115話 もう一度問います……誰ですか?
ガントールは照れたように笑い、自分のことを語ってくれた。
曰く、ラーンマクはスペルアベルで攻めあぐねている際に戦士の男との間に子を授かっていたのだという。俺が仲間になる前のことだ。
驚くことに身重の体でありながら戦場に立ち、出産の迫った前後のみ戦線を離れた。戦士の男の家系に子を預け、その後スペルアベルを領地として手に入れる活躍を見せたが、蛇堕に敗れて帰らぬ人となった。
リナルディ家は、その後土地を移り、生業だった屠畜の仕事から前線維持に努める戦士を輩出し、名家となった後に辺境伯へ上り詰めたという。
「表立って語られてはいないが、先代長女継承者は女神の肩書きにそぐわぬ色好きだと聞いた。ウツロはそのあたりも知っているのだろう? どうだった?」
俺はこくりと頷く。確かにラーンマクは誇り高い戦士であると同時に色好きという欠点があった。素行を鑑みれば子を儲けていたとしても不思議はない。あまりに見つめ過ぎたせいか、ガントールは何か勘違いしたようで、慌てて手を振り否定する。
「私もそうだと思うなよ。そこだけは似ていない。断じて」
……そうして、俺は二百年ぶりに継承者と出会った。
ラーンマクの血は獣人種の中でも優れているらしく、末裔のリナルディ家の娘が再び神に選ばれた。
或いはデレシスやアルクトィスが子を産んでいたなら、結果はどうだったのだろうかとも思う。ラーンマクの褒められない素行が結果としてこの世に子孫を残せたというのは、周り巡って良いことのように思えた。
当代は三女神のうち長女継承者の一人しか現れなかった。
俺からしたら残る二人が揃わないのは落ち着かないが、長い戦役の歴史から見れば三人揃っている四代目が珍しいのだとガントールは言う。
「一度に三柱が揃う幸運に恵まれたのは先代だけだ。だからこそ反動で二百年の休息が必要だったのかもしれない」
たった一人の継承者出征になると誰もが思っていた。
事態が急変したのは、式典を控え、準備に追われていた七日前のこと。
突如霹靂として空に陣が現出し、ナルトリポカとムーンケイから娘が選ばれた。
全く異なる運命の導きによって次女継承者と三女継承者が神殿に招かれることになる。まさにその案内役に俺は選ばれ、娘を護るために神殿を出発した。外へ出るのも久しぶりのことで、俺は舗装された山道を一歩一歩確かめるように南へ下った。
二代目国家ナルトリポカの目的の集落にたどり着く頃にはあたりはすっかり日も暮れていた。
めでたい祝い事に集落では祝宴が開かれていたのだろう。露天は卓も片付けず、杯には飲みさしの酒が残っていた。
寝静まった夜の集落を彷徨き、一軒の家の前、夜風に涼む娘を見つける。
貫頭衣を纏うどこにでもいるような内地の娘……だが、言い表せない直感が、この娘を継承者だと理解した。デレシスとは決して似て似つかぬ娘だが、この直感は正しかった。
俺は月光に仄明るく照らされる娘をじっと見つめていた。鎧の体を木立の影に潜ませて、まさか気取られるとは思いもしなかった。
「誰、ですか……?」
囁きかけるような声で娘は問いかける。物腰は柔らかいが、目を凝らすようにこちらに首を向けていた。俺の気配がどこにいるのか確信しているようだった。
「もう一度問います……誰ですか?」
はっきりと俺に向けて声をかけている。内地で生まれ育った勘の鋭さではない。それに腹も据わっている。もし俺が敵意を持つ者だとしても対応できるとでも言いたげな態度だった。
俺は呼びかけに答える代わりに伝言を残し、その場を後にした。今宵はもう遅く、挨拶の機会を失している。明日の朝に出直して、護衛に専念することにした。
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近衛隊集堂でカムロが危ぶんでいた通り、継承者を狙う咎は湧いていた。
集落の外れにある鬱蒼とした木々の闇から現れたそれは、蠍によく似た特徴を有し、体躯は馬車に匹敵する程に大きい。
本来なら触肢には鋏がついているのが自然だが、このトガが前方に掲げているのは牙の並ぶ二揃いの口だった。巨大な人の顎を模した部位を無理に継ぎ接ぎして形を整えたように口と触肢の境は呪術の刻まれた襤褸が巻かれており、口の皮を無理矢理引き伸ばして甲殻に打ち付けるように金具で留められている。
相変わらず禍々しい化け物……いや、二百年のときを経ていっそう奇妙な存在になったか。
これ以上集落へ接近を許せばきっとあの娘は気付くだろう。ここで過ごす最後の夜だ、静かに始末したい――そう考え、俺は得物を構えた。
――思えば戦うのも久しぶりだ。ガントールとは何度か手合わせをしているが、命を奪う実践となると二百年の空白がある。戦場の感覚は鈍っているだろう。
そんな及び腰な俺を見透かしたようにトガは大胆に距離を詰める。思考の読めない真っ黒な玉の目は月夜を映し、甲殻に覆われた巨体をくねらせ木々の間をすり抜け、八本の脚を器用に操り音もなくこちらに迫る。
闇を絡めた木立の隙間から触肢が噛みつき、それを躱すと別の方向から追撃が迫る。トガは一体のはずなのにまるで複数を相手取っているようだった。
俺は後ろへ跳んで間合いを保った。しかし侵攻を許せば集落に近付けさせてしまうため、槍の届く距離で触肢の柔らかそうな唇の部分を狙って反撃も織り込む。
大型のトガという見掛けにやや圧倒されていたが、冷静に一撃、二撃と槍で突けば実力は虚仮威し、次第にこちらが優勢になる。
倒せる相手だと判断して間合いをこちらから詰めたとき、待っていたように尾が頭上から迫る。蠍の尾の先端には毒針があるものだが、鎧の体に効く訳がない。だから脅威として数えなかった――それが油断だった。
あくまで敵は蠍ではなくトガなのだ。毒針と決めてかかった尾の先端は尖っていなかった。それは蠍の尾に替わる三前趾足という、刺叉のように枝分かれした構造を持つ趾だった。。
視界が不意に奪われて俺の体は宙に浮く。大蠍の尾に生えた鉤爪が俺の頭を鷲掴みにして、持ち上げられたのだと理解したときには地面に振り下ろされた。
岩を目掛けて叩きつけられる。容赦のない一撃に全身が撓み、負荷のかかる首の接合部が遠心力に伸ばされる。砕けたのは岩の方だった。
だらりと垂れた俺の四肢を見て仕留めたと判断したであろうトガは、鎧の内側にあるはずの肉を狙い捕食行動に移る。
左右の触肢を構え、トガは大きな口をこれ以上なく開くと生え揃う歯でがぶりと噛み付いた。上半身と下半身にそれぞれの口が噛みつき、俺の体を喰い千切ろうと力を込める。板金はぎしぎしと軋み、胴が捻られる。並の防具では容易く食いちぎられていただろう。
俺は抵抗するために槍を逆手に持ち替え何度も触肢の唇に突き刺す。形だけなら皮膚に覆われた顎ではあるが、この口はあくまで鋏の代わり、急所ではないようだ。効果が薄い。
まだ息があるのかとトガは顎の力を強めた。万力にも等しい咬合に板金が軋む。
ならばと俺は槍を持ち替えて尾を狙う。
この趾が鳥と同じ構造ならば筋を断てばいい。俺は視界を奪われた己の顔面に向けて躊躇なく槍を突き立てる。仕返しだと言わんばかりに何度も筋に刃を沈める。その度にざくざくと、骨ばった硬い肉の手応えがあった。
普通の人間ならば、自分の顔面に向けて刃を突き刺そうなどとてもできないだろう。己を痛めつけ鍛え上げた戦士でも、防具を纏う兵士でもきっと難しい。心でどれだけ命令しても無意識のうちに自己防衛の制御がかかるものだ。
自己を傷つける危険を度外視に動けるのは鎧の体の利点であり、魔導具として過ごした時間の中で人間性が失われた証拠でもあった。




