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1-5

 結局、真幸は店員に聞いて、この店で一番人気の珈琲を頼んだ。

 出てきたのは、店のオリジナルブレンドのエスプレッソ。ミルクとクリープを入れてもいいが、一口目は普通に飲んでください、とのことだ。

「優、どうやって飲むの?」

 真幸は黒く揺れるカップの水面を眺めながら、渋い顔でつぶやいた。珈琲の味を覚えている、などという優の発言を、もう真幸は信用していない。それでも万が一を考えて、念のために一口飲ませてみたかった。

 だが、そもそも幽霊に飲み食いなんてできるのだろうか?

「お墓のお供え物を食べるような感じで……できない?」

「うーん……」

 うなりながら、コーヒーカップに手を伸ばす優の姿が、テーブルに置いたカメラのモニターに映る。優の手は見事にコーヒーカップをすり抜け、手に持つこともできないようだ。

「やっぱり触れないなあ。どうすればいいんだろう」

 コーヒーカップに手を重ねながら、優は首を傾げた。真幸も腕を組み、妙案を探すがなにも浮かばない。

「――――だからぁ、お餅なんてあげたら大変よ!」

 顔を見合わせて悩む真幸たちの耳に、相変わらず大声で話し続ける中年女性たちの会話が聞こえた。真幸がひっそり話しているせいか、女性たちの声は余計に鮮明に響いていた。

「でも勝手に食べちゃうのよね。手の届くところに置くと、留守中にも」

「それに小さい子供だと、勝手にあげちゃったりもするのよねえ」

 まだ介護の話をしている。あまりの盛り上がりに、真幸はつい、女性たちのほうへと顔を向けた。

 かしましく話す女性たちは、レジに近い入り口の席に座っている。六人掛けのソファ席で、向かい合って二人と三人。テーブルに身を乗り出すほどおしゃべりに夢中だ。

 ――あれ?

 店に入る時にも見た光景だが、どこか違和感があった。最初に真幸が見たときと、なにかが違って見える。

「そうそう、小さい子は飴とかガムとか、自分のお菓子を渡しちゃうのね。でもいつも見張っていられないから」

「それでわしを殺したんだ」

「悪気はないし、誰のせいでもないんだけどねえ」

「悪気がなくても、お前のせいだ」

 ――――五人?

 真幸の席からは、背を向けて座る三人の姿が見える。恰幅の良い二人の女性に挟まれて、真ん中に座る小さな背中に、視線が奪われた。

 溌剌とした女性たちに囲まれて、まるでそこだけ影が落ちたように暗い。だけど、確かに人の姿をしていた。

 中央に座る人影は、背中を丸めた痩せた姿をしていた。暗いのに、その髪が白髪であることはよくわかる。肌の色が透けるほどに薄く、その肌さえもどこかおぼろげに見えた。

 着ている服はぶかぶかで、背後から見てもわかるほど、サイズが合っていない。余った袖から覗く腕は、枯れ枝のように痩せている。生気の感じられない、青白い腕だ。

 真幸は浅く息を吐き出した。あんな人、いただろうか。小さくて見落としていただけだろうか。頭の中で合理的な理由を探すが、肌はもっと正直で、知らぬ間に鳥肌を立てていた。

 中年女性たちの会話は止まることはない。声は、ますます大きくなる。異常を感じているのは自分だけなのか。不安になって、真幸は店内を見回した。

 女性客は、変わらずスマートフォンを触り続けている。男性客は、迷惑そうに中年女性に一瞥を向けただけで、また本に視線を落とした。店員は、新しく店に入ってきたカップルを席に案内しているところだ。

 なんの変哲もない店の中で、一人だけ、真幸と同じように女性客を注視している人間がいた。

 落ち着きのない、小学生の少年客だ。彼はいつの間にか席を立ち、中年女性たちを見つめている。

「――悪気がなくても、ねえ!」

 彼女たちの声は、店全体に響き渡っていた。大声という領域も、もはや超えている。店全体に、聞かせようとしているかのようだ。

「子供が殺しちゃうのよねえ、自分の身内を!」

「苦しんでいても、子供じゃ助けられないものねえ!」

「悪気はなくても、人殺しよねえ!」

「人殺し!」

「人殺し!」

 耳に入る言葉に、真幸はぞっとする。中年女性たちは、あくまでも楽しそうに話をしている。それがまた、背筋を寒くさせた。

 真幸の視界の端には、立ち尽くす少年の姿も見える。落ち着きがなかったはずの彼は、今は身じろぎひとつしない。ただ、ときおり口が動く。幼さに見合わぬ鬼気迫る表情で女性たちを見据えながら、なにかつぶやいているようだ。

「――――ない」

 女性客の声に紛れて、小さくかすれた声が聞こえてきた。まだ高い、かすれた少年の声だ。聞きたいわけではないのに、真幸の耳は勝手にその音を拾い上げる。

「僕は悪くない――――」

 少年の肩が震える。血走った目が、なにかを見つけたように、さらに大きく見開かれた。

 視線の先を追い、真幸は気が付いた。

 三人掛けの真ん中に座っている――いなかったはずの小さな人影が、背後に振り向こうとしている。体を斜めにひねり、首をゆっくりと動かす。

 振り返りながら、その影は手を持ち上げた。枯れ枝のような手が、細い自身の首筋に触れる。まるで、喉元をおさえているようだ。

 ――――見てはいけない。

 暗い影の顔を見てはいけない。頭の中で、警鐘が鳴り響く。振り向きざまの影の横顔が、見えそうで見えない。見たくはないのに、体が動かなかった。

「優」

 すがるように吐き出した言葉は、声にならずかすれて消えた。女性たちの話し声が響いている。人殺し、と罵り続ける彼女たちは、その会話の異常さにも気が付いてもいない。

「優……」

 返事はない。代わりに、テーブルの上に置いた真幸の手に、ひやりと冷たさが重なる。まるで、見えない誰かに握りしめられたような感触だった。

「――――お客様、申し訳ありません。もう少し声量を落としていただけないでしょうか」

 同時に、落ち着いた男性の声が聞こえた。店の空気が入れ替わる。女性客たちは、あらやだと口をおさえ、互いに顔を見合わせて苦笑いだ。店に流れるジャズは軽快なリズムを刻み、店内を明るく彩っている。

 真幸は脱力し、椅子に背中を預けた。手に感じた冷たさはもうない。優の仕業か、あるいはただの勘違いか。今となってはもうどうでもよかった。

 小さな人影は、なくなっていた。店員が去った後、中年女性客は四人でまた別の話をはじめている。

 今度の話題は、近所の総菜屋についてだった。どこがおいしい、どこが安いだのと話をしているらしい。先ほど話していたことなど忘れたかのように、たわいない言葉を交わしている。

「…………優」

 真幸は低い声で、優の名前を呼んだ。彼は相変わらず姿が見えない。

「『また』だよ。……だから、優と出かけるのはいやなんだよ。優といると、こういうことばっかり」

「そんなこと言われても」

 苦笑したような優の声が聞こえる。真幸の言いがかりだとでも言いたげな声音だ。

 だが、真幸は優のせいだと確信していた。生まれてこの方、真幸には霊感などあったことがない。幽霊を見たことも、不思議な体験をしたこともなかったのだ。

 それなのに、優と出かけると、頻繁にこういうことがある。怪しげな影を見かけたり、妙な声を聞いたり。見聞きをするだけで、実際になにかしらが起こるわけではないのだが、だからといって受け流せるものではない。なにより不吉で、怖いのだ。

「優が引き寄せているんじゃないの? 同じ幽霊なんだし」

「誤解だよ。だいたい、あれだって幽霊なのかどうかわからないし」

 慌てたように優が言う。見るからに人型で、あれほどわかりやすい幽霊もいないと思うが、優は認めようとはしなかった。

「生きた人間なのかもしれないじゃない」

「いつの間にか現れて、いつの間にか消える生きた人間?」

「そういうこと、あるかもしれないでしょう?」

「ない」

 真幸は断言する。幽霊となった優にとっては現れて消えることを当たり前にできるかもしれないが、一般的な人間には不可能だ。

 すげない真幸に、優は肩をすくめていることだろう。珈琲は、すっかり冷めてしまっていた。

 珈琲を飲むと、真幸と優は早々に店を出た。去り際、真幸同様にあの人影を見たであろう少年の姿を探したが、見当たらなかった。もともと、子供一人で出歩くには遅い時間帯だ。先に帰ってしまったのだろう。

 優とは、店の前で別れた。ばいばい、と手を振る優を、真幸はカメラ越しに見る。こうして別れた後、彼はまた、あの路地裏に戻るのだ。

 カメラは店内の暖房にあてられたせいか、妙に熱を持っていた。


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