121話 祈りの火
「居ないのかよ、オロル……おぅい」
「……フリウラか……?」
意図せず嗄れてか細い声になったのを誤魔化すために咳をして誤魔化す。
「すまんな。忙しくて会えんなった」
「……本当にいるとは驚いた……」フリウラは呼んでおいてそんなことを言う。「ここんとこずっとか?」
「まぁの。こうでもしないと選ばれん」
「もう夜じゃに」
フリウラの言葉で初めて夜になったことを知る。
篭りきりだったうえに部屋では常に灯り石を燈していたため、昼と夜の感覚が鈍くなっていた。
「心配したんが、元気かよ」
「あぁ……」
「……顔が見たい。中入っていいがん?」とフリウラ。
「構わんが、鍵は親が持っとるぞ」
わしがそう応えると、無言ながらぞっとしたような彼の息遣いが壁越しに聞こえた気がした。
「……出られんとか?」
わしはその問いに答えなかった。親によって軟禁されているなんて大っぴらにしたくなかったからだ。しかし、沈黙が答えでもあった。
「……酷いこつすんがね……待ってろオロル」
フリウラの声に怒りが兆した。
岩がちな砂浜を歩く気配が入口の扉にたどり着き、錠をがちゃがちゃといじり始める。
木材の板で覆っただけの小屋は簡素な造りで壁を壊せば出られないこともないが、わしは期待を裏切ることへの恐ろしさに囚われ、出られなくなっている。狭い島の里しか世界を知らないわしは、家族の繋がりがとても重要なものだと考えていたのだ。
扉に掛けられた錠は納屋として使用していたときからのものだ。扉と壁に取り付けた金具に閂を掛って、さらに鎖で繋いで巾着錠を施している。漁で使う大事な道具を盗まれないようにするための錠前であるが、今は娘を閉じ込めるために使われている。それをフリウラは壊してしまうと思い至り、わしは声を荒げた。
「やめろ! 壊したらいかん!!」
鎖を壊すということは、家族の繋がりを壊すと同義だ。そうなればこの里に居場所はない。失望されて、家族に見捨てられてしまう。
「問題ないがん」フリウラは言う。「今開けちゃるけぇ」
壁の隙間越しに光が漏れて、わしは眩しさに目を細める。魔呪術による燐光だった。
小屋の外ではがちゃりと小気味の良い音が一つ響いて、閂が引き抜かれ鎖が地面に落ちる音が聞こえる。
開かれた扉の向こう、星空の広がる浜を背にしてフリウラが立っていた。
「錠を開ける魔術だに」
手柄顔でフリウラは手に持った鍵を見せつける。扉も錠も壊してはいなかった。軽石で創り出した即席の合鍵を拵えたのだ。
「来いよ、オロル」
フリウラは手を伸ばす。わしは誘われるままに月明かりの照らす彼の元に歩み寄る。
手に触れようとしたとき、彼はわしの背に腕を回して抱き寄せた。
「いつでも連れ出しちゃる」
触れ合うフリウラの肌は海風に冷えていたが、その奥の芯から伝わる体温が暖かかった。鼻を埋めた彼の胸の匂いに思わず気が緩んでしまったが、問題が解決したわけではない。そっと引き剥がし、わしは首を振る。
「でも……いかん……」
「何が」
「わしは出来損ないじゃ、外に連れ出されては、とても許されんのじゃ」
「外に出ることに許すも許されるもあるか。閉じ込められとっちゃろ」
「なるためじゃ。継承者になるためじゃ。こうでもしなければ期待に応えられん」
わしには才能がないのだから。
人よりも辛い努力をせねば、きっと神にも、親にも、認められない。
「そんなん間違うとるがに」
フリウラは語気を強めて訴える。見つめ合う彼の瞳は涙が滲んでいた。
「追い込んば追い込んほど上手なるわけじゃながん。
泳げんやつ沖に投げ込めば必死になって泳げると思おか? ……そいと同じじゃ」
フリウラは手を引いて夜の浜へわしを連れ出す。真っ暗な闇に潮騒が寄せては返し、頬に飛沫がかかる。
「まず泳ぐには浅瀬から、そんあとに足がつかない場所へ進む。オロルはいきなり真っ暗な海ん中放り込まれて、もがいて、苦しんでるだけがん」
フリウラの声音は優しかったが、言葉はわしの本心を見透かしているようで、鋭く尖っていた。
――わしは苦しんでいる。その姿を見せつければ親が諦めてくれると思っていた。許されると思っていた。
与えられた書はどれもこれもが難解で、読める文字は全体の一割もなかった。当然だ。勝手を知らない親のもとで学ぶ以上、段階を踏むことさえままならないのだ。まず識字から学ぶ必要があることさえわかっていない。
わしはその書の言葉が何を伝えようとしているのかを、図や挿絵からくみ取り、文字を解読するところから始めていたのだ。
「……でも、やっぱし凄いわ」フリウラが言う。
「なにがじゃ?」
「読めん文字の解読から始めて、小屋ん中の灯石に術式を込めたがん。普通は出来ん」
フリウラは小屋の奥、書が置かれたままの卓を示す。そこには灯石が燈っている。難易度で言えば初歩の初歩だが、術式構築の心得がなければできないことだ。識字すらままならなかったわしにとってはやっと魔呪術の一歩を踏み出せたと言える。
「……試行錯誤を繰り返しただけじゃ。これしきで何度も躓いたわ」
「そいが才能じゃがん。オロルは女神んなる。絶対」フリウラは机に転がる、まだ灯りの燈っていない灯石を一粒摘み、手の中で祈りを込める。
米粒程の欠片が薄暗い闇の中で橙色に発光し、フリウラはそれを差し出した。
「祈りの火じゃ。これを飲めば願いが叶う」
「なんじゃそれ」
「女神の御呪いがに。火ば石ん宿したら、そいが護っちくれる」
互いに色恋も知らぬ子供とはいえ、歳の近い男に『女神』だなんだと真っ直ぐに言われるとむず痒い。しかし悪い気はしなかった。後で知ることになるが、この呪いは『心像灯火』の儀式が口伝の内に間違って伝わったものらしい。
わしは皿のように広げ差し出された彼の手のひらから灯石を受け取り、口に含んで飲み込んだ。
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「――まぁ、あやつの言葉に乗せられて、わしは三女継承者に選ばれ、ここにおるわけじゃな」
過去話に区切りが付き、オロルは一息ついて手袋の裾を摘んで手遊びをする。
初めは胸咽びながら聞き流していたアーミラも、幾分か落ち着きを取り戻し後半はきちんと耳を傾けていた。
「……思っていたよりも裕福な家柄ではなかったんですね」と、涙声でアーミラは言う。一度洟をすすって、「意外でした」と続けた。
「当代が揃う初めの頃はわしだけが田舎者なんじゃと身構えておったからな。今じゃから言えるが、気を張っておったよ」
オロルが口の端を吊り上げてみせると、アーミラも笑みで応えた。
「では、帰ったら彼に会いに行くんですか?」
「……いや――」オロルは痛痒を堪えるような顔をした。「――これは叶わなかった恋の話じゃ。大した慰めにはならんな」
言い淀むオロルの態度にアーミラは気付いた。だが、オロルは笑みを残したまま外の景色を眺めてはじめので、気にしないことにした。島の思い出を語ったのは、傷心に寄り添おうとしたオロルなりの優しさなのだろう。
もとより死すら覚悟した出征だった。こうして生きて帰れることの有り難みを忘れてはいけない。後悔というのは、多少なり贅沢な悩みなのだ。
戻る場所がある。会いたい人がいる。それだけで十分だとアーミラは思うことにした。――今は幌に揺られながら帰路を眺めるひとときに心を癒そう。
私たちは使命を全うした……継承者として兵戈を奮う以上、どうしたって禍根は残るが、とにかくやり遂げた。もう、戦わなくていいのだ。それがなにより救いだった。
ナルトリポカ集落は焼けてしまったけれど、アダンとシーナは生きている。私の帰りを待ってくれている。きっとオロルやガントールにも、帰りを待つ人がいる。




