109話 なんだよこれ
立ち漕ぎで街を移動していると明らかに人気が多いことに気付く。車通りも混雑していて、みんな外に避難していることからこの地震の大きさは並ではなかったのだと確信する。……この国は地震に慣れていた。震度三程度ではまず避難しないし、ニュースでも大して取り上げない。つまりは並、日常なのだ。
今回の地震はそれを超えていた。異常事態とはっきり区別できる。確信できるだけの被害が予測できた。
駅前通りに差し掛かると赤色灯が回っていて、人だかりの向こうで民家が倒壊しているのが見えた。
今すぐにでも妹に連絡したかったが、回線が混んでいて繋がりそうにない。
駅の駐輪場に辿り着いた俺は、自転車を置いて改札へ続く階段に足をかけた。その瞬間、ほとんど爆発とも思える地響きが一帯を襲った。
まるで、地中に眠っていた巨大な怪物が目覚め、身動ぎをしたかのようだ。地球そのものが怒り荒ぶっているようにさえ感じられた。
俺は総毛立って、全細胞が危険を感じ、階段から離れた。直感は正しかった。階段の屋根が崩れて、巻き上がった砂煙が治まる頃には瓦礫の山に変わり果てていた。
三度目の本震……いや、違う。今までの全てが余震だったのだ。あの恐ろしい体感震度六でさえ、今大地を揺るがしている地震の比ではない。
――七なのか……。
嫌な数字が浮かんだ。
計測震度では震度七が最大値。壊滅的被害をもたらす以上、これより上の数値は存在していない。設定する意味がないからだ。
駅の改札口は壁面に飾られたタイルが剥がれ、通用口は、のたうつ蛇のようにぐねぐねと捩れている。アスファルトを敷いた地面の舗装もひび割れて陥没し、揺さぶられる力に抗えず、誰もがその場に倒れ込んで動けなくなっていた。
「なんだよこれ……」
誰に言うでもなく、俺は声が漏れた。
こんな状況じゃ電車が動くわけがない。駅前のロータリーも混乱していて、信号を見れば停電して指示が灯っていなかった。これじゃバスもタクシーも使えない……。
揺れが落ち着くのを待ってから、俺は来た道を引き返し自転車に跨る。こうなってしまえば自力が一番の頼りになる。
仕事着を脱いで半袖一枚になると上着を鞄に詰め、噴き出す汗も構わず病院へ急いだ。陽射しが暑いなんて、気にしている暇もなかった。
隣接市に移動した頃には街の被害がいかに甚大かを見ることができた。ここまで来ると家屋の倒壊した光景を見つけるのも珍しくなくなり、根本から折れた電力柱が住宅の屋根に倒れ、停電に断水と、住民が困り果てて立ち尽くしている。
見晴らしの良い大通りの交差点で街全体の様子が窺えた。建物は軒並み崩れ、巨大なショッピングモールさえもガラスの破片が散乱して立ち入り禁止の三角コーンとテープで囲われていた。駐車場では車内に避難している人でごった返し、隣接しているガソリンスタンドは夥しい車の渋滞ができていた。皆苛だち眉間に皺を寄せている。
病院へはあと少しだが、道路が地割れを起こしているため自転車すら荷物になっていた。金目のものは入っていないので鞄ごとショッピングモールの駐輪場に置いて、ここからは徒歩、自分の脚で走った。
ポケットの中の携帯端末がずっと震えている。
会社からの電話だったので無視している。――早退の許可は貰っているので、心苦しいが抜け出した責任は課長に被させてもらう。向こうが諦めるまで待ってから、ダメ元で妹に通話を試みた。走りながら応答があるまで粘ったが、接続が中断された。やはり出ない。
頭の中は不安で一杯だった。妹は無事だろうか。
麻痺で動けないのか、すでに避難中なのか、単に通話回線がパンクしているのか、病院の耐震強度はどのくらいだったか。津波は届くのか……。
上空では深緑色した自衛隊のヘリコプターが旋回している。色違いの青い一機が俺を追い越して行った。ドクターヘリだ。
もしかしたら妹があれに乗るかもしれないと想像し、思い浮かべたその姿は他の患者と入れ替わる。
きっと病院にはたくさんの患者がいる。不全麻痺の妹は他の患者と比べてどの程度優先してもらえるだろう? 完全麻痺なら……? 今日がたまたま調子のいい日だったら自分の足で避難するのだろうか。その場合、急に麻痺症状が現れたらどうなる。
ドクターヘリを追うように、病院まであと1キロという地点まで来た。この道はバスで何度も通ったことがある。変わり果てた直線を、俺は息を切らして歩いている。
側溝からは奇妙な風が吹いていた。
下から上に吹き上げる生温い風だった。それに排水の臭気が充満していることに気付く。
……水が、水が逆流している。
遠くから拡声器が避難指示を繰り返し呼びかけているのが聴こえる。ここに津波が迫っているのは確実だった。
六階建ての病院の屋上では先程のドクターヘリが空中で救助担架を吊り上げていた。誰を乗せた担架なのか目を凝らすが、頭髪が白い……老人だと分かった。
「なんでだよ……っ」
焦燥に憤り、俺は走る。
どう考えても妹が先だろう。
それとも既にヘリに乗せたのか。
病院敷地内駐車場を突っ切って入り口へ急ぐ。
避難する車が何台も俺の横を通り過ぎた。津波の到達はまだ猶予があるが、側溝からは汚水が溢れ始めていて、靴底が泥に浸っている。靴下が湿って不快だが、かまわず先を急ぐ。
自動ドアは機能していなかったが、ガラスが割られていた。破片も取り除かれていたため侵入は容易だった。おそらく俺と同じように患者の親族がここに来て避難活動をしたのだろう。
窓口受付は真っ暗で、院内は予備電源によって薄暗くも最低限の照明は灯されていた。一階は既に無人だ。
俺は水嵩の増していく地面から逃れるように階段を上る。踊り場で折り返しざまに下の様子をみると茶色く濁った水が泡立ち、スリッパや紙の書類に、どこから攫ってきたのかわからないゴミが浮かんでいる。もう、後戻りはできそうにない。
二階に着くと212の病室を確認する。流石にここからは避難できたようで妹の姿はなかった。
しかし安堵するにはまだ早い。このまま階段で屋上へ向かった。一階では設備が波に押し流される音が聞こえていた。重機でぶつかってきているような、悍ましい音だった。
窓がないため外の様子は見えないが、津波が到達したことは外の轟音と叫び声で分かった。
騒がしい階下、津波到達の衝撃に揺れる階段。迫る濁流の気配……。
六階を通り過ぎて屋上へ続く階段を駆け上がると外へ続く非常扉が開放されていた。人集りはほとんどが白衣か病衣の薄い色合いで、少なからず私服のものもいた。俺のような仕事着は他にいない。今頃は鞄も自転車も津波の被害に巻き込まれてしまっただろう……着替えておくべきだったと少し後悔の念が湧いた。
「お兄ちゃん……!?」
横から妹の声が聞こえて反射的に首を向ける。不全麻痺症状が現れているようで、妹は車椅子に座っていた。後ろで看護師がハンドルを握っている。
「芹那……!」
顔を見て安心するが、すぐに怒りに塗りつぶされる。どうしてヘリに乗っていないのだ。
俺は車椅子を押している看護師に向かって八つ当たりのように責めた。
「なんでヘリに乗せないんだよ!」
ドクターヘリを指差して声を張り上げる。ヘリのローターブレードがホバリングしていて煩かった。
看護師も大声で答えた。
「あれはドクターヘリです!」
「分かってる!」
「医療機器と一緒に乗せる必要のある方を優先させてもらいます! 我々の避難はこの後、自衛隊のヘリを待つんです!!」
そんなルールがあったとは……まるで冷や水を浴びせられた気分で面食らい、何も言い返せない。
「あなた芹那さんのお兄さんですよね?」
看護師は続けて言う。理不尽なクレームにも慣れているのか、俺の怒りが下火になったのを見て芹那を車椅子ごと預けた。
「申し訳ありませんが私は他の方の様子を確認したいので、お任せしていいですか?」
返答を待たず人混みへ割って入ってしまった。ドクターヘリは昏睡している患者と、いかにも重量物と見える医療機器を乗せて病院を離れた。入れ替わるように、空中で待機していた自衛隊のヘリが救助活動を開始する。




