102話 ……君は何者か
「……君は何者か」
女に問われる。
気怠げだが場の主導権を握るような、余裕のある声音だった。
本当なら、答えるより先に聞きたいことが山ほどある。まずこの不可解な状況は誰が原因なのか。俺の命の保証はあるか。この体は治せるのか。ここはどこで、お前たちこそ誰なのか。言葉は出口を求めてせめぎ合うが、どれだけ内圧が高まろうとも口がなければ一言も、一字たりとも答えることは叶わない。
俺の憤懣を察したのか、あるいは単に口がないことに気付いたからか、女は俺の前を横切り頭巾を脱いだ。そのまま手に握った頭巾は小上がりに――恐らく寝台だろう――放り投げ、机の上に置かれた板を取って俺に寄越した。はじめは手渡されたものがなんなのかわからなかったが、外観から何か筆記のための道具なのだろうと察して床にそれを置いた。次いで女は先の尖った筆を差し出す。やはり文字を書かせるつもりだ。しかし、待てども紙は貰えなかった。どうやらこの板に直に線を引くことで文字を書けというのだろう。
試しに板の隅に筆で線を引くと、柔らかい蝋を彫って傷が作られる。彫り刻むことで字を書くようだ。
俺は返答を蝋板に刻んだ。四肢のうち満足に動くのは右腕だけということもあり、曲線の多い平仮名は蝋板には適しておらず片仮名で対応するしかなかった。
――俺ハ、慧。
ざわり。と、三人の娘の顔色が変わった。青褪めるような、芳しくない気配が、狭い室内を満たした。
「これはなんと読む」女は蝋板の文字を指差す。
俺は振り仮名を添えた。
――俺ハ、慧。
ふむ。と、彼女達は銘銘に腕を組んだり腰に手を当てたりして左眄する。俺を尻目にこそこそと耳打ちの会話を始めた。
眺めることしかできないので、俺はしばし様子を伺った。その中でそれぞれの容姿を確認してもいた。
一番目を引くのは明らかに上背のある派手な女だ。どこで揃えたのかもわからない甲冑のような防具で身を固めている。毛量の多い頭髪は燃えるような赤色に染まっていて、癖毛のうねりも手伝って背中を覆う毛皮のようだ。
なにかの仮装としか思えないが、甲冑の重厚な質感や細かな戦傷は真に迫るものがある。なにより、俺を容易くねじ伏せた腕力は人間離れしているし、顳顬から伸びている頭角も作り物とは思えない。
赤毛の戦士の隣に立ち、話し込んでいる三人のうちの一人、とびきり背の低い方は、子どものような外見とは裏腹に物腰は妙に老成ている。体躯が倍はある赤毛の女に物怖じせず、三人の会話は対等に見えることから、ああ見えて歳は近いのかもしれない。
褐色の肌は遠い国の生まれと見えるがどうだろうか。顔立ちは眉が濃く目鼻立ちがくっきりしているが、赤毛の女ような北方系の顔立ちに比べると鼻がやや低く顎の尖りがない。纏う衣装は甲冑ほどではないにしろ、なにかの仮装じみたもので、異国の神事や祭事に用いられそうな衣を纏っている。何より、部屋を照らす光源は彼女の周りを浮遊している。まさか人魂や超常現象とは思いたくないが、説明できない手品だ。
二人の間に立つ三人の娘の残る一人。部屋を我が物顔で扱うことからこの部屋の主だと思うのだが、彼女が一番人間らしかった。獣人じみた赤毛と、歳のわからない褐色肌に挟まれている彼女は、耳が尖っていること以外は特別おかしな所はない。三人揃ってなにか仮装しているのは揺るがぬ事実だが、彼女は襯衣に襦袢と比較的なじみのあるおとなしい格好だった。
仮装の完成度があまりに高く、状況も相まって映画の中にいる気分にさせた。少なくとも彼女達に殺意はなさそうだ。
俺が五体満足ならば、もっと違った出会いだったかもしれない――いや、もしも五感があれば、その臭いにもっと早く気付けただろう。
ひどく染み付いた血の臭いに。
三人は方針が決まったのかそれぞれ会話をやめて俺を見下ろした。
襯衣の女が言う。
「なんであれ君には働いてもらうよ」
……これが、俺と先代継承者の出会いだった。
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目覚めてから数日、俺の体は鎧になってから眠りを必要としなくなった。……この表現は正確ではない。眠れなくなったうえに目を閉じる機能も失われた。面鎧に瞼がないので視界は常に開かれたまま、眼球も失われているため乾くこともないのだ。
疲労や睡魔などのあらゆる生理現象もこの身から剥奪され、感情の起伏は以前より緩慢なように思える。
俺が出会った三人の娘は、どうやら別の世界の人間らしい。……これも正確ではないな。信じがたいことだが、今いるこの世界はどうやら彼女達の世界らしい。並行世界だとか、異世界だとか、概念自体は聞き覚えがあるが、こうして迷い込んでしまうことになるとは信じがたい。そして、それらの事情を教えてくれた娘達の名前も教えてもらった。
まず、娘達は『継承者』と呼ばれる特殊な地位に就いており、人のために働き、敵と戦うのだという。継承者は女神の三姉妹に準えて長女、次女、三女の姓をそれぞれ授かっているという。
長身赤毛の女が長女継承者、リブラ・スウェイル・ラーンマク。
襯衣の尖り耳な次女継承者、デレシス・ラルトカンテ・テティラクス。
背の低い褐色が三女継承者、クォトィス・アルクトィス・トゥールバッハ。
……それなりに状況を理解したとて未だ半信半疑で、何か悪い夢か冗談なのではないかという疑念が拭えないが、そうだとしたら俺の体が鎧になってしまったことの説明がつかない。眠ることもできず、満足に体を動かせない持て余した時間で散々頭を働かせたが、彼女達の言っていることを信じるしかなかった。
俺が安置されているこの物置小屋のような空間は、次女デレシスの私室らしい。曰く、『あの日、突然部屋から物音が聞こえ、様子を見に行ったら鎧が動き出していた』のだそうだ。
以降デレシスは時間を見つけては俺の体を調べ、動かない下肢と左腕を繋げようと忙しくしている。働かせるにはまず動ける体が必要で、実現までに一月ほどかかると教えられた。
体が動くようになるまでの間、継承者の彼女達は疲労困憊といった様子で、寝床として部屋に戻ってくるデレシスだけでなく、ラーンマクとアルクトィスも顔を出すときは生傷が絶えなかった。彼女らの姿をみると、なるほど人手を求めているのはよく分かる。俺が手伝えるようになれば、力を貸すのもやぶさかではない気持ちにさせた。
……当時の俺はこの世界について全くわかっていなかった。継承者が『敵と戦っている』という言葉の意味をもっと深く考えることができたはずだった。鎧の体が動けるようになるまでの期間にいくらでも理解を深めることができたのではないかと後悔せずにはいられない。
しかし命を奪うというのは奇しくも性的な接触と類似している。未経験者と経験者の間には断絶の壁が存在すること。才能あるいは素質を必要とすること。公の場では経験者は秘匿する傾向にあること。故に未経験者への手掛かりは勝手な憶測と魅力的な側面ばかりを語る夢想しかないということ。
彼女らは普段の仕事について進んで語ることはせず、俺もまた架空の作品知識に基づいた妄想に耽っていた。
端的に言えば、彼女達の魔物討伐を、俺は冒険譚として捉えていたのだ。
重ねていうが、俺はこの世界についてかなり低い解像度でしか認識できていなかった。無知なだけじゃなく、『正義のために戦う娘達』と『世に蔓延る悪しき魔物』という表層だけの――それもかなり偏った――対立構造の理解で満足していた。漫画でも映画でも、あらゆる娯楽作品に登場する剣と魔法の世界。……その夢物語を現状に重ねていたのである。
理解を深めることを怠った言い訳をさせてもらうとするなら、前提として元の世界に帰るつもりでいたために深入りしなかったという苦しい事情が一つ。
そして、俺はずっと部屋の中に居て、デレシスも夜になればこの部屋に帰ってきているという実情が認識を甘くさせたのだ。
まさかこの部屋が杖の中だなんて誰が予想できただろう。だから、継承者は日勤の仕事として毎日家から働きに出て、街に湧いた害獣を駆除し、夜には家に帰っているのだと無意識に思い込んでいた。危険を冒して戦うといえども所詮は野獣や低位の魔物の類いを相手にするのだろうと――そんな浅はかな夢想はしばらく後に砕かれることとなる。




