10話 空っぽの鎧
二代目国家ナルトリポカの集落を出発して二日、鎧が単独で山を降りた往路と比べてその足取りは遅い。
理由はいくつかある。
まず、行きは降りの道程であり、寄り道もない。対して帰路は継承者に随行することとなるため、歩幅を合わせなければならない。……その継承者、アーミラこそ遅れの原因だった。
「ちょっと、待ってください」
息を切らしてアーミラは言う。
先導する鎧は足を止めた。
幸か不幸か、新たに現れた継承者が産まれたばかりの嬰児であるという懸念は杞憂だった。しかしアーミラの足取りは遅々としており、これならば赤子を抱えて運ぶ方がまだ早い。
体力がない。という訳ではなかった。
十七の娘にしては弱音を漏らさず黙々と歩くのだが、夏の陽射しに体力も水分もすぐに底をつく。休憩のために道中いくつかの集落を経由しなければならなかったが、その度に歓待を受けて長時間足止めされてしまう。
口々にかけられる祝福の言葉に、アーミラはどのように返礼するのが作法なのか分からず、小動物のように所在なく狼狽する様を見せた。飯を食うための店を選ぶのも、水を貰うために井戸を借りるのも、アーミラは言葉に詰まらせ苦労していた。
民草は「当代は笠に着ない継承者だ」と褒めそやすが、頼りない姿に一抹の不安感を募らせてその背を見送り、アーミラはよけいに気疲れした。
そんな調子で、ただでさえ人嫌いな向きのあるアーミラは体力の消耗が激しい。集落ではむしろ気が休まらないため、国境手前の街外れに夜営して夜を明かし、早朝にナルトリポカを抜けたときには、二日を費やしてしまっていた。
残るは山行、マハルドヮグ山の中腹では急勾配が続き標高もぐんぐんと上がり、空気も薄い。
「き、休憩を……しましょう……」
這う這うの体でアーミラは休息を求める。
喉が乾いているのか声も掠れて、言い終わる頃には路の横に手をついて座り込んだ。
鎧はアーミラのもとまで戻ると槍の穂先で土に文字を刻む。書記体系は依然として古めかしい文体であるが、ここでは口語で表記させていただく。
――既に二日を消費した。可能なら午前にも神殿へ辿り着きたいのだが。
そんな遠慮のない要求にアーミラは青褪める。
「えぇ……。む、無理ですよ……魂を、まだ下に……置いてきて、ます……」
魂が下に残されている。というのは、マハルドヮグを登る者が口にする言葉で、詰まるところ高山病である。高地により空気が薄くなると呼吸が苦しくなり、頭痛や疲労の症状が出るというのは神殿に住む者達にとっては常識であるが、梺の国々には発達した医術は広まらず、宗教的な尺度から解釈されている。それによると、マハルドヮグ山には選ばれた者しか辿り着けず、登るほどに魂を下に残して肉体と離れてしまう。そしてついには歩くこともままならず倒れるという。助けるためにはその肉体を山から降ろし、取り残された魂と合流させること……と、このようにして解釈されているのである。古くから言い伝えられる経験則に基づく民間療法に信仰という肉付けが行われているが、アーミラはそれを信じていた。一方で神殿付きの鎧は高山病というものを理解しているのであった。
鎧はつま先で土をならして文字を消すと改めて彫り刻む。
――魂は肉体から離れたりしない。問題ない。呼吸を深く意識しろ。
そのように伝えると冷徹にアーミラの手を取り、立ち上がらせる。アーミラは疲労から足の踏ん張りが効かず情けない声を出しながらふらついた。そして盛大にため息を吐いて愚痴をこぼす。
「もう……あなたは魔導具の割に人間らしくて、変な感じです……止まれと言ったら止まってほしいんですけど……」
――俺は俺を魔導具と定義し、そしてその価値観を他者と共有している。
「なにを言っているのか……そもそも魔導具って魔導回路の機巧ですよね。ちゃんと受け答えできるなんて、まるで思考する……心があるみたいじゃないですか?」
苦しそうに膝に手をついてアーミラは言う。皮肉ではなく本心であった。項垂れた視界に槍の穂先が返答する。
――対象に心があるのかどうかについて、それは観測者側の主観に依存するだろう。その場合、俺が人であるか。ではなく、君が俺を人と見做すかが重要だ。
その言葉を読んでいるかどうか、アーミラは地面を見つめて荒い呼吸を繰り返す。垂れそうになった唾を飲み込み、ちらりと鎧の手を見た。旅立ちの日、つまり二日前のあの日、迎えに来た鎧の手は何者かの返り血に濡れていた。
鎧には口がない。故に何があったのかを語ることもない。そしてアーミラも問いたださなかった。しかし、推測するにあの返り血は敵を殺めたのだろうと考えていた。
私が継承者に選ばれたときに現れた陣……それは敵からしてみたら脅威を報せる合図に他なりません。おそらくはあの夜、鎧は私のもとに現れ、無事を確認すると闇の中に身を潜めて敵の凶刃を払ったのでしょう。――と、アーミラは考えていた。そして事実はそのとおりである。
鎧は休息を必要としないため、次女継承者である彼女から片時も目を離さず、足音一つたてない兇手を一つ残らず召し取っていたのだ。
そうしている内に呼吸も整い、高山病の初期症状は軽減した。彼女の言うところの『置いていった魂』が遅ればせながら山路を辿り肉体に追いついてきた。興味は依然として鎧へ向けられているが、口を開くより先、鎧は休憩を切り上げにする。
――俺の背に乗れ。神殿まで運ぶ。
鎧はしゃがみこんで指先でそう書いた。アーミラは恥じらいから断りを入れようとするものの、最終的には鎧の背におぶられることになった。楽ができるなら助かるというのが正直なところで、梺の路は舗装されているとはいえ左右は針葉樹林が広がっており二人の他に人の往来はない。乙女の体を触れさせることについては、この男は魔導具であるとして折り合いをつけた。なんとも都合のいい解釈である。
「あなたの名前ってあるんですか?」
陽に熱せられた鎧の背中に袈裟をかけて火傷せぬように身を預け、まわされた腕に膕を乗せるとアーミラは問う。鎧は上体を前傾にしてアーミラを支えると器用に槍を手繰る。歩きながら一文字ずつ、地面に書き記していく。
――ウ、ツ、ロ。
「ウツロ、うつろ。……もしかしてそれって空っぽの鎧だからですか? 賢人種の書体に当てはめると『虚』と書きますよね」
鎧は何も聞こえていないふりをして返答をしない。歩きながら文字を書き記すことが面倒なのだろうか。怠惰を表現するその行動の人間臭さにアーミラはますます興味を示して目を輝かせた。面倒を厭うなんて……これほどまで血の通った魔導具を作り出す技術が神殿にはあるのだろうか。
「ね、ねえ、ウツロさん。貴方は誰に作られたんですか? 故郷はどこです? 一番古い記憶はなんでしょう?」
相手を魔導具と見るとアーミラの人嫌いは鳴りを潜めてずけずけとまくしたてる。神殿に向かう緊張を紛らわせたいのか、あるいは旅立ちの昂りが影響しているのかもしれない。
ウツロはちらりとアーミラの方を見ると、思案げに前を向いてぼんやり歩き続ける。先程の無視とは違い、返答に困っているような、言葉を選んでいるような間が続いた。そして、「先代ノ忘形見」と、穂先を走らせる。
「え……」アーミラは書き残された文字が後ろに流れていくのを目で追って読み返す。「確か、二百年ほど昔……でしたよね」
にわかには信じられないことだが、しかし先代の忘れ形見……それならばこの異質な魔導具の存在にも納得できる。と、アーミラは考える。深く追求したい気持ちを抑えて次の返答を待つ。鎧は「ニホン」と書き、間をおいて「フメイ」と書いた。




