1話 一ヶ月ぶり
ぼんやりと霞がかった白い雲と爽やかな青の空。桜の花びらが頬を心地よく撫でるような生暖かい風に乗せられ、ひらひらと宙を舞う。
キャリーバッグを引きながら歩いていると、待ちきれないのかまだ入学式も始まってもいないにも関わらずランドセルを嬉しそうに背負った子供が俺の横を走り過ぎていく。
俳優業を休むと宣言した日から時は経ち、華の学校生活の始まりを告げるに相応しい季節がやってきた。
「――ふぅ、やっと着いた」
俺はしばらく芸能の世界から身を引き、学校生活に集中するため実家に帰ってきた。
「ここに帰ってくるのも久しぶりだな」
最後に出演したドラマの撮影場所が実家からかなり遠かったため、一ヶ月もの間家から離れていた。撮影のスケジュールが立て込んでいたが、なんとか学校が始まる前日に家に戻ることができ、一息着く。
「それにしても、日常でもクールキャラを演じろかぁ……」
衝動的に1つ返事で承諾したはいいものの、今になって考えてみると普通に学校生活を過ごしたい俺からすれば面倒臭いの一言に尽きる。
「まぁ今更そんな事考えてもしょうがないか。それより長旅で疲れたし早く家に上がろう」
ドアノブに手を添えた瞬間、突然脳裏に一つの思考が浮かんできた。
(……いや待てよ? イメージ戦略はもう始まってるんじゃないか?)
家に上がろうとした直前に、最終確認に入った。
(お母さん呼びってなんかダサくね? 俺がこの先クールキャラとして生きていくとなるとあのクソ生意気な母にナメられたらそれこそこの先やっていけねぇぞ)
意味不明な深読みをしているという僅かな自覚を持っているが、俺は慣れないことで緊張してるせいか頭が回らなかった。
(知らんけどクールなイメージのある武士って自分の母親をお母さんなんて呼ばないよな……よし!)
ドアノブに添えていた手を動かし、遂に扉を開ける。
「ただいま帰り申した、母上」
「は?」
正直自分でもこのチョイスがズレてるとは思ったが、言葉にして呆気に取られたような事を言われるとなんだかじわじわと恥ずかしくなってきた。
「……ただいまお母さん」
「……どうしたのあんた? 急に自分の息子が武士になって帰ってきたかと思ったじゃない」
「はは……」
結局いつもの呼び方に落ち着いた、マジでなんの茶番だったんだろう。
「なんで急にボケだしたの? 面白くなかったし役者辞めて芸人の道に進むならセンスないからやめといた方がいいわよ」
(別にウケ狙ったわけじゃねぇわ。でもまぁ……身内だしお母さんには言ってもいいかな)
「実はさ――」
俺は母に事の経緯を話した。
「ふーん、なんか面白そうだけど大変ねぇ。だってあんたクールなのは外見だけだし」
「そうなんだよ……俺だって年頃の男なんだから友達とバカやって騒いだりしてぇよ……。それにしても本当にクールキャラなんて俺に務まるのかなぁ」
「ちょっとズレてる所あるけどあんたはどっちかと言うと大人しいタイプだし、はっちゃけない限り大丈夫でしょ」
「うーん、それもそうかな」
母の言う通り俺は身内や気を許した仲のいい友達の前では盛り上がるが、それ以外だとテンションは低いタイプの人間だ。確かに事務所の社長も言っていたがクールイメージを定着させるというより、他のイメージを定着させなければいいんだ。
第一印象さえ気を付けていれば大丈夫だろう。
(まぁそんなにお固くならなくてもいいか……)
結局、不安は杞憂に終わった。
「それにしても……プ……母上って……流石に意識高すぎでしょ……ププ……アハハハハ!」
「……まぁいい予行練習になったしいいか。それはそうと、はいこれお土産」
「おっサンキュー。それよりあんたくるみちゃんに顔見せて来なさいよ、くるみちゃんあんたと会えないからってずっと元気無かったんだから」
突然母がシリアスなモードに入る。
「もちろん、これからくるみ姉ちゃんにもお土産渡しに行く予定だったし」
「いやほんと……マジで元気なかったんだからいっぱいお話してやりなよ」
「はいはい分かってるよ、じゃあいってくる」
大袈裟かというくらいに心配する母を尻目にし、俺は再び外に出る。
(くるみ姉ちゃんと会うのも久しぶりだなぁ、早く会いたいな)
俺が姉と称している矢見崎くるみは、俺の一個上の幼馴染だ。血縁的な姉ではないが、家が近く母親同士仲が良いので家族ぐるみの付き合いも多い。故にほとんど一緒に居る機会が多いため、もはや本当の姉弟のような関係である。
くるみ姉とは例の撮影の為一ヶ月程も会ってない。一ヶ月も会わない日が続くのは今まで無かったから新鮮だ。どんなお土産話をしようか、などを考え目的地へ向かう。
(そういや、もう姉ちゃん呼びは止めようかな。姉さん、うん、これからこれでいこう)
そんなことを考え歩いていると、矢見崎宅に着いたのでインターホンを押した。
「はい……どちら様ですか……?」
家の扉が開き一人の女性が出てきた、くるみ姉さんだ。
彼女の容姿は、一言で形容するなら美少女だろう。
小顔で目鼻立ちが整っており、垂れた目尻はおっとりとした印象を持たせてくる。
柔らかい質感の胡桃色の髪は、腰までかかるほど長く髪型はハーフアップで編み込まれ、先端にはウェーブがかかっており全体的にふんわりとしている。
そんな恵まれた容姿に加え、人当たりが良く物腰柔らかな朗らかで明るい性格、溢れる母性と包容力も相まっていつも彼女の周りには人が絶えない。
まさに自慢の姉だ。
しかし何故か久々に見るくるみ姉さんは脱力感で満ちていた。
特に目なんかは死人のようだ。
目線は少しうつむき加減で俺の目と合っておらず、目蓋に力が入ってないように感じられ、清廉さを感じさせていた瞳は今じゃまるで底の見えない溝水のように濁っている。
「くるみ姉? どうしたの、元気ないけど」
「その声は……氷ちゃん?」
しかしその瞳は、俺を見た途端にみるみる輝きを取り戻していった。
「うんそうだよ、久しぶりくるみ姉さん」
「あ……あ……」
まるで向日葵が咲く瞬間の様に、徐々に表情が明るくなっていく。
「おかえり、氷ちゃん!」
「うわっ!?」
突然くるみ姉さんは俺の頭に手を添えたかと思えば、自分の大きなの胸に俺の顔を埋めさせてきた。
「あ〜この撫で心地、本物の氷ちゃんだぁ〜」
「むー! むー!」
俺は突然の事で頭が混乱していた。
今までのくるみ姉さんのスキンシップと言えば頭を撫でる程度、こんな過激なスキンシップは初めてだ。
そんな混乱の渦中で、胸の柔らかさと甘い香りに包まれながら俺は双丘の谷の中でもがく。
「あんっ……ふふっ、氷ちゃんも久しぶりにお姉ちゃんに会えて嬉しいんだね〜よしよし……もう離さないからね……」
温もりと甘美な香りの中で頭を撫でられると、あまりの心地良さに抵抗を忘れ身を委ねてしまいそうになる。
(ていうか……本当に苦しくなってきた……)
俺は必死にくるみ姉さんの肩を叩きギブアップの意を伝えようとするが、俺を甘やかすことに頭がいっぱいになっているのか気づいていない。
(このままだと本当にやばいことになる……早く引き剥がさないと……)
必死に引き離そうするも、逃がさないと言わんばかりの力が入ってるのと、苦しさのあまり力が入らないせいで男女の力の差を以てしても引き離すことが出来ない。
(やば……酸欠起こしてき……た……)
俺の意識は、尊厳と共に徐々に薄れいった。