八話~番外編~海猫のお竜~②~
それからさらに数ヶ月後、北見市に移り住んだあたしと香織さんは、新天地でもある市民病院で、日々忙しく過ごしていた。
しかしこの頃の北見はというよりは、この北海道全域が、関東龍神会の全国制覇の煽りを受けて、日夜を問わず、戦戦恐恐としていたのだが、この北見だけは、神楽親子率いる百人にも満たない、わずか八人の少数派組織、北見白狼会と、当時はまだ、義兄弟の間柄にあった北見黒狼会によって、平和の均衡が保たれていた。
しかしその均衡も、一人の若手刑事の策略で破られつつあった。
そしてこれは、後で知ったのだが、その若手刑事こそがあたしの父親、海原敬三を殉職させた引き金になった人物だったのだ。
あたしがそれを知ったのは、抗争時の流れ弾から北見市民を護ろうとして奮闘していた、あの時の男性刑事、信楽竜三さんが瀕死の重傷を負って、あたしの勤める市民病院に急患として搬送されてきた時だった。
あたしは今でも忘れられない。その時彼が流していた嘘の涙を。
そしてさらには自身の実の父親でもある竜三さんを助かる見込みの無くなるまで放置した上で当病院に救急搬送してきた彼の、冷酷非情としか思えなく尚かつ、法の番人であるはずの彼等警察官には絶対あるまじき行為だったからだ。
けれどここで、あたしと彼の様子を静観していた香織さんから、これまた医療現場を担う看護師としてはあるまじき発言が飛び出すのだった。
「まったく…母親が母親なら娘も娘ね……貴女達親子は長いものには巻かれろ的な言葉を知らないの?もうこのさいだから全部教えてあげる……貴女のお父さんもお母さんもそれからその男性刑事もあたしと彼には邪魔者でしか無かったって事よ!
要領良くたち振る舞えない人間…はっきり言って疲れるだけなのよね!」
香織さんがそう言ってあたしを一瞥したあと、今処置すれば助かるはずの竜三さんをあたしの眼前で死に至らしめようとした刹那あたしの心の奥底に眠っていた、怒りの感情が一気に爆発した。
「それじゃああたしの母は…病死なんかじゃなくてあんたに殺されたって事?あんたも…そっちの刑事も二人とも最低だよ!」
あたしはそう吐き捨てると、無構えのまま竜三さんを死に至らしめようとした香織さんとの間合いを詰めると、竜三さんに手を下そうとしていた彼女と、嘘泣きの演技をする竜三さんの息子、信楽凌矢の二人を病室の外に押し出すと、先ほど彼女が外しかけていた、彼に繋がれた生命維持装置を再び繫ぎ止め直すのだったが、時すでに遅く、彼の命の火は燃え尽きていた。
医療従事者だったり、警察機関だったりの隠蔽工作を目の当たりにしたあたしは、その市民病院を辞めて、北見市内の裏町へと姿を消して、その裏町で闇医者として生計を立てていた。
この頃からだったと、あたしは記憶している。仲違いする事なく、北見市を北と南に別れて統治していた白狼会と黒狼会が、小規模ではあるが、双方のシマ内の何処かで小競り合いを繰り返し始めたのは。
そうした中、どこでどうあたしの居場所を嗅ぎつけたのか、あの女があたしを訪ねてくるのだった。
「香織さん…今さらあたしに何か用?けど…あれだけの事やらかしといてよくもまぁあたしの前に顔が出せたものね!悪いけど帰ってくれない?あんたと話す事なんて何も無いしあたしこう見えて今結構忙しくしてんのよあんたの顔なんて金輪際見たく無いし…帰ってよ!」
あたしは露骨に嫌悪感を顔に出して、彼女を追い返そうとしたのだが、
次の瞬間彼女はまたもあたしの逆鱗に触れる一言を吐き捨てるのだった。
「へえぇ…闇医者ってそんなに儲かるんだぁ……ねえ…少しだけ回してくんない?あたしもあの一件で病院クビんなっちゃってさぁ今一文無しなのよねぇ……嫌だなんて言わないわよね?あたしがあの病院クビになったのあんたにも責任あんだからねでたらめな事あんたが医院長にチクったんでしょ?一人だけ逃げようったてそうはいかないよ」
彼女がそう吐き捨てた次の瞬間だった。あたしは無言のまま、彼女を処置室代わりに使っている部屋に引き入れると、暴れる彼女を強引に診療用のベッドに拘束ベルトで固定して、身動きの取れなくなった彼女の首筋に手術用のメスの中でも特に刃渡りのある物を押し当てると、それを一気に右横へと引くと、彼女の返り血を全身に浴びながらあたしは冷たく言い放ってやった。
「さよなら…白衣を着た獣さん……」
それからあたしは、その返り血まみれのまま近くの交番に自首した。
そして、裁判の結果、殺人初犯と情状酌量の措置はとられたものの、懲役十年の実刑を受ける事になった。
しかし北海道には、女子刑務所が無く、遠く離れた内地の刑務所に移送されることになった。
そして十年後、三十一歳で内地の女子刑務所を出たあたしは、医療にも司法にも、失望した結果、渡世の門を叩き、北見黒狼会のヒットマンとしての人生を歩む事になったのだが、それは、北見白狼会初代、神楽竜二会長と、北見黒狼会初代、朝倉源治会長との間に最初から結ばれていた密約だったようで、あたしはヒットマンから一転して北見白狼会の若頭として迎え入れられるのだった。
しかしあたしが白狼会の若頭に就任して、三十三歳の春先くらいだっただろうか、北見黒狼会は、会長であるはずの朝倉源治氏の求心力をしだいに無くしていき、半ば強引に親子縁組をしてきた関東龍神会にその力を奪われ、会長、朝倉源治氏の意思とは無関係に北見白狼会の回収とあたしへの討伐部隊が送り込まれるのだった。
あたしはその時、彼の計らいで稚内に身を躱していたため、難を逃れたのだが、その数ヶ月後だった。神楽竜二会長が重傷を負ってあたしの以前勤めていた北見市内の市民病院に搬送されたとの報せを受けたあたしは、急ぎ北見に舞い戻るのだった。
しかしこの時あたしは、あれだけ失望していた医療従事者に不思議な縁を感じるのだった。
仲間とは、つくづくありがたいものだと。
十年前、あたしがこの手で殺めた外道看護師村雨香織に嫌々言う事を聞かされていた看護師達が北見の市民病院に移ってからは立場の逆転したあたしを病院を辞めた今でも慕ってくれているのだ。
あたしは、三十三歳にしてやっと安住の地を得たように思う。打算無しに底なしに優しく、義理人情に厚い漢、北見白狼会初代、神楽竜二会長。
そしてその、全てを受け継ぎ二代目を襲名した会長のお嬢さんの礼子さん。良い時も悪い時も、会長やお嬢さんはいうに及ばず、外様のあたしにまで惜しみない義侠心を持って接してくれる。
北見白狼会の二代目若頭、八坂平蔵さん。あたしはこの世に生まれて、初めて命を預けても構わないと思う素晴らしい仲間に出合わせてくれた、天国の父と母には、一も二も無く、感謝の念しか湧いてこない。