110話 かみさま
「もうすぐ助かるぞ」
希望が見えてきたと思ったのも束の間。芹那の顔を見てぞっとする。妹は希う面持ちで目に涙を浮かべ俺を見上げていた。
「……だめかも……」
ヘリばかり見上げていて気付かなかったが、僅か数秒で津波は嵩を増していた。景色から推察するにおよそ三階まで汚水に沈んでいる。まさか屋上に届くとは思わないが、倒壊の二文字が脳に浮かんだ。
濁りきった水面も綺麗な海水ではない。ゴミや汚水が混じり、家屋の屋根部分や軽自動車が浮気のように海面に揺れている。
盗難防止のクラクションが助けを求めて虚しく鳴いていた。
見下ろす先の濁流に、うつ伏せに浮かぶ人影を見つけ、俺は慌てて目を逸らした。
今なら見間違いで済むと心の中で言い訳して、下を見ないように努めた。妹はあまりのショックに目を離せないでいるので、半ば強引に車椅子を旋回させて引き剥がした。
「大丈夫、大丈夫だ。早く乗せてもらおう」
自衛隊のヘリがホバリング姿勢で安定すると、垂らしたロープから迷彩柄の隊員が降りてきた。まるで一筋の蜘蛛の糸と亡者の群れだ。恥も外聞もなく病衣の患者が隊員に纏わりつき、我先に助けてくれと取り囲む。
俺は意を決して叫んだ。
「妹は自力では動けないんです! どうか、救助をお願いします!!」
声が届いたか、隊員と目が合った。
一瞬のような気もするし、数秒は妹のことを見ていたようにも思う。きっと隊員にも葛藤があっただろう。誰を救うか、命を選ぶという葛藤が。
そして、隊員は亡者を掻き分けて車椅子をしっかりと掴んだ。
「彼女から乗せる!」
力強い隊員の言葉に俺の緊張の糸がとけた。涙が滲み、泣きそうになる。
妹は助かる……その確信に胸が震えた。
俺もヘリに乗るために隊員に付いて行こうとしたとき、背中を何者かに引かれて逸れてしまう。
亡者の群れの中で俺は体勢を崩し、困惑に声も出せないまま倒れ込む。ロープにしっかりと固定された隊員に抱えられ、妹はゆっくりと吊り上げられていく。
俺に向かって「お兄ちゃん!」と叫ぶ口元が見えた。
救助活動は迅速に行われていた。俺は妹と逸れ、隊員は目の前の人間を助けるので精一杯だ。乗り遅れてしまったが、流石に患者が優先だと自分を律した。
屋上にずしんと振動が伝わる。また地震が来たのかと身構えたが、これは地震ではなかった。病院の建物全体に波が押し寄せ、凭れるように瓦礫の山が絡んでいるせいで構造を支えきれず、崩れかかっているのだ。
――まずい……!
「倒れるぞ!!」
誰かの声と同時、屋上が大きくぐらついて傾いた。場は騒然として身の危険に息を呑む静寂が広がる。
相当な傾斜だった。もし妹がまだ車椅子に乗っていたらフェンスに叩きつけられていたかもしれない。
隊員は今吊り上げている患者を最後に救助を中断し、亡者から罵声を受けながら上空へ避難した。
絶望的な状況に俺は現実味がない。自分の力では解決できないことだけは明らかで、脳みそが縮みあがった気分だった。酷く気持ちが悪い。朝からずっと悪い夢でも見てるようだ。
稔の言葉を思い出す。
『大昔の人々は自然災害に生殺与奪を握られていた。生粋の農耕民族であった日本人がどれだけ土地を耕しても、日照りや火山噴火、あるいは年間雨量の気まぐれによって簡単に何万人もの人が命を落とす飢饉に襲われてしまう。この理不尽に対して折り合いをつけるため、姿の見えない大いなる力に対し人々はまず名前をつけたんだ。』
――かみさま。
足元では何かが崩れるような断裂音と振動が伝わり、屋上に取り残された者は死を覚悟した。おそらく階下の柱が構造を支えきれなくなったのだろう。現に不安定な足場は傾斜を増し、ついには残る一本の柱を起点に波に押されて横滑りに回転した。一階部分が限界を迎え、押しつぶされた二階構造がひしゃげながらかろうじて病院上階を支えている。しかしそれもいつまで持つか……。
院内用のスリッパを履いていた何人かが体勢を崩して斜面を転がり、転落防止のフェンスに受け止められた。頭を打ってぐったりと起き上がれそうにない老人や、病衣の割に逞しく坂を登ろうとする中年の姿に心配して声を掛けるものもいるが、駆け寄る者はいない。
俺も含め、全員が無力だった。
理不尽に喘ぎ、僅かな運に振り回されて、抗いようのない死を前にじっと身を強張らせている。
どうあれ結果は同じだった。次の刹那には二階部分から倒壊し、あっという間に濁流の中へ放り出された。生き残ったものがいたのかどうか、知る由もない。
俺は濁流に揉まれ、他人の無事を気にする余裕もなく瓦礫に足を絡め取られて身動きが出来なくなった。硬いものが骨を挟んで痛みが走る。
浮上することはできず、辛うじて肺に溜め込んだ息だけで絡まった箇所を探る。足首を瓦礫が噛んでびくともしないのが指の感覚でわかる。
――くそ! 畜生……!
一人孤独に自分の足を瓦礫から引っ張り出そうとしているのが滑稽で情けなく思える。必死になればなるほど馬鹿みたいだ。誰も俺を助けちゃくれない。
――ああ、こんなことばかりだ。
俺は水中で踠きながらそんなことを思った。
本当は知っていた。何故自分だけ交通事故に遭わなかったのか。
あの日、家族は三人で出掛けていたのだ。四人全員ではなく、俺を抜いた三人で。
父と母は俺を家族として数えていないのだ。
家庭内では特別邪険に扱われてはいないが、妹と比較して俺への愛情は明らかに薄かった。何事もなく成人してくれ、早く大人になって家を出てくれ、とにかく問題は起こさないでくれ、……まるで腫れ物を扱うように両親は接してきた。俺に向ける笑顔は愛情なんかじゃない。ただのご機嫌取りだった。
それほどまでに俺を遠ざけるのは何故か?
捨て子だったのだ。俺は。
両親の葬儀手続きと共に遺産と保険金に関わる様々な書類をかき集めていたとき、戸籍謄本を見て知った。父にとっても、また母にとっても俺は養子だった。祖母にどう言うことかと尋ねたら、俺は父方の叔母の捨て子だと聞かされた。
『あんたのお母さんは本当に最低な野郎でね……、毎晩夜遊びして知らん男の子供を孕って、金もないからって中絶しないで、挙句家の前にあんたを捨てたんだよ。その後はもう勘当したって聞いたけど、向こうも帰ってくる気なんかない駆け落ちだよ。もちろん別の男とね。最後は薬で《《あっぱっぱ》》になったよぅ』――
『本当なら二人の遺産も保険金も芹ちゃんの金だよ。お前が芹ちゃんの面倒をみるって言うから、あげるんだからね』――
――それなのに、死ぬなんて。
あぁ、神様……もしいるのなら俺はあんたが大嫌いだ……。
俺が何か悪いことしたか? 答えてくれよ。
でなきゃこの一生の意味はなんだ。
誰に求められて生まれてきたわけでもない俺が、
この人生をどうしたらよかったんだよ。
もう、いいさ。
この世界も、人も、自分自身も、
何もかもが嫌いだよ。
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[13 首失の禍斬 完]
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