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「だって、真幸も覚えていないんでしょう?」
外階段の一段目に腰を掛ければ、優は当たり前のような顔で隣に座る。
「本当はそんな写真なんて、最初からなかったんじゃないの?」
はじめこそは怖いと思った幽霊も、一か月も経てば慣れたものだ。優自身の性格もあって、真幸はすっかり彼への恐怖を忘れていた。
だが、怒りは忘れようもない。
「あったよ」
真幸は渋い顔のまま、優を睨みつけた。
「消えたデータの中に、絶対あった! なんかこう……すごく大切な写真が」
「でも、どういう写真かはわからないんでしょ?」
「そうだけど」
む、と真幸は口をつぐむ。反論の言葉がない。
消された写真は覚えている。春の沖縄旅行写真に、夏の花火大会の写真。優と会う直前まで撮っていた町の風景写真。
メモリのほぼ上限まで埋まっていたこの写真の中に、真幸にとって大切な写真があった。
その写真がどれだかが思い出せないのだ。消えた写真データと共に、それにまつわる記憶が真幸からも抜け落ちていた。
覚えているのは、真幸にとってそれが大事だったという事実のみだ。
「忘れるってことは、それほど大事じゃないってことだよ。いいじゃない、忘れたままで。諦めちゃいなよ」
諸悪の根源でありながら、無責任に言い放つ優を、真幸は睨みつけた。
――やっぱり、さっさと神社で除霊してもらった方がよかった。
都合のよいことに、駅から徒歩に十分ほどの場所に、お祓いもしていると評判の、そこそこ大きな神社がある。お守りや破魔矢のお焚き上げをしてもらったことがあるし、真幸にはなじみのある場所だった。そこで、このカメラを焚きあげてもらうのが賢い選択だっただろう。もしかしたら、はた迷惑な悪霊も含めて除霊してくれたかもしれない。
優の記憶を取り戻せば、データが戻る保証はないのだ。むしろ、何度も押しかける真幸に根負けして、優が適当に吐いた嘘の可能性の方が高い。
そもそもが、何度も得体のしれない幽霊に会いに行き続けるなんて正気の沙汰ではないのだ。それもこんな日暮れの路地裏。幽霊でなくとも危険は多い。
それでも真幸は、神社に行くこともなく、優の元へ通い続けている。少しでも、写真を取り戻す可能性に期待している。
それくらい、大切なものだった。
階段に座ったまま、膝を抱く真幸に、優は心配そうに言った。
「真幸、寒くない? もう結構暗いよ」
膝の上に置いたカメラに、優が映る。彼は真幸を覗き込み、空を見上げた。
冬の空は陽が落ちるのが早い。すっかり夜の色をしている。灯りのない路地裏は、夜の暗さが顕著だった。
「女の子一人でこんな場所は危ないよ。そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
幽霊のくせに、優は真幸の身を案じている。誰のせいだと思いながら、真幸は首を横に振った。
「まだ六時半だよ」
このくらいなら、見とがめられるほどの時間ではない。それに、真幸の母が仕事から帰るのは、いつも二十時以降だ。彼女の帰宅までに家に帰り、食事の用意さえ済ませていれば、母は真幸になにも言わなかった。
「だいたい、まだ優のことなにもわかってないじゃない。今日こそ、なにか思い出してもらうから!」
ぐっと優に詰め寄れば、彼はかすかに頬を染め、照れたように頭を掻く。
「真幸はそんなに、僕のことが知りたいんだ」
「そうじゃない」
「気持ちは嬉しいけど、場所がなあ。暗くてロマンチックじゃないし。それに、本当にここらへんは危ないんだよ。あんまり治安のいい場所でもないし」
真幸の否定を無視して、優は若干の照れくささと苦さを込めて言った。
態度はさておき、優の言うことに間違いはない。この路地裏を含む『裏通り』は、地元民も避ける評判の悪い場所だった。
元々は、この周辺は古いオフィス街だった。それが駅前再開発の影響で、軒並み追い出されてしまったのが数年前。それからいつまでたっても再開発は進まず、空のビルばかりが残された。そのくせ、オフィス街の人間を狙ったいかがわしい店だけは残り続け、健全な人々を遠ざけている。
そうして出来上がったのが、人を寄せ付けない『裏通り』と呼ばれる地帯だ。再開発用の区画一帯を占拠する、裏と呼ぶにも広すぎる通りは、いつしか不良のたまり場となっていた。
おまけに少し前には、この裏通りのビル群で、ニュースにもなる大事件があった。しばらく警察が出入りし、立ち入り禁止になっていたのを真幸は見たことがある。
そうでなくとも、変質者や痴漢や幽霊の噂まで、この裏通りはなんでも抱え込んでいる。噂のどこまでが真実かはわからないが、少なくとも幽霊は本当にいたわけで、本心では真幸も足を踏み入れたくない場所だ。
だが、優はここにいる。優がこの空き地にいる限り、真幸はこの薄暗い場所に足を踏み入れなければならないのだ。
「優が思い出しさえすればいいんだよ」
「そんなこと言われても」
不機嫌な真幸に、優は飄々と肩をすくめた。自分のことなのに、彼はまるで記憶に興味がないみたいだった。
「本当に、まったくなにも思い出せないの? 親兄弟、生まれた場所、死んだ時の事、なんでも」
「なーんも」
呆れるくらいにきれいさっぱり、優は否定する。ため息をつくのは、いつも真幸のほうだった。
「そんなんで、よく幽霊なんてやってるね」
幽霊とは、恨みつらみや心残りなど、なんらかの未練があって出てくるもの。真幸の中ではそんなイメージがある。だが、目の前の優には未練どころか記憶もない。記憶に対する未練すらもないように見える。
なにに執着するわけでもない優は、幽霊としては不適格だ、
「ほんとにね」
優はてらいなく頷く。このまま成仏でもできそうなほどに穏やかな顔つきだ。もっとも、真幸のデータを返すまでは、成仏されても困るのだが。
手ごたえのなさに、真幸は息を吐いた。
「……せめて、年齢とか死んだ年でも覚えていれば、新聞とかで調べられるんだけど」
「死んだ年ねえ――――あ」
「なにか思い出したの!?」
ぐっと身を乗り出す真幸とは対照的に、優の顔は渋かった。真幸の言葉には応えず、なにかを探すように周囲を見回す。どこか落ち着かないその様子は、いつもの優らしくない。
「……真幸、いっこ思い出したよ」
しばらくして、優は眉間にしわを寄せたまま、囁くように真幸に言った。
「思い出した? なにを!」
「駅前の大通りに、古い珈琲店があるんだ」
「珈琲店?」
優の言葉に、真幸は駅前大通りを思い浮かべた。
三車線の道路沿いにある駅前大通りは、いつまでも廃墟のような裏通りと違って、早々に開発が済んでいた。元は二車線の道路拡張に伴い、古い建物も撤去され、小奇麗な新しい建物が並ぶ。定規で線を引いたようなその光景は都会的で、だからこそ半端に取り残された裏通りが目立っていた。
――そう、古い建物は撤去されているのだ。大きなチェーンの珈琲店なら見たことがあるが、古い珈琲店は真幸の記憶になかった。
「通りの少し中に入ったほうにあるから、たぶん取り壊されてはいないと思う。昭和五十年くらいから創業している、本当に古い店だよ。あそこの珈琲の味を覚えているんだ」
「…………つまり?」
真幸は胡乱な声を優に向けた。優の渋い顔が、いつの間にか明るいものに変わっている。記憶を取り戻した――わけではないのだろう。
「珈琲飲みに行こう、真幸」
幽霊に珈琲は飲めないだろう。とは言わなかった。
ただ、心の中で「またか」と肩を落としただけだ。