(第六回)
「叡山荘」に戻ってきたのは九月も第二週に入っていた。台風十四号が近づいていて夜になって外の風雨も強くなり始めている。東にある窓を見つめながら健太郎は寝転んでいた。相変わらず静けさの漂う「叡山荘」に篭ってしまうといたたまれなくむしょうに亜紀に会いたいと思った。しかし前半をバイト中心の生活に費やしてしまったので後半はそれを取り戻さなければならない。第一、最後の日亜紀とデートしたとき今度「叡山荘」に戻ってきても会わないことを約束したはずだった。これからは本格的に予備校中心の生活を始めなければならない。
電灯が消えたのはそれからしばらくたってからだった。
「風見さんいる?」
戸をたたく音がした。
「停電らしいなあ」
「全部消えてる」
百田と二人で真っ暗な廊下に出て話をしていると各部屋からみんな出てきてざわめき始めた。
「弱ったなあ、何とかならんのかいな」
「時間がかかるかもしれんな」
台風の影響としか思えなかった。
「しゃあないなあ、ろうそくでもつけよか」
やがて、百田は自分の部屋に戻っていく。
「台風で停電やなんて珍しいなあ」
一緒に百田の部屋に入り久しぶりに雑談がしたくなった。
激しく鳴る雨と風の音が百田の部屋でも響き渡っていた。用意したろうそくに明かりを灯すと深くて大きな影が四方の壁に揺れ、参考書の匂いだけが妙に鼻を衝いた。仲間は頑張っているというのに後半になって夏の置き土産とも言うべきか、自分の前に立ち塞がっている朦朧とした迷いとは何者なのか。健太郎は少しでも気を紛らせたいと思った。
「来週は二回目の模試やな。頑張ってるか?」
「あかんなあ、さっぱし進まんわ」
百田は嘯くようにしてにんまり微笑む。
「ちょっと引越しでもしようかいなあって思とんのやけど」
百田は急に下宿を変える話をし始めた。
「叡山荘を出るのか?」
「ええとこがあるらしいわ、岩倉にな」
「岩倉?」
健太郎の脳裏に亜紀の豪邸が浮かんだ。
「ここは集団の寄り合い寮や。どうも落ち着かん感じがしてなあ」
「まあ、確かに」
うなずきながら心は亜紀に飛んでいた。あの夜、何度彼女の家の周りを回ったことか。初めて出会ったときの印象がそんなに話すことになる原因になったというのだろうか。翌日のデートにしても祇園で「珊瑚礁の彼方に」という映画を見て加茂川を散策し、円山公園を歩きそして別れるときは来年合格するまで会わないでいようとなぜ約束してしまったのだろうか。まだ燻り続ける浪人特有の不条理さに今となっては耐え切れそうにもない状態になりつつあるのだ。
「八瀬遊園のバイトのとき岩倉の女子高生がいたよ」
健太郎はぽつんと言ってあとは黙った。百田がなぜ岩倉を選んだのか不思議な気もしたが聞かなかった。
「まだ分からんけど、それにしてもここは落ち着かんなあ」
揺れる炎を睨みながら百田はつぶやいた。
亜紀のことがやっぱり気になっていた。学園祭の季節になると余計に彼女のことが頭に浮かんで勉強に身が入らない日がつづいていた。小原君の下宿に久しぶりに行って気を紛らわそうと思った。彼は木曜の午後はいつも居ることになっていた。
八幡前の駅へ向かった。予備校はさぼった。昼下がりの無人駅に淡い陽炎が落ちて肌にあたる風にも何となく物寂しい秋を感じさせた。あの夏の終わりが無性に恋しかった。電話すれば彼女に会えるのだ。しかし、会わないほうが乱れなくてすむ。あと数ヶ月の辛抱だ。健太郎はまるで修行に励む求道者のごときかたくなな意志を貫こうとしていた。前半の最後、まさかこんな大きな試練を抱え込むとは思いもよらなかった。今の健太郎はただ小原君と会ってへらへらとのんきそうに構える彼のその雰囲気を味わいたかった。
元田中で降りて市電に乗り換え銀閣道まで出て細い路地を二つ下がり東に入ったところのいかにも京風な下宿屋だった。
暗い廊下を渡り久しぶりに彼のあてがわれている部屋のガラス戸の前に立った。
「風見や」
「おう」
眠そうな声が返ってきて相変わらずバイトに明け暮れている小原君の影が部屋のなかで反応した。
「眠くて」
「徹夜か」
相変わらず部屋のなかは乱雑でジーパンやシャツが散らかり週刊誌や漫画や参考書が散らかっていた。
「学校は?」
「自主休講や。お前もやろ」
「木曜は定休よ」
「そうだったな」
小原君はあくびをしながらさっきまで寝ていたといいポケットからタバコを取り出しておもむろに火をつけた。電気コタツのテーブルの上には吸殻でいつぱいになった灰皿とコーヒーカップが置かれていてその横に彼の行っている予備校の模試の資料が広げられている。
「大丈夫なのか?木曜定休なんていって」
「平気、平気。それにバイトも今日は休み」
鼻から煙を出しながら彼は無邪気に笑った。健太郎はいつも思うことだがその余裕に圧倒された。本店で一緒にバイトをしているときにも彼の仕草のちゃらんぽらんで幼稚なようでそのくせ一方で隠されていそうな理知的で狡猾な準備を想像したものだった。きっと余裕はそこからくるに違いない。何よりも常に明るくて人懐っこい彼の印象は凡そ浪人生の姿とは思えなかった。
健太郎は後半に入った今、抱える別の問題を彼に打ち明けたかった。どうすれば彼のように平気、平気と笑って乗り越えることが出来るのだろうか。二浪目の苦境は平気どころの話ではない。
「バイトまだつづけているの?」
「そう。しんどいわ、最近」
「みんな変わりない?」
「あ、そうそう、大川さんは辞めたみたい」
「試験だろ?」
「そんなこととは違うみたい」
健太郎は想像した。小原君は何となくそれはめぐみとの関係を示唆しているのではないかと思った。だが今はそんなことは自分には関係のないことである。でも心の隅で得体の知れない純粋な怒りのようなものを感じていた。単純な悪意に満ちた偽りに対するちっぽけな憤りである。性分なのか未熟なのかとにかく健太郎はめぐみを弄ぶ大川さんを想像してそう思った。
「いろいろ噂があってさ」
案の定、小原君は含み笑いをしながらめぐみとの関係をほのめかした。健太郎はそれ以上探るのをやめてただ小原君が吸うタバコの煙を見つめながら生返事をした。
「ま、分からんわ。純情な女のコの気持ちって」
ため息を吐くようにして言ったあと小原君は灰皿にタバコをもみ消しそして健太郎の目を見てニヤニヤと例のごとく微笑んだ。健太郎は今日何のために小原君に会いに来たのだろうとさえ思わずにはいられなかった。大川さんとめぐみのことが店のなかで噂され大川さんはとても店に居れなくなって辞めたという話がなぜこんなにも自分を複雑に揺り動かすのだろうか。何か純粋なものを壊したくないかのような反動から起こる小さな憤りに似た感情がなおもつづいていた。
「インスタントコーヒーでも飲む?」
小原君は思いついたように電気ポットのスイッチを操作しながら立ち上って小さなラックからインスタントコーヒーと砂糖やクリープを取り出してきてテーブルに置いた。そしてぶつぶつひとりごとをつぶやくようにして、
「あのさあ、千本通りのストリップ劇場なんだけど、すげえぜ」
と言った。
「特出しっていうやつよ」
彼は目を輝かせながらひときわ余裕のある含み笑いを投げかけた。それから詳細にその状況を語りながら健太郎のカップに湯を注ぎコーヒーを作った。
「あそこは真っ黒けのけ」
まるで優越感に浸るように次に自分のカップに湯を注ぎ何の心配もない浪人生のごとき微笑を浮かべながらコーヒーを啜った。
亜紀のことを相談しようと思っていた健太郎の思惑はまるで次元の違う方向へと一挙に蹴散らされた感じがした。健太郎はこの後半こそに賭ける時間的な損失を大いに焦っていたにもかかわらずどうしても夏の終わりの出来事がいつまでも尾を引いて勉強に熱が入らない。小原君に会えば何とか刺激になると思いやって来ているのだ。ところが、いきなり前半の話題を穿り返すような噂さ話があり、ストリップの話だ。
うんざりというより健太郎はしばらく己の未知の部分の幼稚さや純真さに初めて光を当てられるかのような軽い衝撃を覚えていた。めぐみを誑かせたとされる大川さんに対してまるで正義の騎士みたいに憤る自分やストリップ劇場の「特出し」を知らない自分はまだ世間を知らない未熟者だと思った。それにしても女性の未知の部分の実態が小原君の口から知らされること自体が新たな衝撃であり、同じ浪人生として遥かな次元の差を感じないわけにはいかなかった。
「お前は余裕あるなあ」
健太郎は何気なくつぶやいた。小原君は退屈そうに欠伸をひとつしたがそれから何を思いついたのか一枚の写真を取り出してきて健太郎の目の前に差し出した。
「これ、高校時代の彼女や」
真面目な息吹が彼の口元に感じられた。清楚な一人の女性が写っていた。
「同級生だけど彼女は今何処へ行ったのか分からん」
「進学組か」
「どこかの大学に入ったと思うけど音信不通や」
小原君の悔しそうなため息が聞こえた。健太郎は写真を握りながらその上に亜紀の顔を思い浮かべてみた。来年は必ず合格してねと最後に言った亜紀の言葉がよみがえってきた。辛いような歯がゆいような躍動するような熱い気持ちが強烈に噴き上げてくる。この思いは「叡山荘」に戻ってきてから毎日のように捉われている感情だったがこの写真を見ているとますゝ募り健太郎はいよいよ小原君に亜紀のことを話そうと身構えていた。しかし小原君は間隔をあけずに今まで黙っていた秘密を一気に解くように独壇場のごとくして高校時代における彼女との思い出を語り始めた。
日は暮れガラス戸に落ちた淡い光が反射し廊下は依然としてひっそりと暗く静まり返っていた。小原君の思い出話は何か飄々としていて健太郎が今直面している悲願的な動揺とか迷いが感じられなかった。過去とはいえ交際していた中身は圧倒的に大人にみえた。
「つまり自由だったのかな。学校全体が」
話し終えると彼はその写真を仕舞いながらもとの人懐っこい目に戻った。
「でも行方が分からないってどういうことだよ」
「音信不通さ」
健太郎は疑問に思えた。お互い将来の夢を語り、愛し合いながら志望校目指して励ましあった彼女が今春何処へ行ったのか分からないはずはない。恐らく彼は彼女に連絡先を教えていないのではないか。しかし健太郎はその問いも敢えて控えた。ただなぜか虚しさだけが覆った。
しばらく沈黙が流れ夕暮れの侘しさが六畳の薄明かりのなかを包んでいた。テーブルの上には模試の関係資料が置かれいっぱいになった灰皿が光りインスタントコーヒーのカップが並んでいるだけだった。二人は腹を空かした浮浪児みたいな目つきでただ将来に対する飢えた感情を抑えていた。木曜を定休日にした小原君と前半のギャップを埋めることすら出来ないでいる健太郎の姿が固まった塑像のような影を落としていた。
しばらくして小原君は提案するような口調でのんびりと健太郎に声をかけた。
「本店にでも行って飯でも食おうか」
「そうだな」
健太郎は久しぶりに見る本店の仲間たちの顔を想像した。
新京極の賑わいが目の前に広がる。周辺のパチンコ店から相変わらず歌謡曲が外まで響き渡っていた。人通りも絶え間なく往来しネオンが人々の顔に交錯する。対面の牛カツの老舗「村瀬」のガラス扉も懐かしい。
前半通いなれた「スター食堂」本店のドアの前に立ち二人はしばらくなかを覗き込んだ。
「いらっしゃいませ」
目の前の扉が開いた。
「なんや、君らか」
ドア・ボーイをしていたのは森君だった。彼は愛想よく微笑みながら二人をなかに招き込み健太郎を見て「久しぶり」と弾んだ声を出した。
中央の奥に見慣れたカウンターがあり、そこは軽食と喫茶とが利用できた。なかに入っているのは綱島さんだった。カウンターの隅のところに少し空いたスペースが設けてあり厨房から出された料理がそこに載る。だからその辺りに座ると厨房の様子も僅かながら覗けることになっている。二人は奥のカウンターへ向かった。
全体に客の入りは六割程度でカウンター席は誰も座っていなかった。
「おっ、珍しいなあ」
白のシャツに蝶ネクタイをした綱島さんが目を丸めた。カウンター隅にあるガラスのポットからグラスに水を注ぎながら、
「お前は今日は休みとちゃうのか」
と小原君を見ながら言った。
「へへへ、飯を食いに来ました」
「そうかそうか」
綱島さんは微笑みながら健太郎のほうにも顔をやった。
「風見も元気そうやな。しっかり勉強してるんか?」
俺の涙は俺がふくを歌っていた綱島さんの姿がよみがえってくる。レジの女の人はいつもの南さんでホールには森君のほかに見慣れた男性はいなかった。厨房からは時々聞きなれた声が漏れそれが懐かしい蒲田さんの声だと気づくのに時間はかからなかった。
「何にする」
森君が例によってちょこまかと飛んできて二人の間に入る。
健太郎も小原君も別にまだ決めていなかった。森君は健太郎に何か話をしたいような素振りをみせていた。
「何でもいいよ」
小原君は曖昧に答えた。そんな返事に森君は静聴せず健太郎の耳元で囁いた。
「あのさあ、松原智恵子似の人ね、今俺と付き合ってるんだ」
「そう」
意外な話だがなぜか和やかな連帯感で繋がっているような妙な懐かしさでいっぱいになっていた。松原智恵子似といえば蒲田さんに繋がっているのだが彼がどうしてそこに加わったのか分からなかった。
しかしそんな話よりもやっぱり前半が懐かしい。何よりも今日は自分が一生懸命働いたその職場に来ているのだ。変わりのない店の雰囲気や漂う料理の匂いや厨房の忙しそうな音やさらには外に聞こえる雑踏はすべて森君の話した内容をただ笑って聞き流すほど圧倒的に健太郎の胸に突き上げてくるものを与えていた。
「おい、水まだか」
突然背後から客の催促する声がして、森君は慌ててポットに手を伸ばした。
「ハンバーグライスにするわ」
「ぼくも」
綱島さんに向かって小原君が返事をしたので健太郎もつづいて答えた。
「よっしゃ。ハンバーグライス二丁な」
急いで客のテーブル席にいく森君の姿を追いながら綱島さんは苦笑いして言った。
「俺の伝票で切ったるわ」
小声で二人に告げるとちょっと離れた隣の厨房の間口に向かった
「ありがとうございます」
二人は同時に軽く会釈した。社員の伝票だとここでは原価で食べれるのだ。通しを終えると綱島さんは戻ってきて手持ちぶたさを表わすかのように少し鼻歌を交えながらコーヒーメーカーの調整具合や湯で温めているカップの点検や洋皿の位置とかを確認している。
「今日は宴会はないのですか」
健太郎が尋ねると、
「二件だけ。ちっちゃな会合や」
綱島さんは相変わらず小声で口ずさみながら答えた。
「最近暇ですよね」
小原君が同調するように口をはさむ。
「ところで、八瀬はどやった」
「ええまあ、忙しかったですよ」
「ええコはいなかったのか」
「いっぱいいて楽しかったですよ」
小原君にも打ち明けていない亜紀との出会いを綱島さんに語るわけにはいかなかった。夏の日のしかも最終日の淡い恋心を秘かに胸に仕舞い込むだけである。
「皆さんお元気ですか?」
話題を逸らそうと思い健太郎は尋ねた。
「変わりないよ」
綱島さんは答えながら、
「お前らデザートも食っていくか、俺がおごるからさ」
カウンターは暇そうである。綱島さんはうしろの冷蔵庫に目をやった。宴会係で仕事をしていた頃よく二階や三階からここへ降りてきてデザートのアイスクリームを取りに来たものだ。あの頃はいつもこのカウンターのなかで南さんが仕切っていた。そういえば今日は南さんの代わりに綱島さんが入っていることに初めて健太郎は気づいた。いつも自分たちが運んでいた洋食コースのデザートを今日は綱島さんが作ってくれる。
「いただきます」
二人に異論はなかった。笑みがこぼれるのみである。
「南さんは休みですか?」
健太郎は尋ねてみた。
「そう」
公休日なら奥さんも一緒にとればいいのにと思いながら健太郎は今レジで仕事をしている南さんの奥さんのことを思った。いわば二人の社内結婚は有名な話でまだ新婚さんだと聞いていた。仕事はいつも同じホールの玄関と奥のカウンターにいたので誰が見ても毎日熱々の夫婦を見せられているような感じだった。
「何や来てたんかいな」
厨房から突如としてコック帽を被った見覚えのある顔が現われた。出来上がったハンバーグを運んできたのだ。
「久しぶりです」
健太郎は蒲田さんに挨拶した。
「頑張って勉強してるか」
相変わらず強面だが声の裏に優しさがあった。彼は果たして松原智恵子似の女子大生から買ったダンパに行ったのだろうか。梅雨がつづていた頃彼女とデートだと言って長靴をガッポガッポ鳴らしながら電車に乗り込んでいった光景が思い出される。
「ダンスパーティーはどうでした?」
健太郎が尋ねると蒲田さんは手を振りながら何を意味しているのか「話にならん」と苦笑いしたあと忙しそうに「ゆっくりしていき」と言い残して厨房に消えた。
傍らでタバコをふかしていた小原君は「何のことや」とニヤついていたが料理が来たので早速食べ始めた。
ホールはいつの間にか客が増え森君と他の新しい従業員が忙しく動き回っていた。カウンターに置かれている水を次々と汲んでは席へ運んでいき注文の伝票を持ってきて厨房へ通した。
森君が耳打ちした言葉が脳裏を掠め蒲田さんの「話にならん」とぼやいた表情がなぜか重なるような気がした。森君ならやりかねないなと思い健太郎はひとりで納得していた。そしてなぜか蒲田さんがむしょうに大きく見えた。
やがてカウンターの席にも客が座り始め、最後に綱島さんが出してくれた特製のアイスクリームも急いで食べ終わると二人はレジへと向かった。
「風見君、彼女でも出来たん?」
原価で飲食した伝票を打ちながら南さんはにっこり微笑んでいた。
「なぜですか?」
「顔に書いてあるわ」
彼女はわざと魅惑的な目つきで健太郎を眺め、そして茶化した。
「そうでしょ、彼はこの夏いいコを見つけましてん」
小原君が冗談を言った。