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優の言葉通り、大通りから細い道に入った先に、その古い珈琲店はあった。
路地裏みたいな、建物に挟まれた細い道を抜けた先。看板がなければ廃業しているかと思うような古びた建物だったが、意を決して中に入れば、意外にそこは小奇麗な店だった。
外装こそ色褪せ、時代遅れの古めかしさがあるものの、中はずいぶんと今風に作り替えられている。店内には頑固な常連や、珈琲通しかいないのかと身構えていたが、そうでもなさそうな――珈琲そっちのけで話をする中年女性の集団や、間違えて入ってきたような、小学生くらいの男の子の姿も見える。女子高生一人でも浮いた様子はなく、真幸は内心ほっとした。
「だからぁ、最近あったでしょ。ホラ、死体が見つかったっていう事件。先月の半ばくらいだったかしら? 誰かに殴り殺されたって話!」
「あったあった! この近所よねえ。確か裏通りのほう? あそこ、もとから暗くて治安悪かったものねえ。ほら、カラスとか野良猫の死体があるって噂もあったでしょ」
「やだわあ、怖いわねえ。犯人は見つかってないんでしょう?」
「そうそう。どうにも痴情のもつれとかって話だけど、物騒よねえ。うちはおばあちゃんが迷い込まないか心配だわ。ダメっていうのにひとりで散歩に出て、変なところ歩いちゃうから」
店自体が狭いせいもあってか、店内は思いのほか騒々しい。
主な音源は、入り口近くに座る中年女性四人組の会話だ。年は、真幸の母親よりもいくらか上だろうか。店に流れるそこそこの音量のジャズをかき消し、彼女たちは珈琲が不味くなるような話で談笑している。
しかし、真幸にはその騒々しさがありがたかった。彼女たちの声が、なにもない空間に話しかける真幸の声を隠してくれるからだ。
窓際の角の席に案内され、席に着くなり、真幸は小声で優に話しかけた。
「優、どの珈琲を覚えているの」
窓際のスタンドに立てられたメニューを取り出し、真幸はテーブルの真ん中に広げた。珈琲店というだけあって、豆の種類がやたら多い。種類だけではなく、産地や豆のひき方、淹れ方まで指定されている。
メニューを眺めても、残念ながら真幸には違いがわからない。珈琲は等しく苦くて、カフェオレにすればなんとか飲める。珈琲については、その程度の味覚しか持っていなかった。
「よくわからないなあ……どれでもいいよ」
「どれでもいいが一番困る」
どこからともなく聞こえた声に、真幸はむっと返した。カメラを置いた今、優の姿は真幸には見えない。おそらくは、一緒にメニューを覗き込んでいるのだろう。
「うーん、じゃあ一番普通のやつ」
その一番普通のやつが、どれだかわからない。キリマンジャロ、ブルーマウンテン。エスプレッソにアメリカン。ブレンドかストレートかと言われても、真幸にはどれもこれも同じに思える。
「普通って、どれ」
優に尋ねてみるが、返事がない。姿は見えないが、真幸はなんとなく、彼が首を傾げているのだろうという気がした。
「珈琲の味覚えているんじゃないの」
恨みがましく言えば、優は「さあ?」と悪びれた様子もなく答える。
「僕、そんなこと言ったかなあ。記憶がないからわからないや」
――――やっぱり。
く、と真幸は悔しさに唇を噛む。
きっとカメラを構えれば、にやにや笑う優の姿が見えることだろう。いっそ見えなくてよかったのかもしれない。今、真幸が優の顔を見れば、その顔面をカメラでかち割っていたはずだ。もっとも、幽霊の頭を割ることなどはできず、カメラは空を切るだけである。
――いつもこうだ。
優が喫茶店に行きたいと言ったときから、真幸はこの結末を予想できていた。というのも、優は真幸が路地裏にいることを好まず、こうして嘘でおびき出すことがたびたびあったからだ。
幽霊ながら、真幸の身を気遣ってのことかもしれない。だが、期待させておいての裏切りは万死に値する。
「やっぱり明日、神社に行ってくる。裏通りのビルの下に、人を騙す悪霊がいるんです、って」
「待って待って! そうしたらカメラのデータも戻らなくなるよ!」
脅すように真幸が言えば、優が慌てて声を上げる。しかし、それも嘘なのか本当なのか。慌てているのは声だけで、本当は笑っているのかもしれない。散々優に騙されてきたおかげで、真幸はすっかり人間不信、もとい幽霊不信になっていた。
「嘘をついて悪かったよ。でも、ほら、寂しい幽霊にちょっと付き合うと思って」
許して? と優は甘い声で言う。見た目だけは良い優のことだ、生前はきっと、それで散々許されてきたのだろう。
「真幸と出かけたかったんだ。ずっとあそこで一人だと、消えちゃいそうな気持になるし、真幸だけが僕の頼りなんだよ」
「そもそも、カメラのデータが戻るって話は、本当なの?」
同情を誘う優の言葉を、真幸はまるごと無視する。優は傷ついたような声を上げるが、それも無視だ。
「それも嘘なら、今すぐお祓い直行するけど」
「嘘じゃない! ……と、思う。正直、本当に『戻る』って言ったのかどうかも、覚えてないんだけど――――でも、もしも無理矢理お祓いされるとしたら、僕は成仏する前に、なにがなんでもデータを消したままにするよ!」
「成仏してないじゃん!」
完全に悪霊のやることである。そもそも、神社で除霊されながら、仏になろうとは図々しい。きちんと寺に行くべきだ。
頭をめぐる諸々を込めた声は、思いのほか店に響く。真幸はあわてて、自分の口をふさいだ。
今の真幸は、はたから見ればひとり客だ。向かいに座っているであろう優の姿は、真幸自身にも見ることができない。なにもいない空間に向けて、突然声を荒げる真幸は、どう考えても異常だろう。
変な目で見られていないだろうか。真幸は口元に手を当てたまま、おそるおそる周囲を見回した。
店はそう広くない。窓際の壁に座る真幸からは、他の客の姿が一望できた。
「――――年を取ると仕方ないけど、大変よねえ。うちは足腰は元気だけど、食べるものがね。固いものや詰まるものはダメ。一回病院に行ったのよ」
「うちはもう亡くなっちゃったんだけど、最後は動けなくなっちゃったわ。ご飯もほとんど食べられなくて、流動食ばっかり。刻んだお餅でも喉に詰まらせちゃっていたわ」
「わしは飴を詰まらせた」
「私のとこのおじいちゃんは入院中よ。体力がないから、手術も難しいのよね」
「おばあちゃん、徘徊する元気はあるのよねえ。家に閉じ込めちゃうのもかわいそうだし。でも、いつも見ていられるわけでもないから、どうしようかと」
入り口近くの中年女性四人組は、相変わらずの大声で、介護の話に花を咲かせていた。どうやら話に夢中で、真幸の奇行には気が付いていないようだ。
他の客も、真幸に目を向ける様子はない。本を読む男性客、スマートフォンを触り続ける女性客。店に入る時に見た、小学生くらいの少年だけは、そわそわと店中に視線をさまよわせているが、真幸を見ているわけではないらしい。もとより落ち着きのない性格なのだろうか、立ったり座ったり肩や首を揺らしたり、あるいは独り言をつぶやいたりと忙しない。
店員は、真幸よりもその少年の方が気にかかるらしい。入り口傍のレジで帳簿を書き留めながら、ときおり何度も少年に視線を向けていた。
真幸はほっと息を吐くと、椅子に座り直した。
――もういいや。珈琲は適当に頼もう。
妙に気が抜けてしまった。真幸は投げやりな気持ちでメニューを閉じると、テーブルの端に置いておいたカメラを無意識に手にする。条件反射のようにファインダーを覗き込めば、対面に座る優の姿が見えた。
優はテーブルの上に肘を置き、少し身を乗り出すような形で真幸を見ている。表情は終始笑顔で、上機嫌だった。
「楽しそうだね」
優とは真逆の表情で、真幸は低くそう言った。結局、この店も優の記憶を取り戻す手助けにはならない。ただ単に、路地裏を出たい優に騙されただけなのだ。
不服の詰まった真幸の言葉を聞いても、しかし優はまるで応えない。
「真幸と一緒だからね」
真幸に顔を向けたまま、優は溶けるように笑った。その表情も声も柔らかく、どこか香り立つような色香がある。
「真幸と一緒だと、僕はどこにいても楽しいよ」
カメラ越しに、優は真幸から視線を離さない。正面切って口にするのは、あまりに恥ずかしい言葉だ。
先に耐えられなくなったのは、真幸のほうだった。
「……軟派な」
小さくつぶやき、真幸はカメラを置いた。ふん、とわざとらしく鼻で息を吐き、視線をさりげなく窓の外に移す。
幽霊とはいえ、優は男性だ。まっすぐに見つめられてそんなことを言われれば、落ち着かない気持ちになる。照れてしまいそうな自分自身を律するように、真幸は意識して表情を硬くした。
――どうせ、生前も同じようなことをしていたんだ。
優は美男子だ。そのうえ柔和で優しげな態度では、さぞや女性に人気があったことだろう。口説きなれているようだし、きっと女慣れもしているだろう。一方の真幸は容姿も平凡だし、洒落てもいない。彼氏どころか、男友達もいない不慣れな真幸など、片手で転がすようなものだ。
――男なんて。
優しそうに見えても、誠実そうに見えても、結局は綺麗な女性に惹かれていく。みんな嘘つきで、愛していると言いながら、簡単に人を裏切るのだ。
――男なんて、みんな信用できない。
心の奥、真幸は噛みしめるようにつぶやいた。
真幸は生まれて十七年間、恋人がいたことも、恋をしたことすらもない。当然、恋破れたことも、男に裏切られた記憶も、ないはずだ。
なのに、真幸の中には男性不信が身に染みている。どんな男だって、平気で真幸を捨てていくのだ、と。
原因は、思い出せない。