未完の神話
鈍色をした朧雲が陽射しを遮る昼の下がり、海原に孤島が一つあった。
その孤島には、天を衝く一基の塔が屹立しており、海原に突き立つ楔のようなその姿は、悠久の時を見つめ続ける厳かな佇まいである。
塔の頂上は遥か高く、山々を見下ろすほど。朧雲は塔にぶつかって左右に切り離され、裂け目からは光芒が幾筋も射し込んでいた。光線を浴びて白く煙る孤島の砂浜は、俗世を拒むように静まり返っていた。
汀に横たわる青年が一人。上は生成の貫頭衣に下は滅紫の鳶袴。脛に襦袢を穿いている。全身じっとりと重く濡れそぼり、海藻の絡んだ衣服を身体に張り付かせたまま動かない。下肢を波に晒して乾くことがなく、睫毛に砂をからませた瞳は昏々と閉じられていた。
❖
海洋の彼方から、一艘の舟が穏やかな波に艪を沈ませて進んでいた。全身を覆う白布は、波間に光る陽光を照り映えて眩しく、大きく垂れた頭巾に顔は隠されている。纏う長衣には華美というほどではない金糸の刺繍があしらわれており、ときおり艪を握る手が袖から覗く。脂っ気のない、青年期をとうに過ぎた偉丈夫の腕である。その者は世俗から離れて生きる隠者であった。
隠者が艫に立ち、黙々と水面を進む舟もまた無垢な白さである。舳先の先から全長は十振(※一振=およそ一メートル)、横幅は四振ほとで、多少の積み荷ならば載せることも容易いだろう。実際その舟には整然と荷が乗せられていた。
舳先から船尾まで、ざっと三十基の柩が並ぶ。長方形の箱が二列に整然と敷き詰められ、その全てに遺体が収められていた。
白き舟は、沈黙のうちに海を往く。
箱の天面の蓋は四角くくり抜かれており、潮風に髪を躍らせて静かに横たわる者達の顔が覗く。
どれも成人を迎えていることは確かで、一層老けている者もいれば、若い女もいた。目立った外傷はなく皆安らかな表情をしていた。肌に血の気こそないものの、こうして日に照らされているとそれが死者であるとは気付かないかもしれない。
白一色の舟の中で死者の周りにだけは慎ましやかな淡い薄色の花卉の類いが敷き詰められていて、それぞれの遺体が慎ましくも華やかに彩られている。
舟には帆が取り付けられておらず、航行は隠者に任されている。艪脚を操り波を揉む手さばきはごく自然なもので、舟はゆりかごのように穏やかに霊園へと向かう。
霊園――それは海にそびえる塔の島。
南側に位置する砂浜以外は岩礁の海岸を形成し、陸地の大半は塔の土台に占められている。
本土の者たちは敬意と畏怖の念を込めてその孤島を『死の島』と呼ぶ。名の表す通り、死者のための島。死者を癒やす霊園である。
今日も舟は遺体を運ぶ。
塔内部に存在する霊素転換炉にて、火葬を行う。
焼かれた遺骨はこの島に眠り、霊素は塔の上へ昇っていく。
死の島全体が霊園としての機能を備えており、翻せばそれ以外の機能を何一つ有してはいない。静かに死者を受け入れるだけの島だった。
「む……」
ふと目をやると、砂浜に見慣れぬものが打ち上げられていた。隠者は低く呟く。長い沈黙を破る、掠れた低い声だった。久しぶりに開かれた唇の皮はつっぱって、もともと上下に分けられることを忘れていたかのように声に遅れて開かれた。隠者は舌でもごもごと唇を湿す。
艪を握る手を緩め、前のめりに身を屈める。先にある漂着物に目を凝らし、それが人であることを察すると、特段驚くでもなく眉を顰めて独り言ちた。
「先客とは、珍しいな……」
❖
青年はいつから意識を失っていたのだろう。或いは一度、死んでいたのかもしれない。
すっかり日の落ちた夜の底。天を遮る雲は無く月明りと星空が広がる。隠者は岩礁の裂け目を利用した風除けの洞に腰を下ろして空を見上げていた。上体をわずかに右へ捻り、塔を見やる。
遥か上空、夜の闇と一つに溶け合った塔の、円筒状に開かれた頂上部からは仄明るい燐光を孕んだ煙が風に流れて筋を引きながら、夜の闇に溶けていく。島の地下に存在する霊素転換炉が、今日運び込んだ三十人の遺体を燃やしているのだ。隠者は、生業として火を操る者。だからこそ、煙をただ無心に見つめ続けていた。目が慣れてしまえば夜闇と煙の境は見えなくなるが、それでも見上げ続けていた。感慨があるわけではない。炉が問題なく機能しているかを確かめるだけの、呆けたような、無感動な目だった。その足下、焚火に焼けた流木がぱちりと爆ぜた。
頭巾の下から覗く隠者の顎先を照らす焔の揺らめきを、青年はどこか夢を見ているような心持ちで見つめていた。前後の記憶が曖昧で、目の前に座り込んでいるこの男が何者なのかわからない。白い外套が炎の橙色にゆらゆらと照らされて、夜闇に浮かび上がる様は現実感を薄めていた。
やがて、耳が潮騒の音を聴き意識が急速に覚醒すると鼻の塩辛さに盛大に咳いて起き上がる。隠者はただ視線を向けるだけで、青年の背をさすることもなかった。
「うっ! ごほっ、ごほ……っ」
肺の奥まで海水を吸い込んでしまった青年は、なんとも言えない塩味と喉の奥に残る苦味に顔を歪め、砂浜に唾を吐く。反射的に胃が引き攣り、どろりとした胃液を吐き出すと、やっと息が落ち着いた。
「うぅ、なんだ、これ……」
口元を手で拭うとかえって砂が口に入る。青年はますます顔を顰めた。
「起きたか」と、隠者。
「起きたも何も……一体なんなんだ……よ……」
青年は荒い口調であったが、言葉尻は勢いを落として呆然とした様子である。あたりを確認しようとして、焚火に照らされる洞の外側、上へ上へと伸びる大きな影に気付いたのだ。
隠者の背後に聳え立つ闇夜に溶ける輪郭、星空を左右に分ける巨大な影。青年は確かめるように視線を上に向けて影の果てを探す。
見上げるしかない青年に、隠者は短く告げた。
「ここは霊素転換炉――本土では『霊園』、或いは『死の島』と呼ばれている」
青年は青褪める。
「霊……園……? 死の島……? ってことは俺……、死んだのか……?」
隠者はその言葉を聞いて硬く口を引き結び、驚いたように目を丸くして青年を見た。呆然とした青年の表情にくつくつと身を震わせると、ついに耐え切れずに笑い出した。
「くははははっ! はっははは……いや、すまんすまん。……っ、くくく……」
心底可笑しいのか、何度も笑いを堪えようとしているもののなかなか収まる気配はない。急に笑い出した隠者に怯えるように後ずさりながら、青年は半目で睨む。
「な、なんだよ。この島は死者しか来れないんだろ? いや、確か聞いたことがあったぞ、『死の島に棲む化け物は人を喰う』って。連中がそう言ってたんだ」
これから喰うつもりなのか。と、反抗的な目で隠者に対する青年。そうはさせまいと警戒の色を宿した瞳で隠者を睨む。対して隠者は大笑に一息ついて頬を揉む。吊り上っていた口角が元あった横一文字に収まり、改めて青年を見つめた。その表情は先ほどの笑みの名残りか、僅かに柔和な、親しみのあるものだった。
「本土ではそんな噂が流れてるのか。それなら言いたいことは二つだ。
一つ、死んじまったんなら今頃はあの塔で燃してるだろう。
二つ、常識なら人なんか喰わねえわな。運び出した遺体は全て本土との取り決めに従い火葬している。お前さんは生きてるよ」
「じゃあ、あの噂って……?」
「『死の島に棲む化け物は人を喰う』か、……言い換えれば『霊園の塔は遺体を火葬する』ってことだろうよ。喩え話で怖がらせるのは、子供の躾けにはよくあるさ」
「……そう、なのか……」青年は安心したのか、力なく頷いた。
隠者は返事を聞いたかどうか、やおらに丸石から腰を上げると洞の奥へと姿を消した。
何かを取りに行くような足取りだったから青年は何も言わず見送ったものの、なかなか戻って来ないので少し不安になった。あの洞がどこまで続いているのか知らない。
どこか遠くから寄せては返す波の音が耳を打ち、闇の奥から這い寄るように響く。その音がただの潮騒ではなく何かが近づく気配のように思えた。焚火の熱は体を温めるのに十分だが、この何もない島の闇と比べれば頼りない。すこし離れた場所に視線をやれば、そこはもう夜に呑まれて何も見えなくなる。
理屈ではわかっている。何も起こるはずがない、と。でも、闇の奥を見つめるうちに、胸の奥がじわじわと冷えていく。
昔、大人たちが話していたのを覚えている。『死の島には化け物が棲んでいる』と。『黒い龍の姿をしていて、塔から昇る死者の魂を喰らう』と。誰もその目で見た者はいない。ただ、夜の海の向こうを指差し、『近づくな』とだけ言っていた。……化け物がこちらを狙っていやしないか? だんだんと不安が強くなる。星の瞬きに紛れて獲物を見つめる瞳はあるか。草むらの影に、波の向こうに……。
……この島に潜む龍が物陰からこちらを見つめてはいないか、魂を喰われてしまうのではないか……青年は孤独の中で再び恐怖に身が竦んだ。
波の音が、さっきよりも近い。まるで何かが、じりじりと忍び寄ってくるように……今にも化け物の手が波間から現れ俺の足首を掴むのではないか。ひとたび波間に引きずり込まれてしまえば夜の海は方角どころか上下の判別もつかないだろう。そんな空恐ろしい想像をして青年は身を震わせ、揺らめく焚火の方へ躙り寄った。
隠者はそれからしばらくして戻って来た。
右手には小ぶりの鍋――と言うには奇妙な装飾がなされた金属製の器だ。大きさは小振りで、ずいぶん使い古されたものであることだけは青年にもすぐわかった――を持って、左手にはこれまた年季の入った分厚い装丁の本と、ずいぶん上質な漉いた真っさらな紙の束を掴み、そして中指に硬筆を引っ掛けていた。
隠者は迷うことなく丸石に腰を下ろすと、流れるような手つきで焚火の周りに石を積み上げていく。どこに何を置けばいいか、すべて計算し尽くされているような動きだ。無駄がない。きっと何度も繰り返してきたのだろう。そうして造られた即席の窯の上に鍋を下ろして火にかけ、温めはじめた。
鍋の中には、黄色くややとろみのある液体が入っている。甘藷黍を乾燥させて粉に挽いたものを水に溶いたのだろう。本土でもありふれているものなので青年は少し安心した。
「たいした飯もないが、一夜を過ごすくらいできるだろう」隠者は匙で二、三かき混ぜると鍋の取っ手を青年の方にまわす。「鍋を持て。手を離したらぐらつくぞ。温まったら喰うといい」
青年は素直に鍋の取っ手を受け取りながら首を傾げた。「一夜を過ごす?」
「こんな暗い海を渡って本土に帰るつもりか?」隠者は問い返すと、こだわりがあるのか再び注意した。「焦がすなよ。こびりついたら面倒だ」
「帰してくれないのか?」
青年はやや驚いたような顔をして隠者を見た。隠者のほうは小さくため息を吐いて続けた。
「親とはぐれて泣き出す歳でもないだろう」
「でも、帰らなきゃ……」
「そもそも俺がお前さんを攫った訳じゃない。砂浜に打ち上げられていたから助けただけさ。
お前さんが人魚で、この島で昼寝していただけだってんなら泳いで海へ帰るといい」
「そんな……」青年はやや俯いた顔で視線だけを上に向け、悄気げた様子で露骨に肩を落とす。
隠者はこの青年が塔の存在を恐れていることを悟った。星空を遮る霊素転換炉が怖いのだ。
「焦げちまうぞ。ちゃんとかき混ぜな。夜の闇より、焦げた飯の方が始末に負えん」
隠者は匙を取って鍋底をかき混ぜる。ふつふつと沸きだした鍋では甘藷黍の粉が溶け出して、濃い黄色の液体が随分と粘度を増している。隠者は溶け切らず固まっているところを匙でほぐしてかき混ぜた。
「食え。朝になれば帰すさ」
匙から手を離すと膝もとに乗せた分厚い本をそっと広げて、さらに頁の上に乗せた紙に筆を走らせ始めた。硬筆が紙面を叩き、線を引く掠れた音が聞こえる。
横目に隠者を捉えながら、青年は匙で汁を掬って一口啜った。
もしかしたら、この男は夜通しそばにいるのだろうか?
そう思った瞬間、胸の奥の緊張がふっと和らいだ気がした。
たとえこの島が恐ろしい場所でも、少なくとも目の前の男は怪物ではない。
鍋をかき混ぜる手、紙に走る筆、ただそれだけの動作が、妙に心を落ち着かせる。
「……あんたはずっとここに居るのか?」青年は問う。
隠者は筆を止めることなく返す。
「『ずっと』とは今夜のことか、それとも俺の半生のことか」
青年はふむ、としばし沈黙。
「あんたはこの夜、ずっとこの焚火の側にいるのか」
「ずっと居る」隠者は答える。「ここは客が来るような場所ではないからな……不用意にうろつかれて場を荒らされても困るし、お前さんの見張りも兼ねて今晩はここで過ごす」
隠者は筆先でこつこつと紙面を叩くと、本の文字を目で追い始めた。
「見張り……」青年は言葉を転がす。
死の島は死者となって初めて招かれる、でなければ踏み入ることの許されない島だというのは本土では当然の知識だった。客を呼び集めるような場所ではない事は当然で、その島の全てを管理しているのが隠者と呼ばれる人物だと言うこともまた広く知られている。青年は未だ現実味のない現状に視線をぼんやりと鍋に向け、その鍋越しに男を見る。謎多き島、謎多き隠者。
もう一口匙を運ぶと、青年は再び問いを投げかける。
「ずっとここに居るのか?」
隠者の文字を追う目が止まる。ちらりと青年の方に視線だけを向けた。睨むというよりは青年の表情を見極めようとしたのだろう。
青年は茶化すような顔をしていなかった。隠者の真っ直ぐな視線に困ったように眉を下げて続ける。
「だって、気になるだろ? 本土ではあんたについての情報はまるでない……噂は島に棲む化け物の話ばかり。それこそ背中に翼がある蛇とか、巨大な牙が生えていて全身が鱗に覆われてる狼とか……魂を喰らう龍だとか……だけど、ここに化け物はいない。 ……あんたの正体くらい知りたい」
「ほう」隠者は目を細め声を漏らす。「愚者か……無知であることは可能性と言える」と、続けて呟いた。
青年は意図をつかめず首をかしげる。そもそも独り言なのかもしれないとさえ思える声だった。
「お前さんの質問の答えはさっきと同じだ。俺はここに『ずっと居る』。どれほどの歳月か……もう覚えていないな。目の前で骨になった者の数も、塔へ焼べた亡骸の数も、いちいち数えちゃいない」
隠者は焚火の揺らめく光を映しながら、淡々と続けた。
「俺はここで見守る役目だ。それだけの話さ」
「その前は? 生まれた時からここに居るのか? 親もそうなのか? 一族で代々……」
「いや、それは違うな」隠者はそう言って星空を見上げると膝もとの本をぱたりと閉じる。ずいぶん古いものなのか、閉じた時に頁のほつれから塵が舞い上がる。挟み込んだ紙が栞のように頭を出していた。青年はそれに目を取られていると、次に隠者へ視線を戻した時には真正面から面を合わせることとなり、思わず息を呑んだ。
頭巾の下から覗く男の面構えは意外なほどに端正で、無情髭もなく整えられている。額や目尻には皺が刻まれているが双眸には活力が燻り、瞳の奥には、燃え尽きることのない残光があった。
まるで、何百年も消えることのない灯火のように、ゆっくりと揺れている。
それは冷たい光ではなく、かといって優しいものでもない――
青年は目を逸らしたくなった。が、なぜか目を離せなかった。いったいどれほどの歳月をここで過ごしたのか推察することもできない。
青年は無意識に喉を鳴らした。まるで、そこに座っているのはただの男ではなく、何百年も生きてきた霊そのもののようにさえ思えた。
どれほどの死を見送ってきたのか。
どれほどの悲しみを、この瞳は映してきたのか。
「……あんた、本当に……ただの人間なのか?」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
問いかけには答えず、隠者は青年に視線を向けた。
「少し、昔噺をしようか――」
隠者は綴じ合せた本を持ち上げると青年に向けて表紙を見せた。
『アウロラ写本』そう題された本の内容については青年も多少の知識がある。というよりも、この世で知らぬものはいない聖書だ。そこには遡ること紀元前、その時代を生きた者達の歴史と、今日に繋がる世界の成り立ちが語られている……筈である。青年は概要を把握していても、実際に手にとって読んだことはなかった。
「昔噺って、紀元前のはなしをするのか?」青年は少し笑みを浮かべる。てっきり隠者の身の上話でもされるのかと思ったら、あまりに時代を遡り過ぎているため、冗談を言ったのだと解釈したのだ。
しかし、隠者は至極真面目に頷きを返した。
「俺の仕事は塔の管理……より具体的に言えば霊素転換炉の保存と維持。だが、実はそれだけじゃあない」隠者は本を持つ手をひらひらと揺らす。
「書の編纂……生きる因でもある」
隠者は片方の口角を小さく吊り上げる。その笑みは焚火に照らされて自嘲気味な陰影を浮き上がらせた。いっそ泣いているようにさえ見えて、青年は言葉の意味をすぐには理解できなかった。隠者は続ける。
「これを聖書だと言う者が増えているようだが、そんな大層なものじゃあない。ただ点在していた記録を一つに纏めたという側面においては価値があるが、それだけだ。
……それに、知ってるか? この本の別名」
隠者の問いに青年は迷いなく答える。
「『未完の神話』……でしょ?」
アウロラ写本は紀元前の人々の生活を克明に記した歴史書であり、現存しない書から引用された記述も添えて当時の信仰と戦争の日々を綴った神話を紡ぐ聖書であることは誰もが知るところ。この本を読んだことのない青年でも知っている常識だ。それに合わせて、この本が未完であるというのもまた、有名な特徴であった。
「……俺は、この本が記すことのなかった歴史を知っている」
隠者の声は焚火の揺らめきとともに低く響く。
断言するような、揺るぎない口調だった。
その言葉に青年は素直に驚いた。しかし、少し遅れて懐疑の念が兆す。今日は信じられない事ばかり起きるからついなんでも信じてしまいそうになる。……だがさすがに無理があるだろうと、目の前の隠者を冷やかに見つめた。
この聖書の空白を埋める歴史の物語。この世の飽くなき探求者が書という書をさらい、文字という文字をなぞり、それでもついぞ明るみに出ることはなかった欠落。
世俗と隔絶された、転換炉しか存在しない死の島に棲む隠者は、当時何があったのか知っているだなんて。
「……そんなこと、あるわけない」
そう言いながらも、青年の胸の奥で何かがざわつく。
もし、本当にこの男が 歴史の空白を知っているのだとしたら?
「……信じるかどうかは任せるしかないさ。……でもお前さんは、顔も名前も知らない作者が書いたこの本を信じているんだろう。ましてや読んですらないのに、信じている。なら俺の言葉を疑ってかかる道理もない」
「まあ……そう、だね……」青年は、自分がこの本を読んでないことを見透かされてたじろぐ。
そして、隠者は小さく咳をして声の調子を整え、語り始めるのだ。
「紀元前に生きていた者達の営みは確かに存在した。それが連綿と続いて今日に繋がる――紀元前六百年もの間、途絶えることなく続いた『災禍戦争』の時代――それを神々の争いと呼ぶのなら、きっとその人にとって神話たりえるだろう」
青年は息も静かに、居住まいを正した。
この夜、この出会いは無価値ではない。己の人生においてなにか変化をもたらすだろうことを感じ取ったのだ。
隠者は本を閉じ、少し記憶を思い出そうとするように空を仰ぐと、青年に笑みを向けた。
「さて、昔噺をするんだったな……まだ眠るつもりもないようだし、付き合ってもらおう。
どこから話すべきか……そうだな、やはり黄昏の女神、アーミラから始めよう。
苛烈を極めた時代を生きた、彼女達の物語――」
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[01 愚者 完]
ここまで読んでいただきありがとうございます。
意図的に格式高い文章表現を用い、異世界転生ものでありながらテンプレ要素はほとんど排しております。
全く新しい骨太なハイファンタジーとしてお楽しみいただければ幸いです。