125話 もう終わったことだよ
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兄と血の繋がっていないという事実を知ったのは、事故からそう間もない頃のことでした。
212号室に見舞いに来る親戚の面々は突然の訃報に悲しみ、『これからは兄妹二人で頑張るんだよ』と励ますものでしたが、ある一人は訳知り顔で見舞いにやってきて、開口一番〈別々に暮らした方がいい〉と言い、兄を悪し様に言うのでした。
驚いた私は、どういうことかと訊ねると、その人は私の知らない家族の事情を話してくれたのです。
『あんたたち、《《血の繋がった兄妹じゃない》》のよ。そんな若い男女が、親もいないまま一つ屋根の下で暮らすなんて、やめた方がいいわ』
それを聞いて、私はその人を嫌うでもなく、兄を嫌うでもなく、ただ腑に落ちました。
これまでに、なんとなく感じていた両親の違和感の理由がわかったのです。
私と兄に対する教育の熱の入れようや、普段の何気ない態度。親は言葉にしてはいませんが、これと断定できない靄のようなものが兄との間にはありました。それが初めて、言葉にされて、腑に落ちたのです。
家族で出かけるとき私が体調を崩せば予定を延期にするのに、兄の都合が悪いときは三人で出かけたり。
成績や通知表に関して、私だけあれこれと小言を言うのに兄は放任していたり。
それもこれも、しっかり者の兄は自由が許されているのだと思い込んでいました。
しかし事実は違っていたのです。兄は自由を与えられていたのではなく、愛を与えられなかったのです。
『血が繋がっていない』
それでも、私にとっては兄は兄でした。
これまで兄妹として当たり前に過ごした日々が消えたわけではありません。むしろ私は、後ろめたさを感じました。もっと早く、気付くべきでした。
兄の密やかな疎外感には違和感を覚えていたのに、寄り添いもせず親の愛を独占して、のびのびと学生生活を邁進していた私……。
事故により親を失った今、繋がりを失くし、兄は私を見捨ててしまうかもしれない。それを考えると恐ろしかった。私にとって家族というものがどれだけ大切だったのか、失って初めて知りました。兄が纏っていた孤独という靄が、いかに冷たいものかを知ったのです。
父も母も突然失い、兄までも私から離れていってしまえば、きっと私は生きていけない。……これは心の拠り所という比喩だけでなく、現実の問題としてもそうです。学生の身分で生活費は賄えません。少なくとも、怪我が回復するまでの手助けが必要でした。
――不遇な兄の悩みにも気付けず、手を差し伸べなかったくせに。私の介護を頼もうなんて虫が良すぎる。
……そんな私の悩みをよそに、兄は当たり前のように見舞いに通い、怪我の具合を気にかけてくれました。
あれこれと世話を焼き、微笑みながら『心配ない』と励ましてくれる。
そんな兄を、一人の人間として尊敬できる人だと思いました。
兄のお陰で怪我の回復は順調でした。感謝の想いと同時に私の中で、ある想いも芽生え始めていました。それは、初めは小さな火でしたが、気付かぬふりをしている内に火は勢いを増し、胸を焦がす焔となるまでそう時間はかかりませんでした。
脳裏にあの言葉が反響します。
『実の兄妹じゃないのよ。そんな若い男女が、親もいないで一つ屋根の下で暮らすなんて』
麻痺に動かない私の手を握って、「明日は動かせるようになるさ」と摩り温める兄を前に、私は平静を装うのも苦労しました。
――ねぇ、私たち血が繋がってないんだよ……?
――なのになんで、私に優しくしてくれるの?
――お父さんもお母さんも、お兄ちゃんのことを愛していなかったかもしれないけど、私は違うよ。
……なんて、口が裂けても言えなかった。
きっとこれ以上兄を困らせては、兄妹の絆まで壊れてしまう。そう思って、内に秘めた焔を私は呑み込みました。
親の死という大きな悲しみと、身体に残る事故の傷。これが私と兄を繋ぎ止めている。……なら、怪我が完治してしまったら……?
病室で過ごす穏やかな二人だけの日々は終わってしまう。……そんなの、嫌だ。
心の奥底で、私はこの傷ついた体が治らないでほしいと願っていました。もしかしたら、この気持ちが麻痺となって現れたのかもしれません。いや、きっとそうなのでしょう。
悲劇の妹を演じていれば、兄からの愛を独占できる。
いけないとわかっていても心の奥底では、夢想してしまう。
妹としての私でいい。その手で優しく触れてほしい。
いっそこのまま麻痺が悪化しても構わない。
二人の日々が、ずっと続くなら……。
兄が死んだ。
あの日私を、病院を、街を。巨大な地震が襲いました。
押し寄せる津波が、私の平穏な日常を呑み込み、奪っていきました。
世の不条理はこうも呆気なく、兄を殺したのです。健気で、真っ当で、無実の兄を。
……いいえ、これは私に対する天罰なのかもしれません。
私が身体を治したくないなんて願ったせいで、兄は死んでしまった。
残ったのは麻痺の治らない体と、親族の同情と、孤独な時間でした。
どこまでも愚かで欲深くて、救いようのない私自身に絶望しました。
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そう長くないセリナの話は、兄への想いを赤裸々に打ち明けた独白だった。
ただの兄妹という関係以上に膨れ上がっていた気持ちを、当の本人が他人事のように語るので、ウツロはどう受け止めて良いものか言葉が出てこなかった。
「……そんなふうに思っていたのか」
「もう終わったことだよ」
セリナの口調は頑なである。この場にいるのが二人だけならいざ知らず、ここにはハラヴァンもいるのだからそう言うほかないのだろう。
二百年も昔の話だと片付けるのは簡単だったが、それはウツロの時間軸であり、セリナからしてみればまだ二月程度しか経っていない。兄妹の間に流れている途方もない時間の齟齬が、セリナの態度をやさぐれさせていた。
「愛を失い、君は器となったのですねぇ」ハラヴァンは妙に共感したように目を閉じてしみじみ頷いていた。
「嗤うつもり?」
セリナは片眉を跳ね上げるが、ハラヴァンは首を振る。
「決して。……愛を失うこと以上に強い絶望はありません。人は愛から生まれ、愛に生きるのです。その根源が欠落すれば、なるほど龍の器にもなりましょう」
セリナは鼻を鳴らしてウツロに目配せする。……あいつは狂ってるからほっとこう。
「それで、自死を選んだのか」ウツロは問う。
「その気持ちはあったよ。でも、行動に移す前に、誰かに会った気がする」
セリナは記憶を思い出そうと目を閉じて眉間に皺を寄せる。
「たしか、小さな女の子で、でもただの子供じゃない気がした。やけに髪が長くて……」
「その娘は、冠みたいな角があったか?」と、ウツロは問う。
「角? ……あったら忘れなそうだけど、思い出せないや。見た目は私よりもうんと下なのに大人びてる感じ。なんだか幽霊みたいだったよ。『あ、普通の子じゃないな。ここは出る病院なんだな』って。避難先の知らない街だったし」
「それで?」
「吸い寄せられるように見つめちゃって、そしたら目が合ったの。その子が話しかけてきて、だんだん意識がぼんやりして……気付いたら屋上から飛び降りてた」
「その娘が飛び降りるように操ったのか?」ウツロの声が荒れる。
「わかんないよ。私も不安定だったし、ただの幻覚かも。
結果として私が飛び降りたことに変わりはないし、次に目が覚めたらこの塔の底にいたよ。ハラヴァンが何かしたって感じでもなかった」
「……君が何者か、散々問い詰めましたものねぇ」と、これはハラヴァンの言葉。「蚩尤の遣わした者ではないと分かり、器として使えると考えてそばに置きました。切羽詰まっていましたから、恨まないでくださいね」
ウツロは無言であしらった。
ともかく、ことの経緯は理解できた。
残る謎は、誰が異世界の門を開き、セリナを塔に召喚したのか。セリナが見たという幽霊の正体にも、疑わしい人物の心当たりがある。
そしてもう一つは――蚩尤の本懐について……。
「……ハラヴァンの話が正しいなら、すぐにでも神殿に向かう必要があるな」




