120話 変わってんなぁ思うてな
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――わしの手の平に刻印が宿ったのは、十の頃じゃった。
あのころはこの化け物じみた手もまだ気娘らしい綺麗なもんじゃったが、神は狙い澄ましてこの手に雷を叩き込みおった。
それはもう焼けるように熱くてのぅ、指が飛び散ってなくなるかと思ったわ……。
場所はムーンケイの西。沖合に波の泡立つ島嶼部。
その島々に生きる卜部族の里が、わしの故郷だった。
今でもはっきりと思い出せる。その日は海が時化ていて、空はごろごろと機嫌の悪い雷鳴が轟いていた。
厚い曇天越し、稲光に紛れて巨大な光の輪が覗いていた。
当時のわしは、浜辺の小屋で漁に使う網の手入れを手伝っていた。薄暗い小屋が突然真っ白になっても、なにが起きたのかすぐにはわからなかった。雷が屋根を吹き飛ばしたのだ。
焼けた腕をだらりとぶら下げながら、わしはただ呆然と天を仰いでいた。痛みに打ちのめされていた。
傍らで作業をしていた両親も心底驚いた顔をしていたが、この雷が神の宣告だと理解したとき、泣いて喜び、わしを抱きしめた。
理不尽な痛みを耐え抜いた子供を祝福するようだった。
わしは痛む全身をなんとか踏ん張り、父と母の背に手をまわす。そして、掌に刻印が刻まれていることに気付いた。きらきらと金糸の刺繍を施したような精緻な刺青……しかしその輝きはすぐに色褪せ、熱を失い消えてしまった。
そう、消えてしまったのだ。わしは神に選ばれかけていた……両親にとってはそれで十分だったのだろう。
この日を境に、親は取り憑かれたように魔呪術の知識を買い集めるようになった。
決して裕福ではないというのに、家財を売っては本土に通い、漁の利益を上げるために収穫の大半を競りにかけた。食卓で消費するはずの取り分さえ絞って書を求め、欲しいなんて一言も言っていないわしに嬉々として与えた。
神の気まぐれにぬか喜びした親は、「もう一度」と奇跡に執われ、まだ幼いわしを継承者に相応しい娘に育てようと躍起になった。
「……わしは海が好きなんに、毎日部屋に閉じ込めよるのじゃ。どう思う?」
不満を口にすると、彼はなにがそんなに面白いのか、大仰に笑う。
「そうけそうけ、オロルは海が好きか」
「何が可笑しい?」
「いやぁ、泳げもせんに海が好きち、変わってんなぁ思うてな」
わしの悩みを真剣に聞いていないのか、彼は口元に笑みを残したまま、海に夕陽が沈む様を眺めていた。
「なんじゃい、フリウラの阿呆」
――人が大真面目に話しているのに。
これから先、ずっと部屋に籠って勉学に励むなんて、当時のわしにはとてもじゃないが無理だと思った。
卜部族が生活を営むこの島嶼地域は、北東の大陸に座すマハルドヮグを源流に一代目国家アーゲイと三代目国家ムーンケイの国境を流れる巨大な運河によって土地が侵食されてできた急峻な地形である。島とぶつかった海流が複雑に絡み、海産物が豊富に取れる資源豊かな離島だった。
『海が好き』とは決して半端な気持ちで言ったわけではなかった。
内地でありながら文明発展の波からは離れ、島に棲まうのは主に賢人が占めている。同じムーンケイでありながら、本土の上層、下層とは別に『田舎』として扱われているむきがあり、実際島嶼部の里の者は特有の訛りと独自に発達した卜の魔呪術体系を持つ。
そんな一族の娘であるわしは、勉学に特別興味などなかった。
この里の者がほとんどそうであるように、漁をして日々安穏に過ごせればそれで良いと思っていた。
「才能が眠ってるっちゃろ? 勿体無いと思おぎね」
フリウラは言う。
「眠っとらん。文字だって読めん」
「読めんからこそよ。オロルは才能に気付けてないだけがん。読めるようにないば、そいで初んで気付くさ」
「……そう言って――」
わしは冷ややかな視線を送る。
「――お主は仲間が増えるのが嬉しいだけじゃろ」
フリウラがやけにわしの才能を期待しているのは、確信があったわけではない。座学仲間が欲しいだけなのだ。
島嶼部に独自に発達した魔呪術……それは遡れば里の者達が飢餓に苦しんだ過去の歴史に起源を持つ。潮風に晒される岩だらけの土地は作物に適さず、船を出せば急峻な海溝によって形成された渦潮に溺れる。この地で漁を生業とするには、気候を読み、船を制する魔呪術が必須だった。風向きや空模様から時化を見極めた才ある者が里の者を導く卜部の長となり……その風習はいつしか気候を操り、海を制するものとして今も続いている。
彼はつまり、次の島の長として座学に一人励んでいたのだ。
ここに来てわしという仲間ができたことが嬉しいのだろう。
「わからんことがあいば俺が教えちゃる。そんでオロルは女神ん継承者になんがいい」
「継承者になったら島から出ていくんじゃぞ? わかっておるのか」
「漁と同じじゃあ。たくさん獲って、終わったら帰ってきたらいいがん」
図太いのか能天気なのか、フリウラはあっけらかんとして笑う。
そんな彼に背中を押される形で、興味のなかった魔呪術に対しての座学もなんとか続けることができた。互いに研鑽し、彼は長を、わしは三女継承者を目指したのだ。
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あかるい志しとは裏腹に、親は次第に笑顔を見せなくなった。
理由なら明らかだ。端的に言って、心の余裕を失くしている。
あの日ほんの一瞬刻印が宿ったというだけで家財一切を捨てて魔呪術の書と交換してしまったのだ。殺風景になった我が家にあるのは小さな卓と漁の道具、そして高価な書がたった五冊。それだけだった。
その掛け金と吊り合う結果を手に入れるまで、親はわしを許してくれないだろう。
信じた可能性に賭けて金も生活も切り売りし、わしが神に選ばれることを今かいまかと待ち望んでいる。今にして思えば愚かな親だったが、当時のわしには異を唱える頭も、抵抗する力もなかった。漁師である父は特に恐ろしく、鍛えられた太い腕は撚った縄のようで、その腕で拳骨を振るわれでもしたらひとたまりもないだろう。せっかく頭に詰め込んだ知識も全部星となって散りそうだ。
声に出してわしを責めないのは、才能が開花することをまだ諦めていないからで、今更「継承者になりたくない」とは言えず、わしは期待を背負うしかなかった。
……掌に掴み損ねた栄光を追いかけ、報われるかもわからない努力をひたすらに積み上げる。終わりが見えない焦燥に結果は付いて来ず、そんなわしの姿に親は苛立ちはじめていた。それがわかるからこそ、余計に焦り、勉学に身が入らない。悪循環だった。
支払ったものが多ければ多いほど、後戻りは難しくなる。親がそうしたように、わしもまた様々なものを犠牲にして机に向かっていた。
十一歳になると部屋の外へ出ることも許されなくなってしまった。
「おぅい……、オロル、居るか…… 」
小屋の外から呼びかける声が聴こえる。
「む……」
そう声に出して、今日初めて声を出したと気付く。……いや、今日どころか数日ぶりかもしれない。机に向かっていた集中力が霧散して、外に意識が向いた。




