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最後の異世界転生譚 ――Echoes Beyond the Aurora Manuscript――  作者: 莞爾
❖第一部❖ 神殿編 02 黄昏へ向かう世界《テティラ・マテル》

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9話 字が読めるのか?

 名残惜しそうに背中を撫でる指先が離れ、シーナは部屋をあとにした。


 アーミラは閉じた扉に額を押し付け目を閉じ、刻一刻と迫る別れを惜しむ。

 込み上げる涙をぎゅっと抑え込んで上を向き、そのまま手探りで歩くと褥の上に置いていた継承者の衣服を掴む。潤んだ瞳を乱暴に拭って誤魔化し、畳まれた衣を手早く広げて確かめた。旅立ちの門出なのだ。胸を張って進むと決めたのだ……今日こそは、泣いてなるものか。


 継承者の正装であろうその一張羅は、生地一つとってもかなり上等なものだということが素人目にもわかる。お古ではない。神殿が新しく仕立てたものだろう、先代達が着用した形跡もほつれも見当たらない。普通の人生では触れることはおろか、お目にかかることもなかったものだ。


 装いは青藍せいらん染めの法衣ほうえと見えるが、馴染みがないので袖を通すのも苦労した。襯衣しんいは一度前後ろを逆さに袖を通して、襟がおとがいにこすれて窮屈だとわかってから前袷まえあわせの釦留めなのだと理解するほどであった。一度着てみれば難しいことはないが、これまで貫頭衣程度の簡単な衣服しか持っていなかったので、この一張羅の内、どれが袴でどれが上衣かがすぐには見分けられないのだ。なかには袈裟けさや頭巾といったものもあったが、その時点では何に使うものなのか見当もつかず、大きめな座布団と止め紐のない巾着にしか見えなかった。


 アーミラは、とりあえず目に鮮やかな紺色の細袴ほそばかまと釦留めの襯衣しんいを身に纏い、ゆとりのある作りの巾着が頭巾だとわかると頭に被り、残る衣装は判断がつかないため背嚢に押し込んだ。ずいぶんな略装となるがそれでも見違えるほど瀟洒しょうしゃな装いだ。おそらく問題ないだろうと決めて部屋を出て、後ろ髪を引かれる思いで一度振り返り、がらんとした室内を目に焼き付けると胸に去来する思い出をそっと仕舞い込むように扉を閉めた。


 外へ出るとシーナとアダンが待っていた。その表情がどことなく剣呑で落ち着きのないように感じてアーミラは首を傾げる。


「あそこ、誰かいるんよ。お迎えなんかね」


 シーナは言う。指をさした方には言葉通り何者かが立っていた。昨晩に人影を見た場所である。……そうか。とアーミラは眉を開いて警戒を緩めると、朝日に照らされた人影の正体を見る。


 それは、黒い鎧であった。

 神殿からの迎えであることは先刻承知ではあるが、遣わされたにしては恐ろしい佇まいである。全体は無骨で重厚な鎧が覆い、関節部には薄くしなやかな板金が重なり合うことで執拗なまでに肌を隠している。古びているのか鎧には艶がなく、夜に出会えば月明かりを映すこともないのだろう。きっと目を凝らしても闇に溶けるはずだ。だからあの晩に顔が伺えなかったのかと、アーミラは心のうちに理解した。


 じっとして動かない様はともすれば置物のようであった。人が無意識のうちに行う片足への重心移動や僅かな揺れ、指先の手遊てすさびもない。陽射しを浴びて蒸し暑いだろうに疲労を感じさせない……というより、なんとなく人の気配すら感じない。

 二人もその違和感を捉えているようで、不審がるのは当然のことであった。牧歌的な農地の風景にその者が馴染むことはなく、正直、夜に見るよりも場違いで不気味な趣きは強待っている。

 神殿までの道程を共にするのだと思うと旅たちの決意が揺らぎかねないところであった。


「大丈夫です、迎えの方ですよ」アーミラは二人に答える。


 とはいえ、鎧の方も自分で誤解を解くなりすればいいのに。と、アーミラが不満げにちらりと視線を向けると、鎧はそろそろと近づいてきた。その所作はやや躊躇いがちなように映る。


「……え」


 アーミラは不意に声を洩らす。黒色の鎧に滴る血に遅れて気付いたのだ。板金の隙間を伝うようにして指先に雫を作り、一滴の血が土に落ちた。


「あなた、怪我を――」


 駆け寄ろうとしたアーミラに対し、鎧は掌を掲げて首を振る。気にするなと言うことか。態度からして、その血は自分の血ではないと言いたいのか。では誰の血だろう?


 片眉を跳ね上げて、やや顎を引くアーミラは上目遣いに鎧の顔を窺うが、面鎧のあなの奥には闇が満たされているばかりで瞳が確認できない。もしや顔が無いのではないかという思いが浮かび、いやまさかと今度は眼光鋭く覗き込んだ。鎧は無言のまま掌でアーミラを抑えてそっと距離を置くように促した。構わず覗き込む。顔が見つからない。


 そんなアーミラと鎧のやり取りは取るに足らない些細なことであるが、アダンとシーナは目を丸くした。ただでさえ怪しい存在なのに、アーミラがあそこまで距離を詰めるなんて初めて見る光景だった。この娘にどこか物怖じしない肝の据わったところがあるのは知っていたが、それでも、誰にも近付こうとしないのが普段のアーミラのはずだった。


「あなた……魔導具なの?」アーミラは言う。「だから話せない……」


 鎧は黙って頷く。そして槍の穂先を地面に向けた。土をさくって文字を彫る。


 ――次女継承者ノ刻印ヲ宿シ者、召集サレタシ。


「それは、昨日も読みましたよ……?」


 ――なんじ、刻印ヲ。


 ああ。と、アーミラは理解した。そして襯衣の釦を上から外していくと、アダンがたまらず声をかける。


「お、おい。アーミラ……?」


「え、あ……すみません。刻印を見せてほしいそうです……あ、こ、この方は神殿が遣わせた魔導具ですので、問題はありません」


「いや……それもそうだが、字が読めるのか?」


「……あ、」


 いや、そうか――と、アーミラは思う。


 アダンとシーナが戸惑うのは至極当然のことであった。この世界では識字を学ぶ者は自由人階級以上の地位の者に限られており、およそ裕福でなければ識字教養は必要なく、日常会話は口頭での発話で事足りている。この集落には言葉はあれど文字はない。


「……え、と……はい」アーミラはばつが悪そうに答える。


 アーミラが識字能力を有しているのはやはり老婆による教育の賜物である。というのも、魔呪術を学ぶ上で文献を繙読はんどくする必要があり、識字は魔呪術のための基礎、前提でしかない。そのためアーミラからしてみれば、この能力は意識して秘匿していたわけではなく、披露する場がなかったのだ。ナルトリポカでの日々のなかで、筆をとる機会も、文字に触れる場面も、一度としてなかった。


 いささか気まずい表情のアーミラを見て、アダンとシーナはその事情を漠然と悟る。彼女は、老婆と過ごした日々の中で多くの重要な物を獲得したのだろう。二人を多少なりとも親のように感じているからこそ、過去を語ることも、老婆への恩義も、表に出すことができないのだ。


 沈黙の中でとりが鳴く。長閑のどかに色彩を取り戻す朝に日が差して、アダンは言った。


「愛されているんだな」


「あ、い……?」


 面食らったアーミラにアダンは穏やかに笑い、繰り返す。


「愛されているんだ。アーミラ……。

 きっと言葉を教えてくれたお婆さんもそうだ。……みんな君のことを大切に思っている。

 愛されているんだよ」


 アーミラはその言葉をしばらく転がして、やがてすとんと腑に落ちた。


 知識も、才能も、私が手に入れたものは、どれも与えられたもの……考えてみれば当たり前のことでしかないのに、それを『愛』という言葉で表すと、かけがえのない輝きを持って目の前に現れる。


 ずっと気付かないでいたものだ。

 愛だなんて。

 私が愛されていたなんて。


 親の記憶も無く、身寄りのない私は、出会いと別れを虚しく繰り返してきた。

 誰にも馴染まず、何処にも属さず、一所ひとところにとどまらない。それが私の人生だと思っていた……だが違う。

 私は確かに出会っていた。決して闇に落ちることなく、手を握って先を示す存在がいたのだ。例え耐え難い別れが訪れようとも、その後には光へと導く新たな邂逅かいこうがあった。そしてその繋がりは消えない。共に過ごした時間、教えられた知識、与えられた思い出は私という器に注がれ、留まり続ける。


「私達だって愛しているわ。アーミラ……帰ってきてね」シーナは言いながら、言葉尻は震えてはなをすすっていた。


「……はい……っ」アーミラも思わず胸咽むねむせぶ。「必ず……」


 いったい何度泣くのだろう、今日は泣かないと決めていたのに。アーミラは一張羅の袖を濡らし、せめて誇らしくあろうと二人に微笑み、毅然と胸を張ってみせた。


 そよぐ風が襯衣の襟をはためかせ、はだけた胸元の刻印が淡く青白い燐光を放つ。


 鎧はただ賢しげに、旅立ちの決意を見届けるのであった。



――――❖――――――❖――――――❖――――

[02 黄昏へ向かう世界 完]


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