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「来た?」

 真幸の問いかけに、優は答えない。無言のまま、彼は真幸から目を逸らした。妙に緊張感のある横顔に、真幸は瞬きをする。

「なにが……」

 真幸の問いに答えるように、カラン、と店のドアベルが鳴る。常連客と話をしていた店員が立ち上がり、「はーい」と足早に入り口に向かった先。

 そこには、小さな少年が立っていた。

 小学校、三、四年生くらいだろう。ランドセルを背負い、どこか暗い顔をした彼の姿に、真幸は見覚えがあった。

 ――あの子、前の店で見た。

 前の珈琲店で居合わせた少年だ。落ち着かない彼の様子を覚えている。口の中で独り言をつぶやき、鬼気迫る顔で中年女性たちの会話を聞いていた。あの少年だ。

 店員は、親がいないことをいぶかしんでいたようだ。もう二十時が近い。いくら真幸のように放任主義な家であろうと、この年の子供が一人で出歩くには不適切な時間だ。

 家へ帰るようにと店員がうながしても、少年は頑として帰らなかった。しばらくして、根負けした店員が、諦めたように角の席――真幸の隣の席に案内した。それからまた常連客の席へと戻り、ひそひそと話をする。

 ひそひそ、と言っても、先ほどまで話していた時よりも、若干声量が落ちた程度だ。もともと声が大きいのだろう。狭い店のせいもあって、真幸の耳にも会話が聞こえてきてしまう。

「家出かしらね」

「どこの家の子かしら。あとで親を聞き出して連絡しないと」

「聞き出せなかったら警察かしら」

 一方の少年は、案内された席にちょこんと座っている。疲れたような目で、そわそわと体を揺らし、独り言をつぶやいているのも変わらない。何度も何度も、同じ口の動きを繰り返す。

「優、あれって……」

「真幸、静かに」

 優の静止に口をつぐめば、店に聞こえる声は店員と常連客の会話だけになる。有線の歌謡曲も、時計の針の音も、店の外を走る車の音もしているはずなのに、二人の声しか店の中には響かない。

「なにがあったのかしらね」

「いたずらでもしたのかしら」

「きっと悪いことしたのね」

「人殺しをした」

「そう、人殺しとか」

 穏やかな店の空気が、一気に冷え固まる。

 夢中で話す店員と常連客は気付いていない。

 二人の隣。四人掛けの席の余った椅子に、誰かが腰かけていることに。

 仕切りのない店だからこそ、その姿はよく見えた。白い髪。うつむいた顔。背中を丸めて、やせ細った枯れ枝のような両手を、喉元にあてている。ぶかぶかの服は、間近で見てようやくわかった。

 あれは入院患者の着るような――病院服だ。

「――――僕は悪くない」

 消え入りそうな声に、真幸ははっと振り返った。隣に座っている少年が目に映る。

 彼は椅子の上で両手を握りしめ、震えていた。充血した目が、瞬きを忘れて見開かれている。顔は青ざめ、呼吸は荒かった。

「僕は悪くない。わざとじゃなかったんだ」

「わざとじゃあ許されないことよね」

「ねえ。人が一人死んでいるんだから」

 店員と常連客が、そう言って笑い合う。二人は少年の方を見もしない。気が付いていないのだ。少年の様子も、彼女らの隣に座る人影の存在にも。

「ひいばあちゃんが、欲しいって言ったからあげたんだ。大きいのあげようと思って」

 少年の握りしめた手が白い。瞬きをすると、目の端から涙がにじむ。言葉は後悔に満ちている。

 だが、人影は――彼の曾祖母らしきものは、許すつもりはないらしい。

「お前が殺したんだ」

 人影は、緩慢な動きで椅子を降りた。背は、見た目通りに小さい。老いてしぼんだ、老人のものだ。

 うつむいたまま、それはゆっくりと足を進める。少年はびくりと震えたが、それ以上は動けなかった。視線はその小さな姿に縫い止められ、逸らすことを許されない。

「お前が、わしを苦しめて殺した」

「そんなつもりじゃなかった。でも、でも家に誰もいなくて。ひいばあちゃん、ずっと呻いていて……」

 少年は、両手で自分の首をおさえる。曾祖母がそうしていたように。

「お前がわしを苦しめた」

「僕のせいじゃない。僕は悪くない。なのに、なんで」

「お前がわしを殺した」

「どこにいても、どうしてもいるんだ。どこに逃げても、人のいる場所でも」

「お前のせいだ」

 言葉とともに、一歩一歩人影が少年に近付いていく。喉を抑えたまま、恨みの言葉を吐き続ける。近付くほどに少年の顔は青ざめ、絶望に染まっていく。

「ゆ、優……」

 真幸はかすれた声で優の名を呼んだ。

 あれを、少年に近づけてはいけないと思う。だけど真幸には、どうすればよいかわからない。

「ど、どうしよう……」

 大声を張り上げればいいだろうか。少年と人影の間に入ればよいだろうか。どうして周りは誰も、あれの存在に気が付かない? 少年の異変にも気が付かない?

「真幸」

 混乱する真幸をなだめるように、優は穏やかな声を出した。

「大丈夫」

 そう言って、優はにこりと笑った。

 真幸はその顔を、瞬きながら見上げた。優の姿が――――見えている。カメラ越しではない。真幸の目が、彼の姿を映している。

 優は真幸に笑みだけを残すと、おもむろに人影に向かって歩き出した。人影は優に見向きもしないのに、彼はまるで当たり前のように、その肩に触れる。

「……かわいそうに」

 肩に触れられた人影は、動かない。そのまま、時が止まってしまったかのようだ。少年も動かない。つぶやき続けていた悔いの言葉さえも、今は出てこない。

 店全体が、奇妙な静寂の中にあった。

「こんなに重たい感情を抱えて、つらかったでしょう」

 優の声音は優しい。優しいのに、真幸はなぜか寒気がした。

「僕が消してあげる」

 優しい言葉とは裏腹に、優に触れられたその人影は、突如として苦しみだした。喉を抑えたまま、逃れるように大きく体を揺さぶるが、優の手は離れない。それほど力を入れているようには見えないのに、暴れるその人影を押さえつけままだ。

 しばらくして、優が触れた肩から、どろりとした黒いものがこぼれだした。一瞬、どこかから泥水でも湧いて出たのかと思った。だが、すぐに違うと気が付く。

 肩が溶けているのだ。肩が溶け、腕が溶け、胸が溶け、順繰りに、その人影は黒い液体に変わる。とろりとろりと重い液体が流れ出し、床に水のたまりを作っていく。

「――――いやだ」

 囁くような声が聞こえた。それは、老婆から聞こえたのか、少年から聞こえたのかはわからなかった。

「忘れたく、ない」

 泣きそうな声を最後に、人の姿の最後の一滴が泥に変わる。水面すらも揺れない静かな泥のたまりだ。

 優は水面を見つめた。慈愛にも似た視線で、瞬きを一つ。

 それを最後に、泥のたまりはかき消えた。

 同時に、どさりと、なにかが落ちる音がする。慌てて音を追えば、尻もちを搗く少年の姿があった。彼は呆けたような顔をして、無言で瞬いている。

 なにが起こっているのか、真幸にはわからなかった。

 ただ、すべて消えたということだけがわかった。あの人影も、黒い液体も、さっきまで見えていた優の姿さえない。

「あらあら、大丈夫? どうしたの」

 店員の女性が、慌てて少年に駆け寄った。少年は素直に助け起こされ、小首をかしげたまま瞬いている。そこにはあの充血した目つきはない。ありがとうございます、素直な子供らしく礼を言って、それからきょとんと首を傾げた。

「あの、ここ、どこですか? 僕、お家に帰らないと」

 あらあ、と言って店員の女性は不思議そうに、頬に片手を当てた。


「……優、なにしたの」

 ぽつりと真幸がつぶやけば、どこからともなく声が返ってくる。

「『悪いもの』を、吸い取ったんだよ」

 優は、見えなくなっただけで、いなくなったわけではないらしい。いつも通りの飄々とした声に、真幸は不気味さを半分、どうしてか、安心を半分感じた。

「吸い取る? 悪いもの?」

「暗い気持ち。憎しみとか、妬みとか、後悔。そんな感じのもの」

「憎しみって……ひいおばあちゃんから、ひ孫への?」

「それは、僕にはわからないよ。ただ、暗くて苦しい気持ちだけがわかる」

 ――暗くて、苦しい。

 それはまるで、あの泥のように思えた。黒く、光を返さない泥のように重たいしずく。

 店員の会話や、以前の喫茶店での女性たちの会話。それに、少年のつぶやきから、真幸にはその暗さを想像することができた。

 おそらくは、少年が与えた飴玉を喉に詰まらせ、曾祖母が亡くなったのだ。そして、曾祖母はそれを恨んで、少年の前へと現れた。どこに行っても、どこに逃げても、彼女はひ孫を追い続けた。

 少年は、だからこんな人の知らない喫茶店にも逃げ込んできたのかもしれない。いろんな場所へ逃げて、曾祖母のいない場所を探していた。

 まだ十かそこらの子供が、親切で上げた飴玉。それが家族を死に至らしめた。曾祖母はひ孫を恨み、幽霊になって追いかける。少年は怯え、自責に駆られて逃げ続ける。

 子供のしたこと。だけどそれで誰かを死なせたことも事実。恨むなというのが無理なのかもしれない。わかっていても、想像すると、無性にやるせなかった。

「暗い感情は、苦しいものだよ。だから僕が吸い取ってあげないと」

 そうするのが当たり前のように、優は言う。真幸には、そんな優の声音にますます混乱する。

 どうして優にそんなことができるのか。吸い取ったものはどこへ行ったのか。あの少年は、放っておいても大丈夫なのか。驚くほどに理解不能だった。

「……優って、何者なの」

 考えることをあきらめて、投げやりにそう言えば、優はいつものように答えるのだ。

「何者なんだろうね。思い出せないや」


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