112話 どんな気分だったの?
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「ごめんね。また君を孤独にさせてしまう……」
禍人領より現れた災厄の化身、荒ぶる龍を前にして、デレシスは謝罪した。
俺は首を振って応える。
――そんなことを言うな。
肩を掴み、励まそうとしたものの、状況を打開する方法は無かった。
「……ねぇ、一度死んだことがある君なら分かる? これから死ぬんだってときは、どんな気分だったの?」
そんなことを聞かれても答えようがない。まさか龍の前で蝋板に書いてみせろとは言わないだろう。
「……困らせたいわけじゃないんだ……あぁ、もう、自分でもどうしていいのか……、ウツロ、聞いて。たった一つだけ、あいつを倒す力があるの」
――なんだと……?
と、俺はデレシスの目を見つめる。
「異世界から齎された『世界を破壊しうる力』……。君が教えてくれた、全く新しい概念だよ。
それはたった一度しか使えなくて、ほんの刹那の光で、見渡す限りの範囲のあらゆる生物が消滅してしまう。
使うべきではない絶大な力……『抑止力』って言うんでしょ?」
これは問うているのではない。わかっていてとぼけているのだ。
デレシスの声は震えていた。己がこれから何を仕出かすのか理解している者特有の笑けたような震えだった。
逃れられぬ死を悟った者の顔だった。
これは俺の責任だ。
彼女がそんな術式を生み出していたとは知らず、肩を掴んだまま、なんの反応もできなかった。
この世界に核兵器の概念を持ち込んでしまったことにただひたすら動揺していた。
継承者の持つ神がかりの才覚を俺は甘く見ていたのだ。
俺が元いた世界と比べ、目に見える文明が未発達だと決めつけて、魔呪術を軽視していた。
特に次女継承者の天球儀の杖は距離を司る。ならば核爆発――特定元素に中性子を衝突させることで生じる莫大な熱量とその連鎖反応――さえも、科学への理解がなくとも独自の経験則や神がかりのひらめきによって原理を生み出し再現することが出来る。何故なら物と物をぶつけるのは距離の問題だからだ。
この危険性に俺が気付けていれば――そんな無理を願ってしまう。
「……じゃあ、終わらせてくるね」
俺はデレシスの腕を掴む。
――待て!
今は一縷の望みであるこの術式が頼りなのは間違いない。核兵器の再現となればあの化け物だって一溜りも無いだろう。だが、それは恐ろしいものだ。デレシスは本気で理解できているのだろうか。
「言いたいことは分かってるつもりだよ。でも行かせて。……ほら、私って裏があるでしょ? 君はまた騙されただけ」
――違う! そうじゃない!!
俺は強く否定する。
「大丈夫だよ……ウツロは優しいから、私がいない世界でも居場所を見つけられる」
デレシスは不意に術をかけ、俺を捕縛した。関節を拘束され、身動きができない。
戸惑う俺に向けて微笑む。
「私が召喚したんだもの、手足を固めるくらいはできるよ」
――やめろ、デレシス……!
「この『奥義』が戦場の全てを消し去っても、鎧の体を持つ君だけは生き残れるかもしれない……後のことは色々押し付けることになるけど、よろしくね」
――待て、頼む……! 死ぬな!!
「……じゃあね――」
彼女は振り向かずに駆け出し、杖を上空へと浮遊させた。それはもはや、一発の核弾頭だった。
天球儀の杖が龍のすぐ近くまで移動する。音もなく降下を始め、ぱっと光る。
世界が、凪いだ。
風が消えた。大地が静まった。龍の咆哮すらも一瞬だけ音を失う。
まるで天地そのものが、恐怖に凍りついたように静かだ。
爆発の中心から、今度は凄まじい爆発の衝撃が広がった。
轟音が後から追いつくよりも早く、熱が、圧力が、世界を塗り潰していく。
何かが崩れる音。何かが砕ける感触。
光の熱が鎧の体さえ焼き尽くし、俺の意識すらも遥か彼方へと吹き飛ばす。
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「やぁ、お目覚めかい?」
ふと気付けば、俺は病室にいた。
忘れもしない、212号室だ。
俺はあの時の服――つまり下は仕事着に上は半袖だ――を着ていて、全身に汗をかいて病室の入り口に立っている。
ベッドの上に妹の姿はなかった。
代わりに、冠のような頭角がある一人の少女が腰掛けている。
その少女は俺が目覚めるのを待っていたと言いたげだが、俺は鎧になっていたはずだ。眠ることも気を失うこともありえないことだったはずだ。
「誰だ?」俺は問う。
「僕は〈コトワリ〉。……挨拶をしておきたくてね、まま、よろしくー」
ベッドに座ったまま、少女はにこやかに手を振る。敵意は感じられないが、名を聞いたところでやはり見覚えはない。
あるいは鎧となって過ごした体験の全てが白昼夢なのか……いや、それなら少女の頭に角があるのはおかしい。
全く理解できない。この空間は何だ……?
「……さっきまで、……俺は、戦場に……」
茫然自失に俺は言葉が出ない。少女に訊ねているのか、胡乱な独り言なのか、自分でもわからなかった。
「そうだよ。『さっきまで君は戦場にいた』」少女は言葉を汲んで教えてくれた。「……流石に鎧の体でも死にかけたね。危ないところだった。ここは君の精神世界さ、記憶によって構築された病室で、君の意識はあの日の姿形をとっている」
「じゃあ、コトワリ……さん。あなたは俺の何なんですか」
俺は恭しく問いかける。
豊かな射干玉の髪と、幼くも生命力に漲る少女の纏う雰囲気は只者ではないと分かる。この空間が俺の記憶、精神世界だと言うなら、見知らぬ少女の存在は異物のはずだ。そんな彼女が俺よりもこの空間に馴染んでいて、当たり前のように存在しているのは何故なのか。疑問に思って当然だった。
少女はにやりと機嫌良くこちらに微笑み、立てた人差し指を口元に運ぶ。
「それは秘密」
これからもよろしく頼むよ。と言って少女は指を前に倒し、それを合図に俺の体が背後から引っ張られる。力強い後方への引力に景色は急速に流れ、病室の扉を抜けると長い廊下の景色が背後から通り抜けていく――
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覚醒を感知した。
鎧の体になってから初めて意識が途切れたように思う。……まさかこの体になって夢を見るとは。いや、あの少女は極限状態が見せた夢や幻ではないだろう。もしかしたら、この世界の上位存在ではないだろうか……コトワリと名乗ったが、つまりは『理』を意味していると考えられる。
だが今は、そんなことを考える余裕はなかった。
もうデレシスはいない。これが、俺の向き合うべき現実だ。
デレシスが俺の目の前から離れていく姿を、どうすることもできず見つめていたはずである。
閃光が目を焼き、鎧の体を焼いた後……今俺は、薄暗い室内にいる。
この状況の前後を繋ぐ記憶が欠落していた。おそらくは意識を失っているうちに誰かが俺をここへ運んだのだろう。あるいはまだ夢の中か。もう、俺にはわからない。
光に吹き飛ばされた衝撃も熱も、鮮明に覚えている。だがしかし、鎧の体は冷え切って、うっすらと埃を被ってさえいた。
明らかに時間が経過している。それも一日二日どころではない。
床に座る形で安置されていた俺は肩に積もった埃を舞い上がらせないようにゆっくりと起き上がる。片膝立ちに手をついたとき、埃の手形が床に残った。この空間は無人で、久しく手入れもされていないのが分かる。例え俺が一人で歩いて来たのだとしても足跡が残るはずだったが、足元には俺の尻の跡しかなかった。




