑うところなのかどうか眉を困らせた。そして思い出したように手を叩いた。
「おっと、刻印を検めるのをすっかり忘れていた」
三女継承者の纏う雰囲気に今更疑うつもりはなかったが、むしろこれで偽者ならば大したものだ。と、ガントールは玉座の傍に膝をつくとあぐらをかいてオロルを正面から見上げる。
「人前で悪いが見せてくれないか?」ガントールは気安く言う。三女継承者の刻印は服を脱ぐ必要もなく確かめられることは事前に承知していたのだ。
「ふむ、まあ出し渋るものではないわな」
そう言ってオロルは手袋に手をかける。周りで銘々酔いどれの者達が俄に色めき立ち始めた。刻印をその目で見ることは今を逃せば一生ないだろう。ガントールは喧騒のただ中で努めて冷静にオロルを見守る。その後ろで司祭は一人固唾をのんで身をこわばらせていた。彼は一度刻印を見ているはずだ。なぜ緊張しているのか……ガントールはその妙な気配を背中に感じながらもさして気に留めなかった。
オロルは視線が一身に集まることを煩わしく思いながらも手袋を取り去る。その白い手袋に隠されていた素肌は……いや、なんだこれは……ガントールは一変、先程までの笑みも消え表情を曇らせて視線を厳しくした。
露わになったその両掌、手首から先はどちらも同じように引きつった膠原質の皮膚が爛れて硬質化している。蝋で固めたような独特の艶があり、血の透けた赤紫色をしていた。爪は赤黒く、節くれだった指は関節ごとに裂け目が開いて、荒れた木の枝か鳥の脚を思わせる肌である。
ガントールは思わず息を呑んだ。人の肌とは思えない異様な手――。先程まで気炎を吐いて心地よく酩酊していた者達も、三女継承者の娘の手袋の下の手が予想外に仰々しく痛々しい傷痍であることに肝を冷やし、畏怖の念とともにたじろいだ。
司祭の横腹をつつく男は「印ってのはこんなもんなのか」と声を潜めて訊ねる。司祭は曖昧に首を傾げるばかりである。無理もない。司祭もまた人生で初めて出会う継承者なのだ。
「ガントールよ、お主が刻印を宿したとき、痛みはあったか?」
不意に問いかけたオロルに対し、ガントールは我に返って答える。
「あ、ああ……無かったな。産まれて間もないから記憶がないだけかもしれないが」
「普通はそうなのじゃろうて……わしはな、痛かったぞ」
天蓋のようにオロルの全身を覆っていた外套が裾から捲られると、隠されていた襯衣一枚の体を見ることができた。襟から覗く首筋や裾から出た上腕のから伸びる筋は、それぞれが至るところで収斂し、ある種の葉脈か血管のように皮膚の上を走り紋様を構成する。その筋が繋がる果ては全て掌に帰結していた。両掌には刻印の上に刻印が、自傷行為のように幾重にも重ねられてしまっているがためにもはや何が描かれているのか判別がつかないほどだった。
「刻印現出は三度だけだったはずだ」ガントールは断ずるように言った。「その火傷みたいな手は、三度繰り返されただけでは足りないくらいじゃないか……?」
「そうじゃな」オロルはさも当然と答えて続ける。「お主が選ばれたとき、次女と三女は現れなかった。そうじゃろう?」
ガントールは首肯する。
「それから十年、二度目の魔術陣が空に現れた」
ガントールはまた頷く。
「その時わしは選ばれたのじゃ」
「まさか、それならなぜ――」
ガントールは膝立ちになって食い下がる。が、オロルはそれを遮った。
「すぐに消えてしもうたのじゃ。
わかるか? 選ばれたはずが次の瞬間には力を失う、この腹立たしさが……」
オロルは変わらず玉座に寛いでいるが、語調には忌々しい怒りが漏れていた。しかしその怒りも鳴りを潜めて続きを語る。禍々しい手指を見せびらかしながら。
「先代から数えて二百年の節目……継承者が選ばれるのならばこのわしが相応しかろう。例え次女継承が現れずとも、三女継承は賢人種から生まれる……それはわし以外にありえん。じゃが、運命はそうならなかった。
ならば運命を捻じ曲げるまでよ。何度でも、何度でものぅ」
「だから自ら迎えに行った」と、オロルは平然と言う。自ら組み上げた魔術陣によって一人、繰り返し三女継承の力をその身に宿すために研鑽を行った。
「じゃが、結局は失敗した」




