99話 世界。黄昏。厄災――
炎を囲む三人のところにウツロが追いついたとき、何をしているのかと足を止めた。
揺れる火影に照らされたそれぞれの昏い顔を認めて、次に輪の中で燃え盛る炎を見る。
それは奇妙な火球だった。
宙に浮かび内側に収斂する燃焼反応は、音すらも火球の中心へ吸い込まれて静かに燃え盛る。まるで小さな太陽のようだった。
焚べられた可燃物は体積を縮めながら、丸く、硬く、圧縮されていく。
継承者の娘達が何をしているのか、ウツロには見当もつかなかった。
事情を知らず立ち尽くすウツロに対し、ガントールは聞かれてもいないのに討伐隊の遺体を魔鉱石に変えているのだと語り出した。後ろ暗いことを弁明するような口ぶりだった。
ウツロはただただ、災禍の龍と輩の火球とを、交互に眺める。
火球は凄まじい速度で体積を減らし、やがて可燃物が尽きて火が消えると、圧縮と炭化の果てに結晶となった遺骨が精製された。
薄く黄色味がかった八面体の魔鉱石。
それをガントールは手に取って、剣で砕くと平等に配った。互いに無言のまま差し出されたものを受け取り、ぐっと握りしめて額に当てると感謝に目を閉じる。汚れた頬が涙に洗われて、頬に筋が残る。
尊い犠牲のおかげで、私達は戦える――そう祈らずにはいられなかったのだ。
赦しを乞う祈りを終え、洟を啜って継承者は南を望む。
龍は腹に取り込んだものを消化しているらしく、直立のまま微動だにしていない。己がもたらした破滅によって縦穴からは火と黒煙が吐き出されており、それが龍の足を焦がしている。己の足が業火に炙られていることに、災禍の龍は全くの無反応である。
「増援は、期待するだけ無駄か」オロルは邸のある方角をちらりと一瞥し、独り言つ。
「来たところで犠牲が増えるだけだ。避難してもらった方がありがたいさ」と、ガントールが答える。
「では、ここでやるんですね」アーミラは呼吸を整え、杖を構える。
魔鉱石が手に入り、体力的にも地理的にも、ここが災禍の龍討伐の最後の機会だ。
互いに目配せに覚悟を問いかけ、強く頷く。
「……始めます――」アーミラはすっと息を吸い、杖に向けてぽつりぽつりと言葉を口から生み出し紡いでゆく。
流麗にはほど遠く、震える声が戸惑いを滲ませていた。
詠唱の初めは、ただの言葉の羅列にすぎなかった。だが、それらは止まることなく繋がり、やがて神秘的な美しさを帯び始める。
世界。
黄昏。
厄災――
隣で耳をそばだて聴いていたオロルはこの時点で詠唱の骨子がみえていた。
アーミラが試みている手法は三節三連からなる詠唱だ。この手法の強みは実行者と対象の関係と、用いる媒介を詠唱の中に織り交ぜて謳うことで物語が強固に形作られることにある。この場で奥義全体の構想を思い描き、術式を組み上げようとしているのだから堅実なやり方に頼るのは無理もない。もし自分がその立場であっても同じことをしただろうとオロルは思った。
――爪、突、振。
神の定めた測り言、
得物と獲物、鋒と牙の隔りのこと。
天球儀。
三女神引力の妹にして、時の姉。
星を象る此杖は、
須く万物の距離を掌る――
アーミラは詠唱による術式を組み上げることに集中している。乾坤一擲の奥義の発動へ向けて言葉を紡ぎ始めた以上中断はできない。練習も試作も研鑽もないたった一回きり、出たとこ勝負の大業であるため相当に時間を要するだろう。その間ガントールとオロルは龍を警戒しつつ可能な限り前線へ押し戻すために魔呪術を繰り出す。
――偃月。
命の気配がなくなった。
命の気配がなくなった。
それは静謐。
静謐とは音のあるなしではない。
距離か深さか虚無のこと。
我が名はアーミラ・ラルトカンテ・アウロラ。
女神の次女の姓を授かる継承者也。
宿痾の首と無辜の躰を持つ娘也。
神よ、謙虚なる娘の声に耳を傾けよ。
その右耳に捧ぐ娘の声に――
ガントールの操る斥力とオロルの放つ光線をものともせず、龍は梃子でも動かない。それどころか微かに身動ぎをして腹の音を響かせた。無貌は詠唱を聴き入るようにゆっくりと俯き斜に構える。
「お前じゃない」オロルは野次るように言う。これは詠唱の『耳を傾けよ』にかけての皮肉だった。
動揺しているアーミラには気にせず続けるように視線を送り、二人は注意を引きつけるために駆け出した。
――涙よ。汝の辿り着く恩寵よ。
血潮よ。汝の駆け巡る裂帛よ。
淋漓よ。汝の流れ滴る荒野よ。
我から溢れ注がれる全てはこの星を満たし、
海となり火山となり雲となるだろう。
我は杖を介し、星と一つに繋がっている――
柱時計を駆り龍の視線を奪うガントールとオロルは、スペルアベルとラーンマクの西側の境目に移動して、三度現れた龍の光輪めがけて攻撃する。それが逆鱗に触れたのか、龍は初めて明確に反応した。
遠目で見ていたアーミラは詠唱を組み立てるのとは別の意識で、ぞっと背筋が粟立ち嫌な汗が噴き出した。きっとその場にいたガントールも、オロルも、身が竦んだだろう。しかし翻して退避する間もなく、光が二人を囲った。
閃光が空間を裂くように斜めに走り、次の瞬間にはすべてが消え去った。遅れて爆圧が吹き荒れた。
突然空いた穴に大気は寄せ集められ、風は波のように寄せては返し、アーミラは衝撃に身を揉まれて地面に転げながら、ぐっと身を丸めて震えた。体の痛みよりも心が張り裂けそうだった。
あまりにも呆気なく、二人を失った。
風が落ち着き、アーミラはそっと上体を起こして辺りを見回す。
龍のいる位置から方位を把握し、大体どのくらい吹き飛ばされたのかはすぐに見当がついた。ざわつく胸を手で抑え、二人がどうにか生き延びている望みを捨てきれず、荒野を隅々まで見渡す。先程まで二人がいた場所は、ぽっかりと虚無だけが広がっていた。
「……ぅあ――」
詠唱の途中なのに。
堪えようとしたのに、胸の奥から抗い難い悲しみが咳き上げて、嗚咽が漏れた。
一度途切れてしまえばこれまでの詠唱も全て水の泡だ。自分の周りに集まっていた魔力が霧散して離れていく。結んでいた言葉同士の連絡が失われて術式が崩壊していく。その虚しさも加わって悲しみに棹さし、滂沱の涙が溢れる。
こんなに頑張っているのに、全部奪わなくたっていいのに……。
「うあぁっ……! あぁ……っ――」
泣いている場合じゃないことはわかっていた。腹を満たし沈黙する龍の消化速度は明らかに加速している。次を逃せばまたすぐに龍は世界を齧り取り、最後には全てを貪り喰らうことだろう。……でも、体がいうことを聞いてくれない。




