116話 守り抜いたってわけだ
そのまま刃を滑らせて三前趾足の付け根の筋肉を深く断ち切る。トガの握力は弱まり、傷ついた太い血管から溢れ出した大量の血を全身に浴びた。流血の熱と共に、トガの体を満たしていた圧まで抜けていくのがわかる。噛み付く顎の力も萎びて弱まり、俺は拘束を振り解く。
流石のトガでも耐え難い痛みのようで、尾を振り回してじたばたと暴れ回る。これほどまでに痛むならと自ら傷口を砕けた岩に叩きつけて趾を自切した。出血は治っているが体力を消耗して瀕死のようだ。こちらを見据えたまま退却を始めた。勝敗は付いたが生かしてはおけない。とどめを刺すべく俺は追いかける。
木々の隙間を縫うように闇の中を遁走するトガであったが、尽きぬ体力があれば、追いついて仕留めるのは容易いことだった。
集落は滞りなく朝を迎えて、昨晩に少女と出会った家の前でじっと待っていると、玄関から大人が二人現れた。ここは次女継承者の娘が住んでいると見ていたが、家の主は獣人だった。仲睦まじい男女であることから夫婦と見える。
次女継承者は魔人種の血を持つはずだが、ならば娘は親元を離れて生活していたのだろうかと考える。この世界では幼いうちから親と離れて暮らす者も珍しくないが、内地の娘が事情もなく獣人の家に転がり込むとも思えない。何か事情があるのだろう。
娘の身を案じて何度も洟をすすって見送る育ての母と、気丈に振る舞いながらも帰る家がここにあると示す育ての父。居候の身でありながら、娘同然に愛されて旅立つ少女の姿に、俺は憧れを抱くように目を奪われた。手に入らない尊いものを眺めるような気持ちだった。
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次女継承者の娘はアーミラと名乗った。
アーミラは魔呪術の才を隠してこれまで生きていたようだ。そのせいか袈裟や頭巾に馴染みがないらしく、先代と同じ装いの法衣を神殿から支給されても、俺が教えるまでは袈裟を丸めて頭巾を雑嚢のようにしていた。
彼女の振る舞いは掴みどころがなく、多弁であると同時に朴訥でもあり、おどおどとしていながら肝は据わっている。よく泣くが泣き言は口にせず、弱々しいながらも時折に誰よりも強い瞬間がある。
アーミラは俺に対してはすぐに打ち解け、妙に人懐こい印象があったが、他人には心を開く素振りがない。おそらく裏表のない素直な性格が悪い方に働いて、嘘がつけない故に人付き合いに苦労したのだろう――デレシスとは正反対の娘だったが、俺はアーミラのような娘をどこか昔にも世話を焼いていたような気がしていた。
そのことを思い出そうとする度に、狭く四角い空間が思い浮かぶ。『病室』、『二〇二』という言葉を伴って頭の中に靄をかける。
遠い昔、大切だったもの。
大切であるがゆえに、記憶の深いところに仕舞いこみ、それきり忘れてしまったもの。
思い出さなければいけないのだという焦燥が俺を苛み心を切なく締め付けるのだが、夜毎思い馳せてもこの靄がはっきりとした形になることはなかった。
初めに予感があったのは出征の後……ナルトリポカ集落が襲われた夜のことだ。
ムーンケイに馬を係留し宿をとった五代目継承者一行であるが、宿ではアーミラが盗人か巾着切りにあったと騒ぐ。三人が失せ物を探している間、廊下で待機していた俺はしばらく経ってから様子を見に戻る。
静寂と虚無の中もぬけの殻になった宿部屋に立ち尽くし、三人を探して部屋の中を歩き回り、事情を理解した。
俺は杖を通り過ぎて窓の方へ向かい、木枠と格子が嵌められていることを確認して、外へ出た可能性は低いことを確かめる。三人は天球儀の杖のなかへ消えたようだった。おそらくアーミラの失せ物もそこで見つかっただろう。
窓を閉めようとしたとき、空耳が聴こえた。
『あそこに敵がいる』と囁く声。見えざる者の手に操られるように、首が勝手にナルトリポカ集落へと向いた。『走りな』と、再び聴こえた声に命じられる。
宿を出る前に継承者達を呼び集めるべきかとも悩んだが、結局一人で向かった。娘達を今度こそ護る――ならば危険が迫っている場所に連れてはいけないと判断したのだ。
その時の俺は、残忍惨毒を絵に描いたような光景を前に禍人と相対していた。収穫を待つ畑も、石積の家々も、一切が火の海に沈んでいた。
禍人の凶手が、アーミラにとって大切な人さえも奪おうとしていた。首を掻き切らんとする危うい場面で、俺はたまらず槍を投げ――横から女が現れた。
俺の槍を弾き、禍人に与する女。その額には頭角がない。
敵は間諜の三人。女の歳は継承者の娘と同じくらいに見えたが、境遇が違えば纏う衣装も違いが出る。女は裸同然の襤褸布一枚で戦場に立っていた。
槍を投げてしまった俺は武器を失った。
だが、もし武器があったとしても、あの女とは戦えなかったのではないか――そんな気がした。
獣人とも魔人とも賢人とも異なる何者でもない女。頭巾で顔を隠しているが、その姿を直視するだけで俺の思考は掻き乱される。理性よりもっと深いところで体が縛られるような感覚があった。
得体の知れない呪術にかけられたのだと判断した俺は、ひたすらに防戦に努め、鎧の体を盾にしてアーミラの育ての親を護ることに努めた。幸い敵の撤退は早かった。
守りに徹する俺をみて、固執するよりも次の一手を優先したのだろう。顔を隠した男が南の方角へ退がり、夜の闇に溶ける。戦闘が収まる。
間諜がここを去ってからも俺は闇を睨み続けた。あの女のことが気がかりだった。
振る舞いや言葉遣い、襤褸布から覗く青白い体もそうだ。言葉にはできないが、異なる世界からやってきた者特有の気配を纏わせていた。
異なる世界――そんなもの、二百年の歳月に忘れ去っていた。
自分が人間だった頃の記憶なんてただの幻想に過ぎないと忘我の内に切り捨て、初めからただの魔導具なのだと自分を定義していた。
前世の記憶を持っている〈という妄念に囚われた戦闘魔導具〉。それが俺だ。
だが、あの女に感じる予感はなんなのだろう。
角が無く、代わりに尾を持つ化け物の女。頭巾に隠した顔から覗く口元の笑み。姿を思い浮かべるだけで、靄がかかっていたあの『病室』が、明瞭に色づくのがわかる。
あの女は俺と同じだ。
戦いに信仰を必要としていない。
正義も大義も持ち合わせず、求められるから戦っている。空っぽで他人事の態度が俺を確信させる。
――次会うときには問いたださなければ……しかし声のない俺がどうやって……?




