108話 やっぱりどこかおかしくなっちゃったんだ
そんなとき、病室の扉が開いて白衣の男が俺と目配せした。
「慧さん。少しお話が……」
同階、診察室に案内され、俺と男が椅子に腰掛けた。
男は妹の担当医だ。
おそらく見舞いに来たという来院情報が窓口の端末から通知され、ここに呼び出しにしたのだろう。
歳は四十がらみで、染めていない七三分けの黒髪に白髪が混じっている。人受けの良い笑みを作り、こちらの緊張をほぐすため振る舞いは朗らかだ。
「いつも遠くから来てくれて偉いね、バスで来てるんだっけ?」
「そうですね、電車とバスの乗り継ぎで」
「ああそう、大変でしょう」
最初は軽い世間話を挟み、俺も愛想笑いで受け答えをする。
「それでまぁね、芹那さんの経過報告なんだけども……」
彼は細いフレームの眼鏡を掛け直し、手元のカルテを読み上げた。
妹は、交通事故で両親を無くしてから全身に麻痺の症状が現れる原因不明の運動障害に罹っていた。
慢性的なものではない。万全なときには運動機能に問題がないときもあるのだが、食事中に突然箸を落として掴めなくなったり廊下を歩いている時に不意に躓いたりする。
その時々によって不全麻痺から完全麻痺と程度に差があり、日常生活が困難なレベルだった。初めは事故による末梢神経へのダメージが残っているのではないかとあれこれ調べたが、原因の解明には至っていない。脳スキャンも行ったが病魔の影は見つからなかった。
今回の話で主治医が言うには、事故の後遺障害というよりも精神的な原因があるのではないかと言いたいようだ。
「芹那さんはきっと、意識を取り戻してから立て続けに辛い現実に直面しなくちゃならなかったでしょう? 剣道部の大会の後に両親と出掛ける予定があって、みんなでこれから食事ってところに横からね……酷い目に遭って、気がついたら病室なんだもの」
「そうですね」
「なので、今後の方針は、メンタルケアね。精神的な傷を癒す方向で、回復に持っていけないかと考えてる。どうかな?」
「妹がよくなるならなんでもいいです」
「そうだけどね、そうなんだけれども。君もいろいろ大変だと思うけど、あんまり無理しないように。ね?」
……曖昧に笑い、俺は妹の病室に戻る。
「なんの話ししてたの?」と、妹は問いかける。それなりに気になってはいるようだ。
「治療のアプローチを変えるんだと」
俺の目線は興味もないのにニュース画面に向けられている。政治家の不祥事を批判している映像だった。
妹は不安そうに問いかける。
「今のリハビリじゃ、治らないってこと?」
「うぅん……芹那の体は、調子のいい日はリハビリなんて要らないくらい動くだろ。なら麻痺の原因は運動神経の異常じゃなくて別のところにあるんじゃないかって、それを調べるためにやり方を変えたいって言ってきた」
「そうなんだ……」妹はニュース番組をぼんやりと眺めて呟く。「ごめんね、お兄ちゃん」
「いや、謝ることじゃない。あまり気にするなよ」
「私、やっぱりどこかおかしくなっちゃったんだ……もう、元に戻らないかもしれない」
「そんなことないって、やり方を変えたら、気分転換にもなる。あんまり塞ぎ込むと余計に悪くなるぞ……そうだ、今度外出してさ、近くの店で飯でも――」
「やめて!」
妹は声を荒げてしまったことに自分でも驚いていた。
不用意な発言だったと俺が思い至ったときには妹は申し訳無さそうに俯いてしまう。
「ごめ、……なさい……」
食事の約束は、妹にとってトラウマなのだ。
無理もない。両親はこの約束を果たそうとして死んだのだから。
主治医の言っていることもわかる気がする。病は気から……芹那の内にある心の傷を治してこそ、身体の麻痺と向き合えるのだろう。
「悪かった。……本当にごめんな。また、来るから。今日は帰るよ」
「……きっとだよ」妹はそう言って手を振る。
扉を締め、静かにため息を吐き出す。何だか階段を使って降りる気分ではない。俺は長い廊下を歩き、エレベーター乗り場へ向かう。
ボタンを押し、狭い箱に乗り込み、緩やかな浮遊感に包まれる数秒間。
精神的なもの――目に見えない病の原因を思い描こうとしたが、どうやって治すのか、俺には到底わからなかった。
扉が開き、一階に到着すると、俺は病院を後にして帰路につく。
また来週見舞いに行こうと心に決めて――しかしその日は来なかった。
❖
週が明けて水曜日。いつも通りの朝とはいかなかった。
ベッド脇に充電状態で置かれていた端末が、目覚ましに設定したアラームとは異なる警告音を鳴らした。
そのあまりにけたたましい音に俺は夢も忘れて飛び起き、画面表示を睨む。
『緊急地震速報受信 強い揺れに警戒してください』
黒地に黄色い文字で書かれた言葉を読む間に地鳴りが遠くから迫るのがわかった。下から突き上げる衝撃に建物全体がうねり、軋みを上げてぐらぐらと揺れる。額に嫌な汗をかいてベッドの上でじっと収まるのを待っていた。
――これは震度五、弱かな。
国民性か、揺れの強弱を言い当てる感覚が俺にも備わっている。端末の続報ではこの地域は〈震度五強〉と表示されていた。そして画面には『津波、余震に警戒』と続いている。
早朝に迷惑な野郎だ。と、俺はベッドに横たわり次の波が来るのを神経を尖らせて待っていたが、そのうちに二度寝してしまった。
目覚ましに起こされる頃には地震のことなどすっかり忘れていて、普段通り出社の打刻を済ませて日常業務が始まる。始業に備え機械を立ち上げていたとき、不意に地面が跳ね上がった。ほとんど同時に地震警報が鳴り、恐怖が伝播するように職場内の端末が合唱を始めた。
呆気に取られた各々がどうするべきかと戸惑っているうちに本震が襲いかかり社屋の窓ガラスが砕ける。警報とは比にならない激しい地鳴りと悲鳴で満たされ、「外に避難!」と「机の下に!」の混乱した指示があちこちから飛び交う。
きっと震度六だ。
――俺は無我夢中で外に出ることを選んだ。
会社の駐車場にはすでに何人かの人間が避難していた。皆不安そうに誰かに向けて連絡を飛ばしたり話し合ったりしている。そこに課長の姿もあった。
俺も課長も内心取り乱していたのだろう、判断能力が正常ではなかった。うねる足元によろめきながら駆け寄り、「妹が心配なので早退をいただきたい」という旨を伝えた。俺の家庭事情を知っているせいか、先日の陰口の後ろめたさを払拭したい心理か、課長は「行ってあげなさい」と二つ返事で見送った。
俺は私服を鞄に詰めて着替える時間も惜しんで会社を出ると自転車に跨り、ペダルを踏み込んだ。
普段と同じ道を進もうとしたが、駅に向かっても電車が運行しているかわからないことに気付き、調べるためにポケットから端末を取り出す。
画面には『緊急速報 津波警報発令中』と通知が届いていた。
俺の住んでいる地域は内陸部だが、病院は海沿いの街だった。付近に港や河口もある。もし津波がやってくるのなら、沿岸だけでなく河川汽水域を遡行しての冠水被害はあるかもしれない。例え津波被害がなくとも、妹に麻痺症状が現れたら自力で避難できないのだ。
通知を横に払って駅の運行情報を調べた。今のところ運転見合わせの情報は出ていない。俺はこのまま駅へ向かった。




