100話 ああみら
悲しみを振り切るために、アーミラは泣きながら杖を頭にぶつけた。何度も何度も。
痛みで奮い立とうとしているのだろうか。或いは深い悲しみと絶望に気が触れた故の行動かもしれない……血と涙と鼻水と唾液と汗と泥でぐちゃぐちゃの顔を杖に押し付け、狂った獣のように噛み締めた口から、ふしゅう、ふしゅう、と呼吸している。へたり込んだまま、もはや杖を持っているのか支えられているのか曖昧な姿勢で、もう一度詠唱を始めた。猛毒にも似た激烈な感情が胸中に渦巻き、混沌としたままに唇から吐き出され、彼女の紡ぐ言葉を補強した。
世界。
黄昏。
厄災。
爪、突、振。
神の定めた測り言、
得物と獲物、鋒と牙の隔りのこと。
天球儀。
三女神引力の妹にして、時の姉。
星を象る此杖は、
須く万物の距離を掌る。
偃月。
命の気配がなくなった。
命の気配がなくなった。
それは静謐。
静謐とは音の有無ではない。
距離か、深さか、虚無のこと――
災禍の龍は凄まじい速度で四度目の覚醒を迎えた。アーミラは怖気付き声を潜ませたが、詠唱はまだ止まっていない。途切れさせてなるものかと意気込んだが、この場から避難しなければ食われて終わりだ。
と、そこにウツロは現れる。頼りにしないと決別し、気にも留めずにここまできたが、ウツロはアーミラを見捨ててはいなかった。追い込まれてから助けを求めるのはあまりにも自分勝手がすぎるが、ウツロは何一つ見返りも求めずに龍へ剣を掲げた。
その剣はガントールの天秤だった。
――我が名はアーミラ・ラルトカンテ・アウロラ。
女神の次女の姓を授かる継承者也。
宿痾の首と無辜の躰を持つ娘也。
神よ、謙虚なる娘の声に耳を傾けよ。
その右耳に捧ぐ娘の声に。
涙よ。汝の辿り着く恩寵よ。
血潮よ。汝の駆け巡る裂帛よ。
淋漓よ。汝の流れ滴る荒野よ。
我から溢れ注がれる全てはこの星を満たし、
雲となり火山となり海となるだろう。
我は杖を介し、星と一つに繋がっている――
前に立つウツロを切り取るように視界が真っ白に焼かれ、アーミラは目を閉じ詠唱を止める。龍の光輪が放つ一咬みの中にいるのを悟り、死を覚悟した。しかし、痛みはやってこない。
左手に構えた斧槍と、右手に掲げた天秤剣。この剣こそ、今二人を護る盾となっていた。迸る光の濁流にアーミラは恐る恐る目を開き、ウツロが龍の顎を跳ね除けている。剣に宿る斥力が、光すら捻じ曲げていた。神器がまだ機能しているということは……。
「耐えろよアーミラ」
遠くからオロルの声が届く。思わず二人の名を呼びかけようとしたが、アーミラは堪えた。まだ詠唱は終わっていない。
「やられたと思うたか? 見縊るでない。わしは時を操るのじゃぞ」
光の中、オロルの気丈な声だけが届く。それが何よりの励ましとなって、アーミラを奮い立たせた。
実のところ、オロルとガントールはこのとき無事ではなかった。アーミラは知る由もないが、二人は時止めを用いてかろうじて回避に移っていたが致命の一撃を喰らい、体を齧り取られ、身動きができない状態だった。
ガントールは剣をウツロに託し、残る力でアーミラを護っていた……それが精一杯だった。
天秤を掲げ、剣の腹で龍の攻撃を受け止めているウツロは、奔流する魔呪術を一身に浴びていた。世界を齧り取る龍の牙は凄まじい熱量を持ち、たちまちに神器の緋緋色金さえも真っ赤に溶解し始める。青生生魂の鎧に灼熱の神器が浴びせられ、混じり合う。柔らかく溶けていくウツロに、不思議なことが起きていた。
鎧の体を維持しようとする魔力らしきものが働き、崩れた板金が穴を塞ぐように結び付き、混じり合った緋緋色金が首の穴に注がれて頭蓋を構成し始めた。爛れながら変化を遂げたウツロは、もはや鎧とは形容しがたい、皮膚を剥いだ筋繊維を剥き出しにした人のような姿となる。
排熱するように歯の並んだ口をぽっかりと開き、ウツロは熱い空気を天に向けて吐き出す。舌先には炎さえ吹き出ていた。そしてアーミラと目が合うとぽつりと呟いた。
「ああみら……」
アーミラは目を疑い、絶句した。
詠唱のために何も言わなかったのではない。何が起きているのか理解が追いつかなかったのだ。
一方、災禍の龍がアーミラを喰い損ね、光輪が無防備になる一瞬。金色の一人は狙いすまして手印を結ぶ。
「ここが痛いのじゃろう……?」
神器、柱時計から鋭く放たれた閃光が龍の口……つまり光輪を貫き砕いた。破鐘のような大仰な音が響いて、実体化していた光輪が脆く砕ける。
けたたましく鳴り響く音にアーミラは我に返り、なんとか詠唱を再開する。その声は動揺に震えていた。
――叢に蛇ありて。
慟哭に沈く憎悪の風は、
呱々《ここ》の声もなく生まれ落ちた。
救われぬ御魂は澱を固めた醜貌で、
禍事のいっさいを引き連れ土地を蚕食する。
弓立。
磨かれた鏃は熱が冷めぬまま悪に突き刺さる。
肌を煇し、心臓を去り、
不浄の霊素は天の裁きに清められ、躰は星に還り給う。
延々と続く流転に終わりを告げる、滅却の光となりなむ――
砕けた天輪が萎縮するように輪を縮め、霧散せずに押し固めたような玉となった。魔呪術の気配はなく、むしろ自壊している様子があった。
そこから孵化するように、一人の女がまろびでる。
何者かとウツロは目を凝らし、ぴくりと指先が痙攣する。
玉から現れたのは、集落を襲った尾を持つ娘だった。
隣に立つアーミラは委細構わず詠唱を締めくくりに入る。
――星砕。
勇立つはうからやからの栄光のために。
携るは現世に落つ智慧の果実。
内に秘めたる蜜の全てを支払い、
災禍退く夜明けを齎せ――
「天球儀よ、我が命令に従えぁ――」
アーミラの詠唱が途切れた。不意に襟を掴まれて、ほとんど首を絞められる形となって声を発することもできない。
妨害したのはウツロだった。
「う……つ、ろ……さん……っ」
アーミラには、何故ウツロがこんなことをするのかわからない。いや、この場に誰がいようともわかるはずはなかった。
首を掴む手を振りほどき、咳き込むように息を整え、ウツロを見上げる。私が冷たく突き放したのが悪かったのだろうか。それとも神器を浴びて変化したことが原因だろうか。そもそも今のウツロは正気なのか。様々な疑問が浮かぶが、答えは出ない。
ただはっきりしているのは災禍の龍を討ち果たす最大の機会を逃したということだ。
「何してるんです!?」
アーミラはウツロを責め、しかし構っていられないと横に押しのけて急いで杖を構えた。ガントールとオロルが作り出した好機を逃すわけには行かない。幸い光輪が玉となり砕けてから、龍は沈黙している。詠唱を三度再開するが、ウツロは右掌から刃を生成して飛ばし、天球儀の神器を砕いた。
「――え……?」
アーミラは抱えていた杖が腕の中でばらばらと崩れていくのを呆然と見届け、本当に何をしているの? とでもいうようにウツロを見つめる。
その首に刃が奔り、彼女の前に立つウツロは返り血に赤く染まる。
景色が斜めに傾き、天地が転げる。
倒れたのは自分なのだとアーミラは自覚して、意識を失った。
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[12 災禍の龍 後編 完]
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