ニホン……それが、故郷ですか?
「ニホン……それが、故郷ですか? 聞いたことはありませんが、昔はそんな名前の集落があったんですかね」
アーミラは独り言のように呟いて推理するが、鎧はそれについて反応しない。
「フメイ、記憶は不明……。ですが貴方は四代目継承者を見たことがあるはずですよね」
鎧は頷く。
「先代はどのような方でしたか?」
鎧は黙ってアーミラを見ると、背負い直して前を向いた。どことなく機嫌を損ねたような気がした。心があるのかないのかはわからないが、鎧が先代によって生み出され、今ここにいるということは、先代の死を見届けたのだろう。
やはり踏み込みすぎたのだ。
アーミラは不躾にあれこれと聞いていたことを反省し黙って背中に揺られることにした。
前方から後方へ流れていく針葉樹の景色。気温を高めていく山の気候。たゆみのない律動に揺られ登坂する景色に代わり映えはなく、その内にアーミラは瞼が重くなっていく。
うとうとと舟を漕ぎ出して、意識の舫いを解くと夢の中へ落ちていった。
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ガントールが単身、三代目国家ムーンケイの国境を跨いだのは鎧が二代目国家入りした時分よりも先のことであった。
崖がちな傾斜のきつい山肌に拓かれた蜿蜒たる路、本来であれば時間を要する道程を、彼女は一足飛びに跳躍して、『降りる』というよりも『落ちる』ようにムーンケイに辿り着いた。彼女の移動方法は尋常ではない。女神の継承、そして獣人種の血。その二つが彼女にこの跳躍を可能にしていた。
ムーンケイは神殿から南西に下った山嶺の中腹にある卓状地周辺に築かれた国家であり、安定した鎔鉱炉を常時操業し金銀銅と貨幣の造幣を一任されている。主に賢人種が多く住む都市である。また、卓状地の首都周辺を『上層』、卓状地の下の街は『下層』と区分されており、刻印が現れたのは距離からして下層であるとのことだった。ガントールは背嚢を背負い直すと、改めて方角を確かめる。目的地の方角に目星をつけると黒染の長衣に笠を被って先を急ぐ。
「これがムーンケイ……これが内地か……すごいな……」
神殿からムーンケイへ辿り着いたガントールが、初めて訪れる都市の夜景に思わず零れ出た言葉だ。
造幣操業により燃え続ける焰と、魔呪術の研鑽による文明の混淆する様は圧巻。磨き抜かれた金物に炎の揺らめきが煌々と街を照らし夜闇を隅に払い退けている。
夜半にも関わらず賑わいを見せる市場はいつもこうなのか、あるいはこの日が特別なのか、往来が激しく人でごった返しており、手練の戦士や術師が一級の品々の真贋を見極めようと忙しない。彼等は前線へ向かうものか、或いは帰還した者達か、鋭い目つきと剣幕で店の者相手に値段の交渉をしている。相手に立つ店番も慣れたもので、「傷があれば、その石は正真正銘の天然物の証拠である」だの、「魔導書が古びているのはそれだけ重用されたということ」だの、吝嗇な文句を涼しく受け流している。通り過ぎざまに聞き流しているガントールには、どちらの言い分が正しいかはわからない。
マハルドヮグ山脈から南下した山行は、この後ムーンケイの卓状地を迂回して下層へ向かい、海峡に途切れた港湾都市は一代目国家アーゲイへ続く海路につながっている。その海域の間に点在する島嶼部こそガントールの向かう目的地だが、彼女は卓状地の迂回を考えてはいなかった。
山の断崖を落ちるように、この街を突っ切ってしまえば早いという算段だ。
先を急ぐと決めていても、やはり道中腹は減る。ここまでの道で十分に時間と距離を稼いだのだからと、ガントールは休憩がてら歩を緩めて物見遊山に街を逍遥する。外套に身を包んで身分を隠しているため傍から見たら旅人にしか見えないだろう。
手頃な飯を探して露店を冷やかしては目についた炙り肉の串を買うと、次はどの露店へ行こうかとふらつきながら一口頬張る。
活気のある露店に雑多な往来、のべつ幕無しと耳につんざく人々の声……宵の縁に灯る灯籠は鎔鉱炉から噴き出す焔に似て活気があり、この街の生命力を表しているようだ。そして行く先には仲間との出会いが待つ。ガントールの心は浮足立っていた。
串を平らげて市場を抜けた上層の崖際、そこから下層を一望すると、星空を地上に再現したかのような街の景色が広がる。
「これは……」ガントールは言葉を失う。
まさに地上に再現された星空。その小さな輝きの一つ一つが魔鉱石に燈された灯りであり、その数だけ人の営みがある。下層でもこれほどまでに魔導具が普及しているのなら、やはり魔呪術の研鑽が日夜行われているのだろう。流石は賢人の都。
眼下の絶景を眺めてガントールは歳相応の態度で目を輝かせた。吸い込む空気は立ち昇る火の粉に熱気をはらんでいて気を昂ぶらせる。ガントールはこれまでの疲れも忘れ、唇を舐めて口角を吊り上げると、卓状地の崖際から下層を眺め下ろして飛び降りた。
ガントールが向かった下層、島嶼部への航路が繋がる港湾では、上層の炉にも負けぬ喧騒と賑わいを見せ、まさにその只中にこそ三女継承者はいた……いや、待ち構えていたのだった。
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三女継承、チクタク・オロルがこの港湾に足をおろしたのは同日の夕暮れ時であった。彼女はまるでこの日が来ることを予知していたかのように落ち着いていた。
手袋を嵌めた自身の掌に視線を落とすと物憂げにしばし見つめ、顔を上げると海凪の向こう、生まれ故郷の諸島を目に焼き付けるように眺める。その顔は面映ゆく望郷に思い馳せるには厳しい視線で、怒りさえも滲んでいるように見えた。
島は夕日を背に逆光が照らし、黒く陰り輪郭を描く船が波の随揺られながら帰っていくのが見える。帰らないのは己だけだと心に決めて、オロルは港湾を歩き出す。沈みゆく西日の鋭いきらめきに耳飾りが反射した。
彼女が纏う外套は首を通すだけの造りで丈も短く袖もないが装飾は隙間なく曼荼羅模様に埋め尽くされており、広がった裾の内側には前掛けが揺れている。冷徹な印象を持つ金色の瞳は世界を見定めんと油断がない。
白っぽい衣装に対してそこから覗く素肌は夕日に濃い褐色を照り映えて、背丈も十を数える程度に見えた。この上背の小ささと琥珀を焦がしたような肌の色は賢人種の血特有のものだ。その肌の上には赤土の泥を塗っている。民族的な頬紅は賢人種の中のさらに一部族に属する出自の者であることを示す。
そんな少女の姿はどこか斜に構えたような出で立ちで物怖じがなく、肝が座っているような印象がある。腰に手を当てて港を歩き、口元には小癪な笑みさえも浮かべていた。短く整えられた髪は瞳と同じ金色で、潮風に撥ねた癖毛を踊らせている。
彼女は下層の街に入るとすぐに雑多な人の波を潜り抜け、教会堂まで辿り着くと司祭に対して手袋を外してみせた。それだけで身分の証明は事足りた。司祭は伝え聞いていたものよりも強烈な継承者の到来に、驚きと畏怖の綯交ぜになった面持ちで歓迎した。
その後、急拵えの宴席が野外に設けられた。儀式めいたものではなく、オロルがこの場にいる間だけでも言祝ぎの体裁を整えようと司祭が人を集めたのだ。噂を聞きつけた下層の住民たちは継承者の姿を一目見ようと駆け寄り集まり、教会から広場までの道という道は人で埋まった。
教会前に設置された玉座に鎮座するオロルは既に片足の靴を脱いで膝を立てると、肘を乗せて寛いでいた。司祭の大時代的な歓待と大仰な挨拶を前にしてもまるで言葉を知らない猫のように、いっそふてぶてしい程に視線を跳ね返している。崇め奉られて当然という態度は堂に入ったもので、そこに演技然としたものもなければ気負った背伸びもない。そうして、女神としての威厳を発揮しながら、供される酒食にこれ幸いと箸をつけ夕餉にありつけるのであった。