(第二回)
静かだ。物音ひとつしない。自分の部屋に戻ってから窓を開けて暗闇を見つめた。二浪目の生活に入って瞬く間にひと月が経とうとしている。この心地よい疲労はまるで悪魔の誘惑なのか凝り固まった受験戦争からの逃避の快楽を漂わせるかのようだ。耳の奥でまだ新京極のざわめきの余韻が腫れあがって硬直する足の筋肉のうえで揺れ動いている。
ひと月が過ぎていく。予備校へは午後は出ていないので全体からみれば大きな遅れが既に着いているかもしれない。
闇から田んぼの匂いがかすかに漂い左京区のこの辺りは田舎の新鮮な空気が充満している。何もする気がしない。ただ今日も八時間みっちりと労働したという満足感のみだ。仕方がない。二浪目は少しでも親に負担をかけないようにせめて秋口まではバイトに精を出すことに決めているのだから。
それにしても今日のめぐみは何だったのだろう。階段のそばでぼくを待ち伏せていたかのように佇みぼくの影を認めると逃げるようにして立ち去るなんて。
「あはは。健さん、惚れられたんとちゃう?」
小原君が無邪気な眼をして笑っていた。彼はいつ見ても屈託がない。それに比べるとR大生はひねくれている。お前らは女を知らんのか、可哀相な奴っちゃ、早う大学受かってめっちゃ遊ばんかえ、と言っているような態度を常に見せる。
ぼくとめぐみがか。健太郎はこの大事な二浪目にそんなことは出来ないと思った。せめて夏いっぱいでこの「スター食堂」のバイトは辞める。後半は予備校に集中しなければ遅れをとる。健太郎の頭のなかには浪人はもうこりごりだという意識が掠めていた。志望校のO大への夢も半ば消えかけていた。私立のどこでもいいという捨て鉢な考えも時には浮かんでくる始末だ。
めぐみの大きな瞳が浮かぶ。外の闇は依然とたおやかでしっとりと静寂を含みいつの間にか先ほどまで鳴きつづけていたのに無数の蛙の音も止んでいた。自分の吐く呼吸の安らぎだけが彼女の仕草に同調するかのように駆け巡った。
突然静かな廊下に物音が鳴った。向かいの百田が部屋から出てきた音だ。またいつものように歯ブラシとコップを持って共同炊事場へ行くのだろう。足を引き摺って歩くスリッパの音が微かに響く。反体制と言った彼の言葉がその廊下を引き摺る。五味が反体制を目指して哲学に打込んでいるというのだろうか。「彼はK大を志望してるらしいけど、狂大の間違いじゃないのか?」と百田はカラカラと笑いぼくに教えてくれた。
反体制とは恐らく政治問題を指すのだろう。赤い赤い朝日と巷で噂されている世情が突然浮かぶ。五味の郵便受けに「朝日ジャーナル」が入っていたことを思い出した。しかし「赤旗」ではなく「朝日新聞」というところがもうひとつ健太郎にはしっくりこない。革命はもっと違う意味で言っているのだと想像し直した。
二浪目のひと月でバイト先の仕事はだいたい覚えたが寮の住人のことは百田と五味のことだけで自分の居る一階の他の者の様子とか増して二階の住人のことなど皆目見当がつかなかった。