第一回
二十歳になったらタバコを吸ってみようと思った。
風見健太郎がふとそんなことを思ったのはいつものように叡電・八幡前に降り立ち暗闇の帰路に着いたときであった。
曲がりくねった細い路地を通りながら民家の石塀に映る自分の影を確認しながら歩いた。いつも思うことだが自分の頭の影は形がいいと思った。後頭部は絶壁のはずだが街灯に照らされて映るそれは程よくこんもりとしていて何となく精悍としていた。そしていつもそのとき耳の奥ではそれに合わせるように軽快な演歌が躍動していた。今日のバイトも無事終了したという快い気分が全身を覆っていたに違いない。だから来年になったらもっと華やかな気分に浸れることを想像してふとそんなことを思いついたのだ。
二浪目の今年は予備校を京都の関西文理学院に変え、去年と違って午後はバイトをすることにした。新京極にあるレストランで宴会の準備をしたり料理を運んだり皿を洗ったりしてみっちり九時まで働き左京区にある下宿先の寮に戻るといつも十時半を回った。
石塀に映る自分の影を舐めるようにしてその曲が流れていく。都はるみの「さすらい小鳩」である。この間までは「アンコ椿は恋の花」だったのが今の新京極界隈ではこの曲が流れない日はない。だから今夜も自然と健太郎の耳の奥でそれが流れつづけるのである。それは仕事の余韻とでもいってもよかった。
レストランは三階建てで二階と三階は宴会用の部屋ばかりである。フランス料理専門で宴集会課長は背は低かったが恰幅のいい洒落た中年男であった。結構柔和な雰囲気でみんなを操りときには料理の専門的な話を聞かせてくれたので健太郎はこの花谷課長を気に入っていた。宴集会には他に綱島さんというラグビー選手のような小太りのいかつい男性と姑のように口うるさい女性の山岡さんとこの春高校を卒業したという園部という女子従業員がいた。あとはバイトで健太郎のほかにR大生の男性と同じく浪人生の小原君というのがいた。
毎日六人でこのレストランの宴集会を切り盛りしていたのだが仕事が暇な日は一階の食事兼喫茶の出来るホールへ廻されてそこでボーイをした。宴集会にしろホールにしろ立っている仕事なので毎晩帰路に着くときは足が棒のようになっていた。だが二浪目の健太郎にとってはこの疲労は爽やかな経験といえた。
宴集会の仲間にはそれぞれ特徴があった。綱島さんは毎日美樹克彦の「俺の涙は俺がふく」を必ず口ずさんで仕事をするし、小原君はいつ叱られてもへらへら笑い、長身男のR大生はいつも苦味走った表情をしてめったに笑わなかった。そして山岡さんは「早うせな遅れるでえ」が口癖だった。十五分の休憩時にはいつも健太郎を除く三人の男性はタバコを吸い十五分が過ぎてもくだらない冗談を言い合って過ごしていると間違いなく山岡さんのその台詞が聞こえてきた。新人の園部めぐみは少女漫画に出てくるような風貌だったが少し色気があった。いつも伏目がちに健太郎を見て何か言いたそうにした。
下宿の寮は「叡山荘」といい予備校が買い取った民間の寮で今春完成したばかりだった。モルタル二階建てで六畳一間の室内は真新しい匂いがした。寮生は全部で十四人いてほとんどが関西文理学院に通う浪人生ばかりである。しかし健太郎は予備校でこれらの住人とほとんど顔を合わすことがなかった。しかも毎日午後はバイトに出かけ夜遅く戻ってくるのでひと月近くにもなるというのにこの寮の住人とはまったく面識がなかった。しかし十四人の名前はそれぞれが自分の部屋の入口に表示していたのでそれを見ることにより何となく覚えられた。
玄関に入ったらすぐ右の部屋が「神経衰弱・物太郎」と貼り紙がしてあり、彼の顔を一度見たことがあったがなるほど青白い顔をして鼻ヒゲを生やした目つきの鋭い男だった。言葉を交わすことはなくただひと月が経つのだがこの一号室の貼り紙だけが健太郎にとって奇妙な印象として残っていた。他の部屋はそれぞれが自分の「名前」もしくは部屋の番号を表示しているのにこの貼り紙だけは寮に住む全員が奇妙に思えたに違いない。この一号室の男の名前はこの寮の入口の前に据えられた全体の郵便受けの表示から五味ということが分かっていたから「神経衰弱・物太郎」というその表示は単なる悪ふざけとみんなは思っていた。
「革命には哲学が必要だとさ」
健太郎が初めて口を利いた向かいの部屋の百田が五味のことを評していた。そういえば顔の青白さといいよく研いだ刃物の先を感じさせる鋭い目つきといい、それにも増してひょろひょろと長身だが痩せ細って髪は伸び放題、まさに全体が栄養失調を滲ませているような哲人そのものを感じさせていた。
「何の革命ですか?」
「反体制ですよ」
百田は足を引きずりながら歯ブラシとコップを持って共同の洗い場へ消えて行った。
百田は足が少し不自由な人だと健太郎はこのとき気付いた。一階に住む住人の中で彼が一番人当たりがよく落ち着いており年長者らしい貫禄がある人だとも感じた。
静かだ。物音ひとつしない。自分の部屋に戻ってから窓を開けて暗闇を見つめた。二浪目の生活に入って瞬く間にひと月が経とうとしている。この心地よい疲労はまるで悪魔の誘惑なのか凝り固まった受験戦争からの逃避の快楽を漂わせるかのようだ。耳の奥でまだ新京極のざわめきの余韻が腫れあがって硬直する足の筋肉のうえで揺れ動いている。
ひと月が過ぎていく。予備校へは午後は出ていないので全体からみれば大きな遅れが既に着いているかもしれない。
闇から田んぼの匂いがかすかに漂い左京区のこの辺りは田舎の新鮮な空気が充満している。何もする気がしない。ただ今日も八時間みっちりと労働したという満足感のみだ。仕方がない。二浪目は少しでも親に負担をかけないようにせめて秋口まではバイトに精を出すことに決めているのだから。
それにしても今日のめぐみは何だったのだろう。階段のそばでぼくを待ち伏せていたかのように佇みぼくの影を認めると逃げるようにして立ち去るなんて。
「あはは。健さん、惚れられたんとちゃう?」
小原君が無邪気な眼をして笑っていた。彼はいつ見ても屈託がない。それに比べるとR大生はひねくれている。お前らは女を知らんのか、可哀相な奴っちゃ、早う大学受かってめっちゃ遊ばんかえ、と言っているような態度を常に見せる。
ぼくとめぐみがか。健太郎はこの大事な二浪目にそんなことは出来ないと思った。せめて夏いっぱいでこの「スター食堂」のバイトは辞める。後半は予備校に集中しなければ遅れをとる。健太郎の頭のなかには浪人はもうこりごりだという意識が掠めていた。志望校のO大への夢も半ば消えかけていた。私立のどこでもいいという捨て鉢な考えも時には浮かんでくる始末だ。
めぐみの大きな瞳が浮かぶ。外の闇は依然とたおやかでしっとりと静寂を含みいつの間にか先ほどまで鳴きつづけていたのに無数の蛙の音も止んでいた。自分の吐く呼吸の安らぎだけが彼女の仕草に同調するかのように駆け巡った。
突然静かな廊下に物音が鳴った。向かいの百田が部屋から出てきた音だ。またいつものように歯ブラシとコップを持って共同炊事場へ行くのだろう。足を引き摺って歩くスリッパの音が微かに響く。反体制と言った彼の言葉がその廊下を引き摺る。五味が反体制を目指して哲学に打込んでいるというのだろうか。「彼はK大を志望してるらしいけど、狂大の間違いじゃないのか?」と百田はカラカラと笑いぼくに教えてくれた。
反体制とは恐らく政治問題を指すのだろう。赤い赤い朝日と巷で噂されている世情が突然浮かぶ。五味の郵便受けに「朝日ジャーナル」が入っていたことを思い出した。しかし「赤旗」ではなく「朝日新聞」というところがもうひとつ健太郎にはしっくりこない。革命はもっと違う意味で言っているのだと想像し直した。
二浪目のひと月でバイト先の仕事はだいたい覚えたが寮の住人のことは百田と五味のことだけで自分の居る一階の他の者の様子とか増して二階の住人のことなど皆目見当がつかなかった。