(第八回)・最終回
家主との交渉も果たせずまま数日が流れ自転車置き場の工事も着々と進んで窓のすぐそばに屋根がつけられ周囲の枠組みもほぼ完成しつつあった。部屋のなかはますゝ暗くなりまるで昼間でも外気の光を遮断されたかたちに変貌していった。
何となく縛り付けられたような重圧が時折健太郎の心に襲いかかりそれは後半に入ってからわざと自制し始めた朝の通学時間の変化にも要因があって二重の不可解な憂鬱をきたし始めた。
工事をしているのは若い大工の兄ちゃんで彼は角刈りのずんぐりしたまるで高倉健のやくざ映画に出てきそうないかつい顔をしていた。叡山荘のすぐ傍に小さなバラック小屋を建て嫁と小さな娘と三人で暮らしているらしかった。家主が専属に手配したものか周辺の下宿の修繕や改築の仕事を主に請け負っている感じがした。
「音がしてうるさいやろ」
百田は顔を合わすたびに健太郎に言った。
「あそこの嫁はん最近廊下や便所の掃除までしにきよるけどこれも誰かが学務課に言いにいったんやろか」
百田は感心していた。叡山荘に住む人間の見えない行動が常に進行しているかのように不気味な雰囲気は入ってきた当時と少しも変わってはいない。誰も掃除人を雇ったとかこの寮の管理体制の変化については語ってはくれないのだ。
「大方、五味あたりが予備校側に文句でも言うたんと違う?汚いから掃除してくれって」
「そうかな」
毎晩のように百田の部屋を訪れていた。この間の橋戸さんが言った言葉も刺さっていたが家主に会って部屋代の値下げ交渉も未完のままだ。
「岩倉の下宿の話、この間見に行ってきたがやっぱりやめるわ」
思い出しように百田はつぶやいた。
「どんなところだった?」
「大きな家なんだけど、間取りとかそれと家族と顔を合わすのがどうも…」
「何という家だったの?」
「床尾っていったかな」
「家族と顔を合わすってどういうこと?」
「だから下宿でもその家のなかの一部屋っていうか、つまり間借りになるわけや」
亜紀の家だ。床尾と聞いて健太郎は直感した。岩倉で大きな家といえば結びつく。偶然とはいえまさか百田が言っていた下宿探しの件が亜紀のところだとは思いもよらなかった。早鐘を打つような高鳴りが健太郎の胸をかき乱した。果たして百田はその日亜紀に会ったのだろうか。
「やっぱりこの寮であと三ヶ月ほど頑張ることにするわ」
百田は気を取り直したように言って、
「ところで家主のところへ行った?」
と話題を変えて健太郎の部屋代交渉の件を尋ねた。
「行ったけどいつも留守で」
と健太郎は答えて亜紀を思い浮かべたまま黙った。自分にとってもあと三ヶ月なのだ。同時に亜紀のことはそれまで百田に言わないでおこうと決めた。
「やっぱしあの部屋は条件が悪くなるで」
同情して言っているのか単なるお節介かそれとも金銭感覚で物事を判断するのか百田は相変わらずこの間と同じように健太郎に教唆するのだった。
寒くなった夕暮れ時、大相撲の千秋楽の相撲をどうしても見たいと百田が言っていたのを思い出し百田を誘って隣の大工の家へテレビを見せてもらいに行った。狭い四畳半の部屋にちゃぶ台が置かれ一升瓶を傍らに置いて若い角刈りの彼が大相撲中継を見ていた。頭にねじり鉢巻をし、太い両腕をまくりあげ二人の姿を一瞥すると「おう、あがれあがれ」とだけぽつんと言った。部屋のなかは乱雑でパジャマや雑誌が散乱し、一目して何ら俄作りの飯場と大差なかった。隅のもうひとつの部屋のほうで小さな娘の泣き声が響き掃除に来てくれている嫁さんは夕食の準備に追われている感じで忙しそうに台所に立っていた。
裸電球が淡くそして長い光の影を落としていて大工の額に反射していた。
「わしらは学ないから一日中働いて、帰ったら酒飲みながらテレビ見るのが楽しみや」
大工はコップに注いだ酒を煽りながら二人に言った。嫁さんはいつの間にか外へ出かけて何かを買ってきたらしくその包みを二人の目の前に差し出した。
「一階の人やねえ?いつも主人が喧しくして音がうるさいでしょう、勉強の邪魔をして」
申し訳なさそうに言った。
「これよかったら召し上がってください」
包みの中身はたこ焼きだった。
「何やったら一杯やるか」
傍で大工が一升瓶を片手に取った。
「だめよあんた。未成年の人に」
仄かに立ち昇るたこ焼きの湯気の香りにその若い嫁の気遣いが痛いほど身にしみてくる感じがした。家主への直訴が次第に薄れていく温かなぬくもりが健太郎の心のどこかで広がっていた。
帰りに百田が思い出したようにぽつんと言った。
「そういえば里見、最近朝の電車乗らないけどなんでや」
「たいてい一時限目は必要ないんだ」
「そうか」
しかし来週には模試が控えている。受けないわけにはいかない。健太郎は百田の着眼した疑問にはすり抜けることが出来たものの模試ばかりは時間をずらすわけにはいかないと思った。そしてそれは決心していたことがやがて崩れる日であることを想像した。
冷たい風が京の街に吹き荒れていた。いくら歩いても足元で枯葉がカラカラと音を立ててまとわりついていた。小原君の下宿を久しぶりに訪ねても彼はこのところずっと留守で暗い廊下にはただ深い静寂だけが待っていて人懐っこさを漂わす彼の面影はどこにも見当たらなかった。
亜紀と夏以来はじめて電車のなかで会ってしまってその複雑な心境を語れるのは小原君以外にはないと思った。
銀閣道の交差点から今出川通りに向かい初冬の訪れる舗道を当てもなく西に向かって歩きつづけた。満員の朝の通学電車で見た亜紀の横顔が浮かんでは消えた。彼女は全然気づいていない様子だった。ただ三メートル先の距離が夏以来の誓いを偶然にしろ壊そうとした瞬間だった。敢えて壊すつもりもないのに現実として乗り合わせてしまったのだから皮肉といえば皮肉な出来事といわざるを得なかった。彼女は楽しそうに友達と話をしながら窓側に立っていた。背を向けた格好になっていたので時々しか横顔が見えなかった。
予備校へは、鞍馬口まで市電に乗り換えなければならない。元田中で降りるまでの約十二分が夏の終わりにお互いが誓った予期しない再会を作り上げていた。しかしそれはただ健太郎だけが垣間見た彼女との再会であり実際には彼女は気づいていないので成立していないことは明らかなのだ。
小原君にも会えず結局健太郎は一日中冬の京の街を歩きつづけた。
暗闇に長い道のりが仄かにつづいているような静けさが漂っていた。タバコの煙は頼りなさそうにゆらゆらと昇りやがて白い輪を浮かばせながら自転車置き場の屋根へ消えていく。
新たな年が明け受験戦争からとりあえず一段落した夕べ健太郎は窓辺にたたずんで外の空気を見つめていた。既に受かった大学があり本命はこれからの予定ではあったが気分的には楽な感じを持つことが出来た。
叡山荘の他の仲間もほぼ連日のように合格、不合格の話題を噂しあった。百田はもうすぐ受験が近い。もう頻繁に部屋を行き来して夜明けまで語ることはなくなった。
遠くで笑い声が響きどこかでギターの音色が聞こえた。すべてが安堵しているかのような呼吸が感じられ健太郎はもう一度手に持ったタバコを見つめ直した。そして自分の吐く紫煙をまるで未知の世界に一歩踏み出したもうひとりの自分の影と重ねて不可思議な躍動を感じていた。
健太郎はこの日二十歳になった。