123話 貪欲な梟
ウツロは無言でセリナの後ろ姿を見つめた。
妹の口から、さも当たり前のように『神』という言葉が出てくる奇妙さにたじろいだのだ。……信仰心が芽生えたのか、それともあくまで自然災害の例えとして神という言葉を選んだのか、ウツロにはわからなかった。そして折に触れて気になったのは、神殿側の者を指す言葉だ。
「なぁセリナ、『蚩尤』ってなんだ?」
ウツロの問いにセリナは振り返り足を止める。
「シユウ。……龍人を禍人と呼ぶのと同じか。むしろ神殿側ではあいつらのことをなんて呼んでいるの?」
問いを返されたが、なんと答えればいいかわからない。
「あいつらとは誰を指している」
「そっちの大将のこと。王様? ……羽を持ってるって」
「帝か」
ウツロの返答は答えとしては不十分らしく、セリナはそうじゃないと首を振る。
「帝だけじゃなくて……ほら、種族としてなんて呼ばれてるのかってことだよ。例え蔑称でも『禍人種』って括りがあるでしょ?」
セリナが言いたいことをようやく理解した。ラヴェル一族のことを蚩尤と呼んでいるようだ。
しかし神族に種としての括りはあっただろうか。ウツロは頭を捻る。……考えてみればラヴェル一族は種族として呼ばれたことがない。『神族種』などという単純な呼び方では、きっと済まされないだろう。
「獣人種、魔人種、賢人種……ラヴェル一族はどれでもないな。神話の立場では神の使いだったり天使だったり」
「随分と特別扱いされてるんだね」とセリナは言うが、語気は冷ややかだ。「とにかくその一族は背中に翼を持つ……貪欲な梟という意味を込めて、蚩尤と呼んでいるんだよ」
セリナはくだらないとでもいうように先へ進む。螺旋を描く坂は夕闇のわずかな光さえも届かない翳りに入って視界が悪い。手すりもない絶壁なのでウツロは右手を常に壁に触れさせて慎重に後ろをついていった。底の見えない奈落が左に待ち構えている。
「『蚩尤が神の怒りに触れた』と言っていたよな」ウツロは再び問う。「それは……龍人の神話なのか?」
「そうだよ」セリナは振り返らずに応える。
「どんな話かわかるか」
そう問われたセリナの首が上を向く。何かを思い出そうとするときの無意識な癖だろう。ウツロはセリナのつむじを見つめながら返答を待った。
「全部は覚えてないかな……えっと――『梟は人々に塔を作らせた』、があって、少し飛ばして――『くらおかみは現れ、人々にここから去るようにと説き勧める』、最後が『神は怒り、荒れ狂い、塔を叩いた』……こんな感じだったと思う」
「塔……か……」
「一度読んだきりだしうろ覚えだよ。……重要なことなの?」
返事もせず沈思するウツロに無視された形となったセリナは怪訝に振り返り表情を読み取ろうとしたが、彼の頭は金色の頭蓋骨なのであった。
ウツロが思考に没頭したのは、二つの信仰に類似があるということだ。
神殿側のラヴェル信仰では楽園に蛇が現れたことで世に混乱が生まれた。
一方で龍人種側の信仰では神の怒りに触れたのは梟――ラヴェルが過ちを犯したと語る。
蛇と梟。禍人と蚩尤。敵対し合う両者で信仰が似通っている……きっと二つの民族間で過去に重大な出来事があり、その一件の責をなすりつけ合い火種となり、争いへ発展したようだとウツロは推測した。
――大昔に存在した楽園とは、この塔のことではないだろうか。
その塔で三人の娘――つまり獣人、魔人、賢人の種族が平和に暮らしていたのではないか。そこに現れ、唆したのは蛇か、梟か。
結果として世に混乱が訪れ、塔は神の怒りによって沈められた。逃げ延びた神族と獣人、魔人、賢人はマハルドヮグに根差し、塔の遺跡が残る地底に龍人は留まった……。
おそらくセリナは知らないまま誦じたのだろうが、引用した一節に出てきた『くらおかみ』とはおそらく闇龗。龍を意味しているのだろう。偶然にも元いた世界の知識がここで役立つとは。
さらに言えば、『龍』は神と同等の扱いだったはずだ。龍人が信仰している対象にも辻褄がぴたりと合う。
神殿は龍を邪なものとし、塔は神を荒れ狂うものと嫌う。鏡写しの対照的な構造がはっきりと見えてきた。
「なぁ、セリナ。龍人ってなんなんだ……?」
「それは――」
「私から話しましょう」と、暗闇の奥から男の声が割って入る。
姿が見えないが、そばにいたセリナがはっとして殺気立つのを感じ、ウツロも身構えて声の方をじっと睨んだ。
「初めましてでは、ありませんねぇ」
男の声はうねるように石窟の縦穴に響く。こちらに近づいてくる姿は闇に紛れ、輪郭だけがかろうじて捉えられた。
会うのはこれが初めてではない……とすれば――
「集落を焼いた者の一人か」ウツロは言い当てる。
「ご名答」男は指を鳴らし、内壁の灯石が青く光る。「ここで争うつもりはありません……せっかくここまでお越し頂いたのですから」
照らされた室内で男は頭を垂れて歓迎した。口元には柔らかな笑みさえ浮かんでいる。
対するウツロは会釈も返さずに男を見つめる。こいつが禍人の知将……此度の戦役で継承者を翻弄した詭計の首謀者……。
肩にかかるほどの長髪は毛先の一部が染色に痛み白くなっている。額の頭角を晒してこちらに対する顔は一目で病的と理解できるほど窶れており、目の下には墨をひいたように濃い隈がある。纏う衣服は寝巻きか外套か、裾の長いくたびれた生成の前合わせに草履を履いている。一見して凶器は持っていないようだが、集落では外套の内側に針の暗器を隠していた。おそらく今も懐に忍ばせているだろう。ウツロは構えを解きはしたが、警戒は怠らなかった。
「……ハラヴァン……!」セリナは未だ視線も厳しく、敵対関係であるウツロよりも一触即発の気配を纏っている。「なぜ私を裏切った……!!」
「裏切ってなどおりません」男――ハラヴァンの表情は崩れない。「あなたは出会ったときから空の器として完成していた。そしてその器を最適に使うのが私の使命でした」
「ならなんであんな糞喰らいに私を……!」
「無論、最適だったからです」
ハラヴァンの表情に険はないが、言い様は素っ気がない。
事情はわからないが仲間同士であった二人は確執があるようで、セリナ――いや、ここではニァルミドゥか――の怒りは収まらない。
「最適? 私を餌にする必要なんかなかった! 私が龍になれば――」
「いいえ。それは違いますねぇ……、もちろん感情の面では私も君を失うのは残念でしたが、しかし龍に至る絶望を迎えたヨナハを捨てるわけにはいきません。
それに、ヨナハが龍となれば失敗作であったユラも戦力として揃えられるのですから迷う手はありません」
両者の剣呑な言い争いはハラヴァンが優勢に見えた。余裕のある超然とした態度がウツロにそう思わせるのだろうか。
「実際、強かったでしょう?」ハラヴァンは不意に視線をウツロに向けた。
「……災禍の龍のことか」と、ウツロ。
「ええ」
「強敵だった」
「……ふふ、素直に認められるとかえって始末が悪いですねぇ。あなたはそれを倒し、ここまでやって来たのですから」
ウツロとハラヴァンに会話が移り、ニァルミドゥはむっとした表情で睨む。彼女は災禍の龍本体であるヨナハに取り込まれ、戦闘時の意識がなかったのだ。どれほどの脅威となってヨナハが前線を蹂躙したのかを知らないのである。




