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(第三回)


嫌な奴だと思った。

長雨が続きうっとおしい気分のうえにいつもふた言目には皮肉られた。軀が大きい分何となく退けてしまうのだがその目つきが常にぼくら二人を軽蔑していた。

R大の大川さんはこの「スター食堂」ではベテランのバイト学生で職場内ではかなり幅を利かせていた。ぼくと小原君はいわばこの春から仲間入りした新人でそれはそれなりに店の人達から注目されてはいたが例えば一緒に出勤時、賄で食事をするときなど大川さんは我々とは一目おいた雰囲気を漂わせていた。つまり店の女のコはみんな大川さんを注目しあるいは嬌声らしき声を立て、賄ではおばはんどもが時折媚を売った。小原君と健太郎は最初の頃、大川さんはたいそうもてるんだと思っていた。

「大川さんはここ長いんですか?」

健太郎はあるとき尋ねてみたことがあった。一瞬睨まれたが陰気そうに「ああ」とだけ、しかもあしらわれるように返事された。

我々バイトは凡そ六時間の実労で日によっては出勤時間が一時間ほどずれるときがあった。従って三人は時々出勤時間が異なったが大半は顔を合わせて仕事をやることになる。しかし大抵は三人はバラバラに配置され一緒に作業するのは宴会の準備だけだった。大川さんはお前ら勉強しているのか?といった目つきで見たり、タバコの煙を吹きつけながら大学に入ったら女と付き合えといったような含み笑いをした。

「七月になったら八瀬の方がオープンする。ええとこや」

長雨の続くある日の午後、会議のセッティングを終えたあとの小休止のとき大川さんは珍しく我々に口を開いてくれた。

「何ですか?八瀬って」

小原君が鼻からタバコの煙を出しながら聞いた。

「八瀬遊園や、左京区・宝ヶ池にあるここの出店や。毎夏七月からふた月間オープンする」

「ここから誰か行くんですか?」

「そりゃあ営業するから行かされるのに決まってるやないか」

 大川さんはいつになく喋った。しかも二人を桃源郷へ誘うかのような目つきを浮かべているのである。

「ええぞ、プールサイドのレストランや、目の保養になる」

「それで、大川さんは行くんですか?」

「行ってもええなあ、去年も行ったし」

 二人はスパスパとタバコの煙を燻らせながらニヤついていた。

左京区・宝ヶ池といえば自分のいる寮の近くになる。健太郎は三ヶ月近く通っているこの中京区の河原町・新京極への通勤時間のことを考えた。一時間近くはかかるがそこならすぐだ。そんなところにここの出店があるのか。

窓の外の雨を眺めながら健太郎はプールサイドの光景を想像していた。まばゆい太陽が弾け女の肢体がうごめくなか颯爽と飲み物を運ぶ自分の姿が浮かんだ。それは鬱屈した欲求や虐げられて圧迫した浪人という魂からの一時の解放を意味した。

「ピチピチギャルでいっぱいや」

「大川さんは持てたでしょ?」

「手が早いからな大川さんは」

「あほいえ」

「知ってますよ。新しいコには手が早いって」

「ははは、なんのこっちゃ」

途切れ途切れに入ってくる二人の会話が外の雨に合奏する。

健太郎はそれらの言葉のやりとりから急に大川さんの女グセの悪さを想像した。遂にはもしかしてと新人のめぐみのことにそれは結びついた。あれからめぐみは階下で待ち受けたりはしなかった。元村先生が来た日の夜からである。そういえばあの日の準備のとき大川さんはめぐみと一緒に作業していた。

やがて部屋の外で階上から下りてくる網島さんたちの足音が聞こえた。「俺の涙は俺がふく」のハミングが相変わらずその足音に混じり、三階での準備がどうやら終わったらしい。

「どや、あんたらも終わったか?」

 山岡さんはチェックするかのように二階の会議のセッティングを尋ねた。

「終わりました」

 小原君が気をつけをしてニヤニヤしながら答えた。

 めぐみは伏目がちにそこに立っていたが時折大川さんの方を盗み目しているかのように健太郎には思えた。


 赤い赤いアサヒが貼り紙文を変えたのに気付いたのは久しぶりにバイトが休みの日で降り続いた雨もひとまず中休みといった感じの朝のことだった。朝といってももう昼前に近く今日は連日の疲れを癒すため予備校の授業も行かずに一日部屋に閉じ篭って勉強をしようと考えていた。

 赤い赤いアサヒ、つまり一号室の五味の部屋の貼り紙だがしたためられた文面には、諸君に告ぐと先ず書き出しがあって廊下は静かに歩くべし、玄関の戸は静かに閉めるべしと黒マジックで記されていた。玄関の取っ掛かりが彼の部屋になっていたため多分彼はうるさくてたまらないのだろう。

 戸をあけて玄関前に設置された郵便受けを確認した。何も来ていない。外はどんよりと薄曇りで付近の田んぼの湿った馨りが広がっている。いつも見るのは真っ暗な景色だけしか覚えておらずこんなにも広々としたのどかな自然が存在しているとは思わなかった。それほど二浪目の出だしはバイトに困憊奮闘して無我夢中だったのかもしれない。梅雨に入ってからは予備校の授業はほとんど出ていなかった。

遠くの山間を見つめるとそれが比叡山の一角でありそのふもとに八瀬遊園がある。来月からのことが何となく健太郎の頭のなかをよぎっていた。前半が間もなく終わる。出来ればここから近い八瀬遊園のプールサイドの出店で二ヶ月が送れないものかとふと思った。

再びなかに入り誰もいない「叡山荘」の廊下を歩き自分の部屋に戻って侘しく即席ラーメンを作っているとき今年は駄目だなと感じた。今年はではなく、もはやである。もはや国・公立は駄目である。健太郎は麺に湯を注ぎながら悟った。

去年の暗い孤独が容赦なく襲ってくる。今年もその延長線上にあるのだが正直いって成績は伸び悩み予備校の授業も成果が上がらないことを読み取っていた。科目的にみても国・公立受験のための五科目はあまりにも負担がかかり過ぎた。この前半だけでもと考えていた数学の重点学習がすっかりお手上げ状態でこの調子では時間的にみてもとても間に合いそうもない。

転がって天井を眺めたり机の前の窓を眺めて午後を過ごした。

いつか更衣室で厨房の工藤という人から志望校を尋ねられたとき即座にO大と言えなかった理由が分かるような気がした。躊躇する自分の焦りというか諦めというかそんなすべてが凝縮して意識下にあったのかもしれない。

バイトの休みだった日のけだるくてそれでいてどこか久々の休息の時間を持てる昼下がり。窓辺に声が響き誰かが何やら測定をしているふうに聞き取れたがそれも次第に遠のいて健太郎はいつの間にか寝鼾を立てて寝入ってしまった。

夕方、その測定が自転車置き場を作るためのものだったことが分かったのは百田と風呂へ行くために叡電・八幡前へ向かっているときだった。

「二階の誰かが家主に交渉したらしい。自転車で通学したいので作れって」

「文理のやつか?」

 健太郎はこの「叡山荘」には他の予備校生も混じっていることをしばらくたってから気付いていた。

「さあ、分からない。二、三人いるらしくて五味なんかも自転車を使いたいからそれは絶対設備すべきだと主張しているらしい」

 健太郎は自分の部屋の前にその置き場が作られることを想像した。窓を開けると庇に囲まれた自転車の列が目の前に迫り以前見渡せた田園風景が遮断されるのである。庇は直射の太陽をも遮断しその影響を受けた健太郎の部屋は日中でも薄暗い牢室と化す。

「風見さんの部屋、そうなると鬱陶しなるなあ。ガチャガチャうるさいは、陽は当たらんようになるは」

 他人事のように百田は言った。

「なんで自転車置き場がぼくの部屋の前に」

「知らんけどな」

 電車はやがて修学院に着き、三分ほど歩いて行きつけの銭湯に着いた。帰りはお決まりの学生食堂へ寄ることになっている。

「五味がまた貼り紙しよったなあ」

 健太郎は話題を変えた。

「あいつは不気味な奴ちゃ」

 銭湯の入口で足を引き摺りながら百田は石鹸箱の入った洗面器をカタコトと鳴らした。健太郎はやがて陽ざしの悪くなる自分の部屋を案じそのカラカラと鳴った音にますゝ気の重くなる閉塞感を感じながらゆっくりと靴を脱いだ。

風呂上りの軀に上気した活気が宿っていた。久しぶりに訪れた食堂には相変わらず付近に下宿している学生達で混みっていた。二人は勝手におかずを選んで空いている席に向かい合った。

「友近って奴がこれがまた面白い変わった奴でな。知っている?友近、三号室や」

会ったことがなかった。健太郎にとっては未だに百田と五味しか知らないのだ。

「長崎から来てる奴やねんけどこの間洗い場でいいおなごが京都にはおらんばいって話しかけてきた」

「なんですかそりゃあ」

健太郎は聞き流しながら飯を頬張った。

「長崎はいいおなごがごろごろしちょるって言いよった」

苦笑いしながら百田も飯を頬張った。それ以上何も言わず黙々と二人は食べつづけたが、健太郎はこんな話をする百田が一番親近感があるためみんなが寄ってくるのではないかと思った。柔和な目つきはもとより太めの体型そして何よりも先ず落ち着き払った懐の広さが話しかけやすくしているのだ。いつか彼は語っていたがカリエスを患ったため高校時代一年間休学したと言っていた。そうすると二年浪人している自分と同じ齢だ。

めぐみのことはもう健太郎の気がかりの範疇になかった。浪人生活におんなのことなどに関わっては居られない。健太郎は嘯くようにして自分を戒めている空虚さに心のどこかで満たされない不満を感じていた。

「友近さんはどこを狙ってるんですか?」

女遊びに興味のありそうな彼を思い浮かべながら健太郎はほとんど事務的な調子で百田に聞いてみた。

「R大らしい。法学部や」

 すぐさまバイト先の大川さんがそれに重なる。まったく別物の大学名のような感覚に囚われそうだ。勝てば官軍負ければ賊軍ってことか。悔しければ受かってみろと大川さんが嘲っていそうだ。健太郎はR大は受験しなかったが法学部なら難しいだろうと思った。

「バイトはどうですか?」

 百田が問いかけてきた。

「夏いっぱいで辞めようと思っている」

 健太郎は本当に秋からは受験勉強に専念する覚悟でいた。ただこのまま五教科の国・公立でいくか三教科に絞って私立の文系を狙うか迷っていた。O大を諦めるとしたら二浪した意味がなくなる。

周りの学生達の目が虎視眈々と目標を見つめて飯を食っていた。彼らの行く先はまるですべてが国・公立を目指すかのような静謐でいて聡明な眼の光を放っていた。

「やっぱり専念しますか」

 百田の顔が微笑んでいた。

「しんどいだけのような気もするし」

「河原町じゃちょっと遠いな」

健太郎の脳裏にふと八瀬遊園で動き回る自分の姿が浮かんだ。

「近いところないの?」

と言っている百田の声がまるで其処を示唆するかのように響いた。


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