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【>>短編置き場<<】

歩容

作者: 滝岡尚素

 美しい歩行だった。

 脊髄で生じた力が腰から股関節に伝わり、腿を通過して彼の右膝がしなやかに上がる。数十センチの距離を進み、淀みのない挙動で爪先から地面に下ろされ、次の動作が左足へと自然に繋がっていく。その動作は繰り返され、着実にこちらに近づいてくる。優雅な様は水面を歩いたという古代の救世主にも思えた。ゴールの目印である私を見た。気を抜いたのかよろめいた。どきりとする。彼は何事もなかったように立て直し、体育座りをしている私の前でゆったりと静止して、見上げた顔に影を降らせた。

「どうだったかな」

 にこやかな声。短い黒髪に手を遣り、僅かに滲んだ汗を拭った。

「はい。とっても綺麗に歩けてました」

「ありがとう。嬉しいよ」

 立てる? と彼が手を伸べた。私はそれを掴むかちょっとだけ考えて、結局自力で立ち上がった。うっかり力加減を間違えて彼を転倒させたくなかった。

 寂しそうな、どこか恨みがましい視線が私を出迎える。

「ごめんなさい。ほら、私、太っちゃって」

 ひどい取り繕いだ。

「そうか。じゃあまた今度だね」

 さっきの視線は巧みに仕舞い込まれていた。いつもの彼の目鼻だ。帰ろうか、と続ける。頷いて、先に歩き出した彼の後をついていく。

 周囲を見渡す。腰の高さまで手摺りが両側にある短いレーンを年老いた男がゆっくりと歩いていた。手摺りを掴み、覚束ない足取りで常によろめき殆ど前には進まない。あちらではベッドにうつ伏せになった女性が後ろ向きに跨った男に足を取られ、膝を強引に動かされて苦悶の表情を浮かべていた。もう少し動かせますか、頑張って下さい、と若い理学療法士が笑顔で励ましていた。

 この雰囲気に私はいつも泣きそうになる。失った機能を取り戻そうとする営みに感動して、ではない。

 彼の背中を見た。右足、膝から下には鋼鉄のシャフトが細くつながれている。地面を捉える部分には接地を制御するための足首を模した部品が接続されていた。

 否応なしに失われたものが目の前にあって、私はそこから逃れられない。この場所はそれを強く意識させる。

 いつも、泣きそうになる。


 ちょうどお昼時だったので病院近くのカフェに入った。彼はふだん着けている義足に履き替えており、杖をついて窓際の席に座る。店内は冷房が効きすぎて少し寒かった。二人でグラタンとパン、アイスティーのセットを注文する。

「どうでした、あの義足は」

 私はお冷やに口を付ける。レモンが足されていて美味しかった。

 彼は頬杖をついてこちらを見ていたかと思うと、微笑んで口を開けた。

「うん、良いと思うよ。自分の足で歩いた感覚に近かった」

「じゃあ、あれに決めますか?」

 彼はちょっと考え、首を振る。

「普段使いには向かないかな、少し重い」

 グラタンとパン、アイスティーが運ばれてくる。いただきます、と彼はフォークを取ってグラタンを食べ始める。私も倣う。塩が効き過ぎていて口に合わなかった。彼は特に気にする風もなく口に運び、時々アイスティーを飲んだ。

「じゃあ、亜門(あもん)さんに言っておきます」

 私はグラタンを諦めてパンを手にした。彼は食事に集中していて顔を上げない。

 こうしていると、日常でさえ残酷だ。何でもない振りをしているくせに、いつだって私は日常(そこ)にある現実に目を向けなくてはならない。普段は見ないようにしているのに、しょっぱいグラタンの後味のせいか、俯いた彼の右の眉毛の辺り、縦に走った傷跡をいつもよりじっくりと見つめてしまう。

「ん? どうしたの」

 顔が上がる。私は軽く首を振って何でもない、と応じる。彼はアイスティーに手を伸ばし、ならいいけど、と返した。

「あれ、食べないの?」

 殆ど荒らされていないグラタンの表面を指した。

「ええ。ちょっとカロリーが」

 彼は自分の、空になった容器を私に寄越し、代わりに引き取ったグラタンを食べ始める。

「太りますよ」

「いいんだ。僕は少し太った方がいい」

 おどける。体重の増加が良くないのは彼にだって分かっている。それにしても、彼は痩せすぎだったが。

「羨ましい」

 私はアイスティーを飲んだ。


 次の日、私は亜門の工房に出向いた。郊外にあって、多少辺鄙でもあるその作業場所は、だからいつ行っても亜門しか居なかった。本当にこれで経営は成り立っているのかたまに心配になる。

久御山(くみやま)さん、いらっしゃい」

 寒くない程度に冷やされた工房で亜門は私を出迎えてくれた。彼は三十代の引き締まった男で、いつも活力に溢れていた。元気だけが取り柄なので、とことあるごとに言う。

 隅にある応接コーナーで向かい合ってソファに座る。何か飲みますか、と言う問いにはやんわりとした辞退を返した。

 私の視界には作りかけの装具や、なにに使うのかよく分からない工具と、ノートパソコンや3Dプリンターが映る。ここで産み出された装具が誰かの暮らしを支えている。

「どうでしたか、あの義足は」

 彼は昨日立ち会えなかった不明を詫びてから言った。

鳴海(なるみ)さんが言うには少し重いそうです」

 まじですか、と彼は笑う。

「となると、材料から見直しですね」

「すみません、何度もなんども」

 いえいえ、と亜門は実際、楽しそうに応じる。難しい挑戦が彼の装具士としてのプライドに火をつけたのか。手元のノートに何かを書き込む。ややあって目を上げ、私を見た。

「久御山さんはどうですか?」

 私達の事情をよく知っている彼ならではの発言だ。私はにこりとして、

「大丈夫です。絶好調」

 両の拳を握ってみせる。

「そうですか。その調子なら大丈夫みたいですけど、無理はしないで下さいね」

 言葉に詰まる。もちろん彼に悪気などあるはずがなく、私を気遣ってくれているのはよく分かっている。微かな引っかかりがあるとすれば、無理をしないことに意味があるのか、無理をしなければどんないいとこがあるのか、多分亜門自身にも分からず、教えてもくれないことだった。

「ええ、分かっています」

 呟くように言って亜門が安堵するのを確認した。

「では、またお伺いします」

 立ち上がって一礼し、工房を後にした。


 帰り道、最寄り駅までは遠く、いつも辟易する。

 かと言ってタクシーに乗る気にはなれず、この時期に亜門の工房を訪れる時は着替えを用意するのが常だ。途中、コンビニに寄ってお手洗いを借りる。個室に入った。鍵をかけ、Tシャツを脱ぎ、持って来たタオルで身体を拭う。

 着替え終わると個室を出て、手洗い場の鏡の前に。私は小さく舌打ちする。着替えた黒いシャツは襟ぐりが広かった。鎖骨の辺りまで肌が見えている。このままで外を歩くのは躊躇われた。悪いことに今日はこの着替えで手持ちは最後だった。つまんで、どうにか胸元を隠そうとして、薔薇の刺青と目が合った。薔薇は私の右の乳房の上で青く、怜悧な大輪の花を咲かせている。枯れることも、しおれることすらない。私の生命を吸ってそこに在るように。

 ――ああ。やっぱり、消えたりしないのね。

 どうにか頑張ってみたものの薔薇は隠せない。諦めて、追加の上着を羽織った。これではすぐ汗まみれになるだろうが、我慢するしかない。

 ――夏は好きじゃない。

 と言うか大嫌いだ。

 気温や、空気や、照りつける太陽や、汗や、暑さで、何もかも思い出してしまうから。


 夏は進み、連日うだるようだ。

 私は週に三回、鳴海に付き添ってリハビリセンターに通っている。何をするわけでもない。鳴海には理学療法士がついているし、義足は亜門が作る。私がセンターに行く必要はない。

 ただ、彼を一人にするのは気が引けた。義務感と言えばそれまでだが、何事もなければ義兄になっていた人だ。放ってはおけない。何より、助けられた恩がある。

 今日は亜門が新しく調整した義足をセンターに持ち込んでいて、リハビリルームの片隅でジャージに短パン姿の鳴海をベンチに座らせ装着中だった。彼は亜門の手捌きをじっと、作業に間違いがないか確かめるようにじっと見つめていた。

「さ、やってみてくれ」

 慣れた手付きで装具を彼の右足に取り付け終わった。

「前のより十パーセントは軽いはずだ」

 鳴海は頷き、暫くは重心を探って身体を揺らす。探知出来たのかゆっくりと前傾で両膝に体重をかけその勢いでベンチから離陸する。前屈みになっていた頭部がせり上がり、胸を反らせて両手を真っ直ぐに伸ばし、ぴんと直立姿勢を取った。

『素敵なのよ、あの人の立ち姿』

 不意に姉の声が脳に差し込まれる。

 ――確かに、とっても綺麗。

「うん、いい感じだね」

 最初から杖を用いることなく鳴海は反対側の壁までのおよそ五十メートルを歩き出す。こつ、こつ、こつ――彼が歩を進める度に、ダミーの足首が床を打った。

「あいつ、最近どうなんですか」

 私の横に腕組みをした亜門が立つ。徐々に遠ざかっていく彼の背中を見つめていた。鳴海は上体がほぼぶれることなく、頭もあまり揺らさない、相変わらず美しい歩行だった。

「どうなんでしょう。あまり自分のことを話さない人だから」

 実際、そうだ。あの事故があってから十年間、彼が(こいびと)の話をするのを聞いたことがない。私への気遣いもあるのだとは思う。

「鳴海は学生の頃からそんな感じですよ」

 亜門の顔を見た。この人だって姉が好きだったはずだ。その亜門も、私の前では姉の話をしない。姉と言う単語は、三人にとってあらゆる感情を引き起こすスイッチだ。押したが最後、湧き起こった感情の波に溺れる。そのことが分かっているから、少なくとも私は姉の話を鳴海や亜門の前ではしない。

「亜門さんは鳴海さんと飲みに行ったりしないんですか」

 苦く笑って首が振られる。

「僕達はもう友達じゃないですからねえ」

 頭を掻いた。姉のことが二人の間に溝を作ったのなら、責任の一端は私にある。

「――ごめんなさい」

 言葉を亜門の、気の抜けきった、きょとんとした顔が出迎えた。

「君が謝ることではないでしょう」

 と、私の顔をじっと見る。姉の面影でも探してるんですか、とは言えなかった。

 遠くで壁に手をついた鳴海が振り返って私に手を振った。

「凄い、歩き切った」

 思わず駆け出す。亜門は動かなかった。一歩引いて見守るのが自分の役目だとでも言わんばかりに。私は鳴海に辿り着き、持って来たタオルを渡す。

「ありがとう」

 首筋を拭う。その顔にはある種の達成感が()かれていた。

「どうでしたか、その義足は」

 鳴海は目を落とす。鈍く光る自分の膝下。確かめて、軽くその場で踏み鳴らした。亜門の姿を一瞥した。

「うん、これに決めたよ。これなら文句はない」

 ある意味では不意をつかれ、私は彼の顔を見返してしまった。てっきりまだどこか悪いところがあって、それを指摘するのだと思っていた。

「いいんですか、ほんとに」

「ああ。もう終わりにしよう」

 私にはその言葉が別の意味に聞こえた。

 果たして、彼はこう続けた。

「長い間、付き合ってくれてありがとう」

 鳴海は、私が見たことのない満面の笑みを、乱暴に投げつけてきた。


 ずっと、鳴海の顔を見るのが辛かった。辛い記憶を嫌でも呼び起こす。とは言え、彼に会いたくないと願ったことはない。鳴海が私と、喪った家族を繋ぐ唯一の媒介だからだ。彼といる限り私は家族に寄り添えている。少なくともそう自分を言い聞かせることが出来た。

 彼はもう会わないようにしようと言った。

「君にとってもその方がいい」

 そんな素振りを見せたことなんて一度もなかったのになぜ今になってとは思ったが、私は何も言い返さなかった。十年、と言う時間が長いのか短いのか。鳴海は区切りだと思ったようだった。

 いずれにせよ、私は日々の糧を失った。


 実家に帰ると、弟が出迎えてくれた。彼は私を見るなりにこりと笑った。一人暮らしで不摂生をしていないかと心配だったが、すらりとした、非常に見た目の良い弟のままだった。

「元気にやってるのか、美結(みゆ)

 弟は私を茶の間に招く。ここに帰るのは二年ぶりだ。

「まあまあね。あと、美結って言うな」

 お姉ちゃんでしょ、と台所でやかんを火にかける弟の背中に声を放った。彼は振り返り、美結は美結だろ、と返す。多分、こちらに少しでも踏み込んで、繋がりを保っておきたいのだと思う。名前呼びはその為の手段の一つなのだ。

「今日はどうしたんだ」

 弟の背中で、火にかけられたやかんがぱきぱきと音を立てる。

 私は自分の、卓袱台の上で組んだ両の指をじっと見つめた。話そうかどうしようか、迷って言い出せない。

「うん、ちょっとね」

「鳴海さん? 亜門さん?」

 両手から顔を上げた。弟はちょっと意地悪な雰囲気でこちらを見ていた。

「やめてよ」

 弟のお見通しな視線に耐えかねてしまう。

「ああもう――鳴海さんだよ」

「やっぱりね。告白でもされた?」

「そんなんじゃないよ。てか、浩基(こうき)、そんなこと言うんならひっぱたくよ」

 彼は両手を肘から曲げ、洋画のキャラクターのように肩をそびやかしておどけてみせた。

 やかんが湯気を噴く。浩基は火を止め、準備してあった急須に注ぎ、湯飲みと一緒にお盆にのせ、茶の間に運んでくる。

「っしょ……っと」

 二人の前に置いた湯飲みに、浩基が急須からのお茶を満たしていく。

「あ、良かったらこれ食べて」

 差し出されたのは饅頭だ。

「お下がり」

 私は一つを取り頬張る。買ったばかりのように随分と柔らかい。

「これ、ほんとに仏壇にお供えしたの?」

「……五分くらい?」

 何それ。みんな怒るんじゃない、と私は笑う。

「大丈夫だいじょうぶ。俺は溺愛されてたからね」

 末っ子らしい、茶目っ気のある口調。当時、中学生だった弟は臨海学校に行っていて事故には遭っていない。実感は薄いままなのだろう。

「話の前に、ちょっと行ってくるよ」

 饅頭を平らげて私は腰を上げる。


 隣の和室。仏壇には額に入った写真が三枚。思い思いに佇みこちらに笑みを向けていた。正座して彼らと向き合い、可愛らしい短い棒でお(りん)を叩いた。高い金属音が鳴り、細く粘って消えた。

 ――来たよ、みんな。そっちはどう?

 手を合わせる。あの日のことが過る。衝撃と痛み、怒号と鉄の臭いが鼻先を掠めた。じとりと掌に汗を掻く。

「で、何があったのさ」

 いつの間にか隣に弟。座り込み、私と同じく手を合わせる。

 こうなっては家族会議だ。この場ではごまかしづらい。私は短い溜息と共に言葉を送り出した。

「鳴海さんがね、もう会わないようにしよう、って」

 弟は合掌のまま目を開け、顎を上げる。視線の先には家族の遺影。

「ふうん。ま、十年だからね。思うところはあるのかも知れない」

 その言動を見ていると、弟の方が大人だ。

「思うところって、何よ」

「さあ……鳴海さんに訊けばいいじゃん」

 その鳴海に会うことを拒まれているのだ。ちゃんと話を聞いていたかと詰め寄りそうになる。

「要はさ、美結がどうしたいか、じゃないかな」

 弟がこちらを見た。優しい眼差しだった。あっという間に私は攻撃性を失う。

 あの日、連絡を受けた浩基は臨海学校を中断して、先生の車に送られ家に帰ってきたと言う。私達は後日、病室で再会した。私は泣き喚いて、彼を散々に困らせた。

 弟はどんな気持ちで姉の涙を見たのだろう。考えてみれば、私は浩基が泣いたのを見たことがない。もしかすると、私の前では泣かないと決めているのかも知れない。多分、彼は弟として庇護されるのではなく、私を慰め、護る役割を選択したのだと思う。

 いつか、私の前で泣いてくれるといい。そんな日が来ればいい。

「やりたいようにやってみれば? 俺は美結を応援するよ」

「へえ、優しいじゃん」

 まあ、弟だからね――と、彼は足が痺れたのか覚束ないモーションで立ち上がった。

「で、どうするの」

 無意識に乳房の辺りに触れた。弟の言うように自分がどうしたいかが最優先で、鳴海の気持ちを考えなくていいのなら、心はとっくに決まっている。

「このまま会えなくなるのは嫌、かな」

「だったら会いに行かなきゃ」

「でも、いいのかな、それで」

 私には自信がない。彼が拒絶するのなら、それに敢えて踏み込んでもいいのか。

「いいんだよ。きっと、鳴海さんも待ってる」

 何かを見通したような弟の顔。適当なことを言うな、と思ったが、言われてみればそんな気がするから不思議だ。

「分かった。会いに行ってみるよ」

 仏壇の写真を見て、そちらに向かって報告した。姉を不安にさせるのも悪い。

「うん、それがいい。さ、久し振りに来たんだから飯でも食っていってよ。俺、かなり腕を上げたんだ」

 中腰になった弟がこちらに向かって手を差し出した。躊躇なくそれを掴んで、「そうしようかな」、と言って力強く引き、腰を上げる。

 弟は軽々と私を支え、びくともしなかった。


 十日後、私は鳴海のマンションの前に立っていた。会わないようにしよう、と告げられてから初めての訪問だ。あれから、鳴海はリハビリにも来なくなっていた。

 エントランスでパネルに部屋番号を入力し呼び出す。部屋から応答はない。パネルのカメラで鳴海が私に気付いて、その上で居留守なのかは微妙なところだ。暫く呼びかけても無応答で変化なし。

 ロックを解除してもらわなければ中には入れない。いったん諦めてエントランスから出て、目立たない場所でマンションを訪れる人を待つ。五分ほどですぐに現れ、私はいかにも住人です、と言う顔をして一緒に、その男性が開けた自動ドアを通り抜けた。

 エレベーターに乗り、八階へ。

 階に人気(ひとけ)はなかった。彼の部屋の前まで行ってチャイムを鳴らす。ごそごそと動く気配。ドアの鍵が外され、呆気なく彼は私の前に姿を見せた。

 とっさに右足を見た。亜門が作った義足。何故かほっとする。

 うっすらと伸びた髭。ぼさぼさの頭。私の目を見ようともしない。

 立ち話もなんだから、上がって、と私を招じ入れた。


 相変わらず何もない部屋だ。お茶でもどう、と問われじゃあコーヒーと応答する。インスタントでいいかな。はい。ここまではルーティンワークだ。

 鳴海は杖も使わず亜門の右足を器用に操り、二つのマグカップをリビングのテーブルに置いた。テーブルと言っても卓袱台だ。私達は床に座布団を敷いて座る。

「で、何の用かな」

 私は即答を避け、マグカップを手にして息で冷まし、ゆっくりと飲んだ。いつもの味だ。嬉しくも悲しくもなる。

「会わないようにしようって、どうしてなんですか」

 用意してきた言葉はたくさんあったはずなのに、いちばん乱暴な奴を選んでいた。鳴海は私の率直さに面食らったようだが予想していたのかまごつくことなく言葉を返す。

「ようやく満足いく義足が出来たからね。それに、あれから十年だ。そろそろ、僕達は他人になって良い頃だ」

 含まれている要素は二つだと思った。

 一つは多分、私をこの(くびき)から解放してくれようとしている。

 もう一つは、

「――これ以上、私を見るのが辛いからですか?」

 はっとした鳴海の目鼻。まさかこの人は辛いのは自分だけだとでも思っているのか。呆れてしまう。

「私だって同じですよ」

 私は卓袱台に両手をつくとモーションを起こして立ち上がっていく。

「同じに決まってるじゃないですか」

 こちらの動きに合わせて上方へと移動する鳴海の目線を意識しつつ、両腕を前で交差させ、着ていたTシャツの裾を掴んだ。そのままくるりと裏返し、ばんざいの格好になって脱ぐ。下着が露わになった。深く考えた行動ではなかった。目の前の男に自分の気持ちを分からせてやりたかった。シャツから頭を抜き、床に投げた。

「美結ちゃん。何を」

 するんだ、と言う結句は、鳴海自身がのんだ息で発せられることはなかった。

 その視界には鮮やかで、どこか冷たい青い薔薇が咲いているはずだ。

「見辛ければブラも取りましょうか?」

 彼の首が揺れる。

「それは。傷を。それで」

「ええ。せめて綺麗にと」

 光景を思い出す。

 夏だった。高速道路の上。姉と鳴海の婚約を報告しに帰省するところだった。切り裂かれ、おかしな形に変形した車が無惨な姿を晒していた。さっきまで私達が乗っていた。そこら中に散らばるガラスの破片や鉄の塊。鉄と、ゴムと、油の焼ける臭い。あちこちから煙が上がっている。視界の先、遠くには横転した大型のトラックが見えた。どうにか脱出に成功したドライバーがこちらを見て、途方に暮れて、ただ、立ち尽くしていた。現実を拒むように全身が震えていた。いや、あれは立ちのぼる逃げ水のせいだったか。

 私は鳴海に腕を掴まれ車外に放り出されたのだと思う。よく覚えていない。結果的に私と鳴海だけが生き残った。後方から追突したトラックは父、母、姉の生命を削り取っていった。鳴海は婚約者を救いたかったに違いない。生憎、最後尾の座席で隣に座っていたのは私だった。

 彼は右足を失った。私の胸には消えない傷跡が刻まれた。

「あなたといるのは、私だって辛いです」

 卓袱台を回り込み、鳴海の前で膝を突いた。彼の右手を取り、青薔薇に触れさせた。抵抗はなかった。私は左手で彼の、縦に裂けた眉の辺りをなぞってから、しっとりと義足に触れた。ひんやりとした金属の感覚。そこには血肉が通っているような気がした。

「でも、私はあなたに救われたから、ここにいるんです」

 もっと早くこうすべきだった。互いが負った傷に触れ合い、感じて。父や母、姉に先立たれ、意図せずこの世に置き去りにされてしまった私達は辛さを共有すべきだった。

 長い間、無言のまま触れ合った。

 彼の眉の傷にもういちど指をあて、恐るべき緻密さで少しずつ這わせ、そこにある悲しみも、痛みも、焦りも、後悔も、何もかも吸い上げようと試みた。鳴海にしてもそうで、指の先にある青薔薇を傷ではなく青薔薇として受け入れ、新しい私を認識しようとしていた。

 それは交歓だった。

 弱々しくも確かに、私達はある種の歓びを交わしていた。


 私達はまた会うようになった。二人の間で姉が鳴海と私の手を取り、繋いでくれている。

 秋になった。私達は公園にいた。

 公園というよりはほぼグラウンドで、私は一角にしゃがみ込んで、向こうから歩いてくる鳴海の姿を見守っていた。

 フェンスを越えて張り出したカエデの樹から色づいた葉がはらはらと舞い散り、鳴海の姿を彩った。相変わらず彼の歩く姿は美しい。もう、健常者と変わらなかった。

 私は腿の裏に腕を回し、引きつけて抱え、立てた膝の上に顎を置く。鳴海は真っ直ぐにここをめがけ歩いてくる。やがて目の前へ。上目遣いで彼の佇まいを見た。

「どうだったかな」

 私は自然と笑顔になった。

「ええ、完璧でした」

 良かった。彼は荒く息を吐いた。消耗が常人より激しいのは仕方ない。

「足、やっぱり重いんですか」

「いや、義足は完璧だよ」

 近い内に、あいつに謝らなきゃな、と彼は言った。

「亜門さん、きっと喜びますよ」

「だといいね」

 立てる? 鳴海は右手を差し伸べた。私はちょっと躊躇った。熱くないか確かめるように二度、三度と彼の掌を人差し指でつついては引っ込め、意を決して掴み、力を入れて手繰り寄せ、腰を上げた。

 私の全体重を支えるには彼の右足は踏ん張りが不足していた。鳴海は何とか保とうとしたものの虚しく、最後にはバランスを失い、二人で後ろに倒れ込んだ。頬と頬が重なって、息遣いを交換した。

 彼の耳越しに空を見た。

 ああ、こんなに高かったんだ。

 見上げたのはいつ振りだろう。思い出せない。瞳を押し上げるように涙が盛り上がった。

 覆いかぶさっていた鳴海が両手をつき私から距離を取った。顔が向かい合う。私は彼の、右眉の傷を直視し、彼は私の、胸元にちらりと顔を出している薔薇の花弁を見た。

「ごめん。やっぱり転けちゃったよ」

 言葉とは裏腹に彼は白い歯を見せていた。おかしくてたまらないんだと目が訴えてくる。

 私も声を上げて笑った。

「ほんとですよ。ちゃんと支えてくれないと困ります」

 彼は隣に寝転んで仰向けになる。

「済まない。次からは必ず、君を支えるよ」

「はい。待ってます」

 共に空を仰いだ。鮮やかな青と白い雲。当り前だ。当り前のことも忘れていた。俯いたままだった今までを思った。どちらもほんの少しだけ泣いた。

 私達は手を繋いでいた。

〈了〉

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