(第四回)
薄日の曇り空に朝方の雨模様の影はすっかり姿を消していた。
やって来てから一週間が過ぎた。電車で十五分はやはり便利だった。
「蒲田さん、どうします?」
健太郎は上がり時間を確かめる意味で厨房に向かって呼びかけた。
「そうやなあ、ちよっと時間が早すぎるかなあ」
「五十分にします?」
「おお、それくらいやな」
コック姿の蒲田さんはにやりと目を細めてうなずいた。
新京極の本店からこの八瀬遊園の支店に希望を申し出たのが六月の半ば過ぎで七月から健太郎はこの八瀬遊園にバイト先を変えた。寮のある叡電八幡前からこの八瀬遊園は次の宝ヶ池で乗り換え一つ目の駅で新京極と比べると夢のような近さだ。二浪目の前半はバイトをする決心でいたのでこの八瀬遊園も八月いっぱいでお終いだ。ちょうどこの出店も遊園内にプールを擁している関係もあり夏場だけの営業だったのである。遊園地自体は叡電の経営であったがなかにあるプールはまた別の会社が運営していた。その会社もプールサイドに洒落たレストランを出し健太郎のバイト先のレストランと競い合っていた。
この八瀬遊園の店に変わってから一週間が経っていたが相変わらず雨が降り続け梅雨明けにはまだほど遠いかった。おかげでプールにやって来て泳ぐ客はなく僅かに園内にあるゴーカートやジェットコースターに乗る家族連れや若者が少し来る程度だった。お陰でレストランは暇で退屈な一週間だった。
他会社のプールサイドのレストランには若い女子大生がバイトに来ていてやはりそちらも退屈らしくお互い顔を合わせては冗談を言い合ったりした。厨房の蒲田さんは、そのなかの一人を特に気に入ったらしく健太郎に暇さえあれば「松原智恵子に似ているなあ」とそればかり健太郎に言っていた。
上がったあといつも蒲田さんと八瀬遊園の駅まで一緒に歩いた。電車はいつも午後五時五分の上りだった。健太郎は次の宝ヶ池で岩倉方面の電車に乗り換え蒲田さんはそのまま終点の出町柳まで行く。この八瀬遊園でバイトをしているほんんどは出町柳方面へ帰っていった。
客がない日は五時上がりが四時半になり電車は四十五分と決まっていた。ところが今日の蒲田さんはどこかソワソワしていて様子がおかしかった。
「わしは今日はデートや」
蒲田さんは打ち明けた。だからいつもの電車の時間をわざと遅らせたかったのだ。支度をして一緒に八瀬遊園駅まで向かう途中蒲田さんはしきりに空を見上げながら「今朝は雨が降っていたからなあ…かっこ悪いなあ」とくやしがった。ガッポガッポと蒲田さんの履いている長靴の音が響いていた。
駅に近づいてくると、突然蒲田さんは健太郎の肩をつかんで足を止めた。
「ちょっとまずいかもしれん」
「何ですか?」
「同じ電車になるかも分からん。お前悪いけど見てきてくれんか」
デートする相手のことだと健太郎は直感した。あの松原智恵子似のコのことだ。五十分の電車は八瀬遊園駅発となるので既に入線している。まさかデートする相手と同じ電車に乗って行くにはちよっと照れくさかったのだろう。
「いいですよ。あの人が居ないかどうか確かめてくればいいんでしょう」
健太郎は笑いつつ急いで駅の改札口を通り一番線に止まっているたった一両編成の車両に向かって走って行った。
大勢の女子大生が既に乗り込んで座っていた。ほとんどが八瀬遊園で働くバイト生だ。そのなかに案の定、彼女も混じっていた。
健太郎は急いで引き返してきて蒲田さんに告げた。
「蒲田さん、大丈夫ですよ。居ませんでした」
内心、健太郎の心は吹き出していた。
「そう」
蒲田さんはほっとしたように長靴の音をガッポガッポと鳴らしながら健太郎に続いて改札口を通り電車内に入って行った。
ちょうど彼女の対面のシートに二人分のスペースが空いており健太郎はわざとそこに座った。
数日後やっと梅雨明けとなり連日強い陽ざしが射した。ぎらぎらと輝くプールサイドには水着姿の若い女のコの姿が群れた。
レストランの外のプールサイドにテーブルが並びやって来る客はほとんどがそこに腰かけて飲み物や食べ物を注文した。特に夏休みに入った第三週目からは連日のように目が回るほど忙しかった。
「おい、風見。出来上がってるぞ。はよもってけ」
厨房から蒲田さんの怒鳴り声が響く。
あれから蒲田さんの様子が少し変わったようだ。一杯喰わせた健太郎に急に親密感を持ち始め何かといえば「この俺に恥をかかせやがって」と睨みつけてはいたが目は笑っていた。
「とろとろすんな、ぼけっ!」
「はい」
「バイトの高校生は?」
「文句言うな。早よせぇ」
「はい」
バイトといっていた女子高校生は何処に行っているのだろうか。梅雨が明けた頃からホールに女子高校生がバイトに来ていた。何処へ行っているのだろうと思いながら四皿分のカレーを左右の掌に乗せ健太郎はプールサイドへ運んでいった。彼女の受け持ちは洗い場でほとんど皿を洗っていたがホールの手伝いも兼ねていたのでテーブル席のあるプールサイドも本来は彼女の仕事範囲なのだ。家は確か「八幡前」の近くだと話していたことだけが記憶にあった。他に本店から主任として若い男性も居るはずだった。
息のつく暇もなく汗にまみれながら何回か客のテーブルを往復していた。
「明日、本店の連中が遊びに来るらしいで…」
カウンターに戻ったとき蒲田さんが言った。
「誰が来るんですか」
「宴会の連中や」
「そうですか」
小原君に会える。めぐみも来るのかなと健太郎はぼんやりと考えていた。
「このくそ忙しいときに来やがるのかいな。ほんまこっちのほうも応援欲しいで」
蒲田さんはぼやいていた。
「厨房のほうも応援が来るって言ってたけどまだ来ないのですか?」
「工藤さんに頼んでたんやがいつになるこっちゃわからん」
カウンターの奥で若い調理の弟子が火をつけたガス台の周りを忙しく往来している。
「ハンバーグセット・ッー、お願いしまーす」
突然あいだに割り込むようにして新鮮に響く声が伝わってきた。例のバイトの女子高生だ。姿が見えないと思っていたがホールの注文をとっていたのか。プールサイドばかり往復していたので健太郎にはホールの隅々まで目が行き届かなかったのだ。
「あいよ」
蒲田さんが快く返事をした。
翌日、やって来た宴会の連中とは小原君だけだった。あとは工藤さんが手配したらしい調理の助っ人二名だった。だから遊びに来たのは公休日だった小原君ひとりきりである。
「ええとこやな」
にやにやしながらプールサイドの席に座った彼はため息をつかんばかりに賑やかな水着姿の群れに目をやった。予備校はサボったに違いない。
「みんなはどうした」
「なんか都合悪い人ばかりで…」
「大川さんもか」
「うむ…」
よりによって昼飯どきの忙しい時間帯だったので交わした言葉はそれだけだった。小原君はタバコをふかしながらやがて注文のカレーを食い始めた。
めぐみは来なかったのか。健太郎の頭のなかにそのことだけが澱んだ。八瀬遊園店に来る前、めぐみが大川さんと付き合っているという噂を一度だけ聞いたことがある。小原君に会ったら確かめたいと思っていた。
「松原智恵子がよお、今日終わったら渡したいものがあるらしいんだよ。もらってきてくれへんか」
例によってカウンターごしに健太郎を呼んだ蒲田さんが言った。
「いいですよ」
健太郎は答えながらぼくを代わりに行かせる理由を何も聞かなかった。最初のデートの日、蒲田さんに一杯喰わした件もあり嘘をついた負い目もあった。しかし彼女の本当の名前は何というのか、蒲田さんは彼女の名前を知っているはずなのに健太郎とのあいだでは常に彼女のことを松原智恵子と呼んだ。
一段落して時間がとれたので、プールサイドに出て小原君と向き合った。
「授業は?」
「バケーションや」
「このあとどうする?」
「パチンコでもしてストリップでも行こうかな」
「余裕やな」
人懐っこい目を輝かせながら小原君は笑っていた。そしてしきりにタバコの煙をふかした。
青いプールの水面にまぶしい日差しが映え戯れる女の黄色い喚声を二人は黙って聞いていた。その限りなく開放された自由の叫びがたまらなく二人の今の境遇を嘲るように響く。
「めぐみは大川さんと付き合っているらしいで」
遠くを眺めながら小原君がつぶやいた。宴会の連中の様子を尋ねようとしていた健太郎は突然の言葉に躊躇した。
「大川さんは手が早いからなあ」
「うむ」
「みんな変わりない?」
「ああ」
例によって小原君はへらへらと笑いながら遠くを眺めつづけた。黄色い喚声が相変わらず弾け水面のしぶきがまぶしく健太郎の目を射った。これまでめぐみの示した態度を勝手に想像した自分の思い過ごしを嘲る影が水面のところどころに見え隠れしていた。
「ここも秋になったら辞めるよ」
「俺も本店のほう、どうしょうかなと思っている」
二浪目の前半がやがて終わろうとしている。ほとんど予備校へも行かず「スター食堂」のバイトに時間を費やしてしまった。健太郎はめぐみのことを聞いてこれで決心がついたと思った。
相変わらず向かい側のプールサイドは賑やかで彼女たちの騒ぐ声だけが空しく聞こえていた。
鎌田さんに言われたとおり早番の勤務を終えた健太郎は例の松原智恵子から言伝のものを受け取るため遊園地の地下通路を通って約束の場所に向かっていた。広い通路の両側は滝のように水が落ちその音がコンクリートの壁にこだましてまるで深い海底を散歩しているかのような錯覚に陥った。辺りには誰もおらずおまけに数十メートル先も霧が立ち込めているかのような幽玄な通路だった。しばらく進んでいくとやがて向かい側の競争レストランの従業員の事務所の入り口があり数人のバイト生がちょうど帰り支度をして出てくるところだった。
約束の時間にまだ数分あったので事務所から見えない裏側に回りその階段の下で噴水のように流れる水の音を聞きながら待つことにした。彼女のことはこの間のことがあってからも顔はよく合わせていた。しかし蒲田さんの彼女だからという意識からか会っても特段話をするということはなかった。
階段の下の通路は浅いプールになっていてひっきりなしに細い雨のようなシャワーが降り注いでいた。約束の時間を少し過ぎた頃階段を下りシャワーの隙間を縫って近づいてくる人の気配を認めた。
紛れもなく例の松原智恵子似の彼女だ。
「あの…」
短パン姿の彼女は訝しげに声を潜めて佇んでしまった。
「すいません。蒲田さんは用事ができて…代わりに」
健太郎は軽く頭を下げ詫びるようにして彼女に向かって声をかけた。足元に降り注ぐシャワーが一段と彼女の脚線の美しさを際だたせていた。
「じゃあ、これを渡していただけませんか」
彼女は手に持ってきた封筒を差し出した。
「ダンパのチケットです。鎌田さんご存知のはずです」
「はあ」
受け取った健太郎はその封筒を眺めたまましばらくぼんやりとしていた。柔らかな微笑がシャワーの降り注ぐ音に混じって注がれているように感じた。
「あなた学生さん?」
「いえ」
ダンパのチケットと聞いて何のことだろうと考えていた。
「あなたもいかがですか?買っていただけません?」
彼女の笑った瞳がすぐ目の前に近づいていた。
「ダンパって何ですか?」
健太郎は顔を上げて尋ねた。
「ダンスパーティーよ。略してダンパ。ピンチなのよ、これで稼がなきゃ部活費が足りないの」
意外だった。健太郎は初めて華やかにみえる大学生の裏側を知った。女子大生は部活の資金繰りのためにダンパを催して稼ぐのか。
「ぼくは浪人の身なので」
「そうなの」
遠慮がちに答えると彼女はにっこりうなずきながら依然と爽やかで麗しい瞳を維持しつつ「分かったわ、頑張ってね」と言った。
そしてしばらくシャワー通路に佇んだあと「じゃあ、よろしくね」と言ってその浅いプールを歩き長い髪の毛を少し揺らせながら階段を上っていった。短パンから伸びる彼女の脚を見送りながら健太郎はふと、蒲田さんはダンスパーティーに果たして行くのだろうかと思った。
翌日、封筒を渡すと中身を見た蒲田さんは案の定素っ頓狂な声をあげた。
「なんじゃこりぁ、八千円もすんのかあ」
厨房の若い衆が蒲田さんの大声にびっくりして振り向いた。
「行くのですか?」
健太郎は小さな声で尋ねた。まさか女子大の催すダンパに蒲田さんが行くわけはない。ほとんどが他大学の学生が集まるところへしかもパートナーを連れて出かけるのだろうか。第一、付き合っているとすれば松原智恵子似の彼女の存在はいったい何なのだ。一杯食わされているのではないのか。
「おい風見、お前行けへんか?」
尋ねたばっかりに逆に押し付けられてしまった。
「ぼくは踊れないですよ」
「そういうな」
「無理ですよ」
ばんカラな蒲田さんが困惑した表情を見せるのはこれで二回目だ。
「頼んだのでしょう?」
「あほいえ。値段まで知るか…」
ひとり言のようにつぶやきながらホールを見渡しちょうど従業員の森君が目に映ったのか蒲田さんは手をこまねいて森君を呼んだ。
「おい、お前これ行けへんか」
呼ばれた森君は本店からこの時期だけ応援に来る主任ウエーターで健太郎と同じくらいの年恰好に見えた。蒲田さんとはまるで年齢は離れているがモテモテの遊び人らしく本店にいるとき健太郎も一、二度顔は見たことがあった。目はどんぐり眼の愛嬌のある顔立ちをしていたが根性はどこか不良じみた性格を漂わせていた。この八瀬遊園に来た当初、例の松原智恵子似の彼女と蒲田さんのことも本当は彼から話を聞いていたのだ。
ニヤニヤしながら蒲田さんの請願を聞いていた森君は何度も首を振りながら「高いですよ」と答えた。健太郎も初めて知る大学生のダンパとやらがそんな値段とは思いもよらなかった。自分は二浪目を時給百四十円のバイトで帰れば足が棒になる毎日を送っているというのに一枚が二千円というその券は恐ろしく絢爛豪華なパーティに映る。
「若いお姐ちゃんがいっぱいくるんやで」
「無理ですって」
森君は余裕のある目で笑って断るばかりでその姿を見ているとなぜか健太郎にはまるで別の大川さんがそこにいるみたいに見えた。森君のいかにも女慣れしたような語感が蒲田さんとの受け答えのなかに含まれていたからである。
「蒲田さんは真面目やわ、もうちょっと作戦考えな」
「なんでや」
蒲田さんは森君に半ば馬鹿にされたように言われていた。相変わらずやりとりはつづいていたがやがて「本店の仲間に当たってみるわ」と森君は四枚のうち二枚を蒲田さんから受け取り話は決着した。
足取りも軽くカウンターを離れてまだ客の混まないホールへ戻っていく森君の後姿を見送りながら健太郎はその快活な承諾方に妙な感激を覚えた。そしてめぐみが大川さんと付き合いだしたのもきっとこんないさぎよさみたいなものに惹かれるのだと思った。
「風見、売れたわい」
森君が去ったあと蒲田さんは健太郎を睨みつけそしてにんまりと笑った。なんだか自分が責められているような目つきに見えた。
その日、バイトの終わったあと静けさの覆う蒼い水面のなかで何かを発散させたい衝動に駆られ、蒲田さんに「泳いでいいですか?」と断っておいて水着に着替えたあと、プールに向かって歩いて行った。
煌々と輝くナイター設備の明かりが飛び込んだ水しぶきの瞼に濡れて光った。昼間の喧騒が遠い過去のように静まっていくような快感が走る。小原君から聞かされた話や森君の颯爽とした手際のよさに比べ妙に卑下した自分の姿を洗い流すかのようにしばらく手足を水に浮かせつづけた。
八瀬遊園の新鮮な夜の空気が辺りに充満し僅かに蒲田さんたちが厨房を片付ける音だけが耳に届いた。