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(第五回)


煮え切らない思いが健太郎の頭のなかに居座りつづけた。

毎日、眩むような直射日光の下で額に汗して昼間はプールサイドで働き、夜に「叡山荘」に戻ってくれば何もする気も起こらないほど疲れ果てひとり東向きの窓をぼんやり眺めながら秋になれば再スタートするしかないとそればかり思った。しかしこれから先のことを思うとこの窓のすぐそばで「叡山荘」の人間が入れ替わり立ち代りガヤガヤ、ガチャガチャと自転車を引き出す光景を想像すると再スタートどころではなくなるかもしれない。憂鬱なことばかりが控えていそうだ。 

めぐみのことだって自分勝手な想像だったことが眼に見えない大きな衝撃だったかもしれない。小原君からその話を聞いたとき確かに今自分の置かれている状況のせいにしてしまった感じがするのだ。大学生でも社会人でもない中途半端の状況がなんとなく行動を鈍らせているのではないか。

早くこの状況に対する束縛から逃れなければすべてが前に進めないような気がしてならない。二浪目の焦りがますゝ暗い影を落としているような気がする。

夜も更け静まり返った東の窓を眺めながら健太郎はもうすぐ十代最後の夏も今年で終わりなんだとふと思った。


夏の終わり。この日がバイト最後の日だった叡電・八幡前に降り立ったとき健太郎は例の高校生のバイトのコと並んで無人の改札口を出た。

「家はどこなの?」

 健太郎は彼女に話しかけてみた。

彼女の名前は床尾亜紀といった。亜紀はプールサイドとかホールとか皿洗いのバイト生で七月の中旬からきていて彼女も今日が最後の日だったのだ。これまで仕事中に何度か話すことがあったしよく冗談を飛ばしたりしていたのだが「私も叡電・八幡前から来ているのよ」と聞いただけで一度も一緒に帰ったことはなかった。

「岩倉よ」

岩倉は「叡山荘」とはまるで反対の方角であった。改札口を出ると線路を渡り自分はいつもの高い石壁塀の並ぶ細い路地を通り抜けて帰らなければならない。しかし健太郎はこのときなぜか彼女に対する妙に引き摺ったバイトの最後の名残りを彼女に感じたというか自然と彼女の帰る方向へ一緒に向かって歩き始めていた。

「送って行くよ」

「いいんですか?」

 ひと月余り一緒に仕事をした親密感が何のためらいもなく二人の間に漂い、彼女はかえってそれを最初から望んでいたかのようにも思えた。

 真っ暗な道の草むらから夏虫の音色が断続的に響き渡っていた。星空も澄み切っていて昼間の灼熱から一転した闇のなかで全体を覆うかのように散りばめた輝きを放っていた。

「夏休みも終わったね」

「だいぶ稼げたわ」

「何に使うの?」

「ギターが欲しいの」

「フォーク?」

「そう」

仕事中に話をしていたことを健太郎は覚えていた。松原智恵子似の女子大生は部活費にあてるために更にダンパをやり、女子高校生の亜紀はフォークギターを買うためにバイトで稼ぐのだ。健太郎はこの半年近くにわたるバイトは何のためだったかを考えながら歩いていた。明朗な彼女の横顔は溌剌として輝いているかに見え自分は暗澹とした時の流れだけを消化してしまったような複雑な気持ちを引っさげて歩いていた。やっと前半が終わりとりあえず区切りをつける意味で明日から田舎へ帰るつもりでいた。実家で、二、三日過ごす計画を前々から立てていたのだ。頭も体もすっかりバイト生活のパターンに定着してしまってその習慣化した疲れのようなものを洗い流してしまいたかった。

「風見さんは明日から家へ帰りはるんでしょ?」

「そう。舞鶴へね」

 暗い夜道にまだ夏の名残りの馨りが吹く風のなかに染み込んでいて並んで歩く二人の頬を撫でていた。彼女は学校のこととか家族の話とかギターの話とか次々と語りつづけまるで有頂天になっていた。健太郎の知っているめぐみや松原智恵子似の女子大生とは明らかに違った分野で健太郎の空しいような終了日の心をほぐしてくれていた。バイト中でもほとんど気がつかなかったものを今、まるで突きつけられるような幻覚が次第に健太郎の胸中を駆け巡りそれはかなり接近して歩く彼女の甘い黒髪のなかに潜んでいるかに見えてきた。

「ねえ、舞鶴ってどんなところ」

「港町だよ。海上自衛隊の町って言ってもいいかな」

「ええわねえ。海の見える町って」

「そうだよ。かもめがスイゝ飛んでいる」

「のどかねえ」

健太郎は憂鬱さから開放されていた。ひとり「叡山荘」に寝転んで考えていた後半の憂鬱な靄みたいなものが転々と晴れていくのを感じていた。

「二、三日のんびりとかもめでも眺めてくるよ、バイトも終わったことだし」

 暗闇の道はやがて広がる田圃を通り足元ではまた夏虫が微かに唸っているような音が周囲に満ちた。二人の影はゆっくりと進み、次第に岩倉が近づいてくる。彼女は海を飛ぶかもめの情景を想像しているのかうっとりとして黙ったまま歩いていた。

いつか本店の花村課長のほざいていたモンマルトルの街角にはシャンソンが流れていましてねという一説が思い出される。かもめの情景とモンマルトルの街角とは全然違うけど健太郎の今の気持ちは何となく跳ねているような気分に覆われてしまった。横に並んだ彼女と一緒に海を眺めそしてかもめを眺めている情景を思い浮かべながらしばらく無言のまま歩きつづけた。

やがて彼女の足がゆっくりになり、そして顔を上げた。

「着いたわ」

 付近の電柱から射す明かりに照らされた彼女の顔は表情が一瞬変わって見えた。

「ねえ、もう少し歩きましょ?」

 声も何だか今までの快活な響きとは一変しかすれて半泣きの声に聞こえた。目の前には知らないうちに数件の家が立ち並んでいて彼女の指す家とは大きな豪邸のような建物だった。岩倉とはここかという驚きがまず健太郎の目に写っていた。バイト中の彼女の感じから到底想像もつかないほどそれは高級住宅街の一角であり田圃で囲まれた「叡山荘」とは雲泥の差があった。

高まった感情を抑えきれないものに包まれ彼女はなぜか帰ろうとしなかった。

 

舞鶴での休養は休養どころではなかった。これから始まる後半に向け心を引き締める気分転換が返って心乱れるその調整に迷いつづける結果となったことは否めない。健太郎の頭のなかは亜紀のことが占領してしまった。

毎朝、港まで散歩して突堤に腰を下ろしかもめを見つめても常に亜紀の顔が浮かんだ。家へ戻って予備校の教材を広げても少しも打ち込めなかった。結局あの夜は彼女の家の周りを何周も回り、そして取り留めのない話を延々とし、最後は翌日の再会を約束して別れたのだった。おかげで舞鶴に戻ったのはその翌日となってしまった。

潮風に吹かれながら亜紀と過ごした京都での最後の一日の思い出に浸りながら健太郎はただ海を眺めつづけていた。



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