127話 平和を願い、その身を捧げる者のために
危うい場面を脱したかに思えたアーミラの胸に、不意に激痛が走った。
アーミラは喘ぎ、胸を押さえて膝をつく。
「――ぅぐっ……はぁっ……!」
「アーミラ? どうした!?」
異変に気付いたオロルはそばに駆け寄る。
原因は刻印ではない……オロルは攻撃されていることを悟り、女神三柱の巨像を睨んだ。
近衛隊の一人だろう、石像の影に待機していた白衣の兵が今まさに鞣し革の手袋をつけて次女継承の焔を握っていた。心臓を鷲掴みにされたアーミラは苦悶の表情に脂汗を垂らしながら身動きができないでいる。そして三女の像の焔にも、耐火の手袋を着けた者が迫っていた。
心臓を直に触れられる気持ちの悪い圧迫感がオロルを襲う。
「近衛隊にとって、勅命は絶対なのです」カムロは言う。
「……正気とは、思えんな……!」オロルは言い捨て、胸の痛みに歯を食いしばる。そして負けじとカムロを睨み続けた。
対するカムロは、決して勝ち誇ってはいなかった。
勅命に従いつつも本心では己が間違ったことをしているのではないかという葛藤が、瞳に暗澹とした迷いとなって浮かんでいる。近衛隊も所詮は神族の傀儡なのだろう。
オロルは玉砂利に這いつくばい、アーミラが連れ去られるのを見ていることしかできない。龍を討伐し神殿に貢献した継承者に対する処遇ではない。
このままでは……アーミラが禍人だと明かされ、謂われない罪を被さり処刑されてしまう……。
――頼む……誰か……アーミラを……。
「『勅命』ってことは、やっぱり帝が怪しいよなぁ」
空から舞い降りる男の声に、神殿に集う者達は驚き目を奪われる。ここはマハルドヮグ山の頂き、雲より高いこの地において、下界を見下ろすことはあれど空を見上げることがあろうとは。しかし上空には確かに声の主がいたのである。
カムロは招かれざる客に眉を顰め、オロルは口角を吊り上げた。それがあまりにも禍々しい彗星に見えたからだ。思わず笑ってしまうほど、その者の姿は強烈な威光を放っていた。
「ウツロ……!」
「オロルにアーミラ……どうやら急いで正解だったみたいだな」
オロルは目を丸くしてウツロを見る。声を初めて聞いたからだ。
口が利けるようになったことも、姿形の変化も、背に翼と尾を生やしていることも、この際どうでもいいことだと首を振って声を張り上げる。
「アーミラが狙われとる!」
「承知した」
ウツロは足元に群がる白衣の群れを一瞥し、女神三柱の巨像に張り付く神人種を見咎めた。ぴんと張った黒い翼膜がばさりと空を叩いて隼のように飛び、神人種の男の前に立ちはだかる。
男は一瞬で距離を詰められたことに肝を冷やし、怖気にみっともなく悲鳴をあげて腕を振り回すが、ウツロは避けることもせず鎧の体で受け止めた。厚手の手袋をつけていなければ指の骨が砕けていただろう。男は痛みに顔を歪めて手を庇い、とても敵う相手ではないと後退る。
「女神の心臓だろう? 頂いていくぞ」
腰砕けに石像の縁にへたり込んだ男を跨ぎ、ウツロはアーミラの心臓の灯の前に立つ。そして頭蓋骨が顎を開いて一口に焔を呑み込んだ。
オロルはアーミラの様子を見る。……どうやら痛みはなさそうだ。それどころかウツロの頭からは青い焔が漏れている。左右の眼窩に、顎の隙間に、アーミラの心臓が昂りに火勢を増して、ふしゅう。ふしゅう。と脈打ち火の粉を振り撒く。
「ちょっと……! 早くしないと髪が燃えちゃうんだけど……!」と、ウツロの内側から女の声が聞こえ、「一旦退くぞ」とウツロが応えるように呟く。
――なるほど、背に生えた翼と尾は龍の娘のものか。鎧の内側に姿を隠しているようじゃな……。
ウツロと龍の娘が協力関係にあるらしいことをオロルは理解した。
「待ちなさい!」
翼を広げ、神殿から飛び立とうとするウツロに向かい、カムロが叫ぶ。
ウツロは石像の肩に飛び移り、眺めおろして続きを促す。まるで、「聞いてやらんでもない」と言いたげな態度だ。
「ウツロなのですか……?」
「そうだが」
「……何故神殿を裏切ったのです……! 二百年の忠誠はどこへ捨てた!」
ウツロは腕を組み、次に痒くもない頭を掻いた。
「俺が従うのはラヴェルではない。継承者だ」右手を出し、名を呼びながら指折り数える。「デレシス、ラーンマク、アルクトィス。そしてガントール、オロル……アーミラ」
五つの指を握り、人差し指を立てて六人目を数えた。
ウツロは続ける。
「平和を願い、その身を捧げる者のために俺は存在する。彼女らの信頼を裏切った蚩尤には、決して与しない」
外套を靡かせるようにばさりと身の丈を超える翼を広げ、ウツロは皆の視線を釘付けにして飛び去った。まるで嵐が通り過ぎたようだった。後にはどう沙汰すれば良いのかわからない混乱と動揺ばかりが散らかっていた。
「お主はこの混乱に乗じて逃げよ」オロルは声を顰めてアーミラに囁く。
「えっ……」アーミラの瞳は不安げに揺れる。
オロルは励ますように頷き、肩に触れると時止めを行使して、アーミラを白衣の取り囲む輪の外へと導いた。この騒動でウツロはアーミラの焔を呑み、行方を眩ませた。それはアーミラの心臓を匿ったということ。助けたということだ。
きっと近衛隊からは良く映らないだろう。ウツロはともかくとして、アーミラまでもが禍人領と関係を結んでいると誤解されかねない。ここに留まれば確実に身柄は拘束され、あらぬ罪まで被せられることになる。
「事態がややこしいことになっておる以上、お主にとって神殿は安全ではない……どこかに身を隠すのが賢明じゃ」
「でもどこへ?」
「わからん。思いついてもわしに言うな。わしは神殿に残る。下手に知れば自白させられるからのぅ」
アーミラはぐっと唇を噛み、涙を堪えてオロルの後ろを歩く。声もなく一筋の雫が頬を伝い、密かに洟をすすった。時の停止したこの空間では泣いたところで誰にも気付かれはしないが、それでもアーミラは咳上げる嗚咽を堪えた。
継承者として、神殿の兵戈として戦いに身を捧げ、活躍を讃えられることもなく追われる身となった我が身の不運を嘆いたのではない。
失い続け、最後に残った友との確かな絆に胸打たれて泣いたのだ。それがわかっているからこそ、オロルは振り返らず手を引いた。オロルもまた、密かに涙を流していた。
「時止めの領域はここまでじゃ。わしは戻る……お主は行け」
オロルは目を合わさずに背を向けて言う。
「……はい」
涙声を隠し、アーミラは応えた。気丈に振る舞うことが二人の流儀であるかのように。
オロルの姿が白衣の輪の中に消え、時が動き出すとアーミラはすぐに物陰に身を潜め、誰にも見つかることなく門の外へ出た。
崖下に潜み、次女継承の法衣と袴を脱いで放り投げると、目的地も定めぬままに山を駆け降りた。
何故だか脚は疲れ知らずだった。
アーミラは転げ落ちるように森林限界の高度よりも下まで山を降り、身を隠せるだけの林の中に入っても走ることをやめなかった。荒く息を吐き、目は爛々とし、枝が肌を掠めて薄く尖った下生えの葉が脛を切る。痛みなんて感じなかった。どこまでも激情に任せて走っていける気がしていた。
「うぁ――」
ついに小石に蹴躓いた。
アーミラは泥まみれに汚れた体でよろよろと立ち上がり、意地になって山を駆け降りる。もう隣にはガントールもオロルもいない。
たった一人、追われる身になってしまった。
胸に渦巻くのは様々な感情からなる混沌である。その渦の中に悲しみがあり、怒りがあり、不安があり、《《懐かしさ》》があった。
神殿から命からがら駆け出す道が、幼い頃の記憶と重なっている。
……過去の私もこの道を逃げていた。神殿の者に追われるのは、これで《《二度目》》のことだった。
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[15 焔を呑む 完]
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