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4-7

 暗闇の中で、男は階段を探しているらしい。階下から聞こえる足音に耳を澄ませながら、真幸はもう一度スマートフォンを取り出した。

「お、お父さん……?」

 口にしてみても、頭の中でその言葉は意味をなさなかった。『お父さん』という言葉は知っているのに、そこからどこにも結び付かない。真幸はスマートフォンを握りしめたまま、荒い呼気を吐き出した。

 ――お父さん。

 だけど真幸は片親で、母親しかいない。だからずっと、真幸は母のために家事を続けていた。お父さん。誰だろう。お父さん。いたはずなのに。思い出せない。頭が痛くなる。

「篠原さん、貸して!」

 あこが戸惑う真幸から、スマートフォンを奪った。それから、止めるよりも早く、真幸の電話帳を開く。

 そして、一つの番号を見つけると、ためらわずにそれを押した。耳にスマホを当て、コール音を待つ。コール二回。ガチャリと繋がった音がする。

「――――お義父とうさん!」

 あこは叫んだ。

「助けて! 駅前の再開発地区で、知らない人に追いかけられていて……篠原さん――――真幸さんと一緒にいるの! 場所は裏通りのビルの、わからない……看板がなくて……そう、事件現場の近くの、四階建ての廃ビルだわ。お義父さん、助けて……!」

 ――父?

 あこの父は亡くなっているはず。浮かびかけた疑問を、真幸はすぐに断ち捨てる。考える時間はない。真幸はあこの手を掴むと、再び駆け出した。

 階段を上ってくる足音が、静寂のビルにこだまする。


 ビルの階段を駆け上がり、上へ上へと逃げた先。

 ついに、真幸は逃げ道がないことを悟った。

 屋上へ上がり、鍵のない階段室の扉を抜けた先は、古いフェンスに囲まれた屋上だった。錆びた給水塔に、色の褪せたコンクリート。それから、名前も消えた朽ちたお社が一つ。

 お社の傍には、膝を抱えた青年が、一人。

「……優」

 青年に向けて、真幸はそっと声をかけた。

 ――ああ、そうか。ここが。

 真幸はビルを見回して、心の中で思った。ここは、優が落ちてきたビルだ。あの小さな社は、きっと優のいた場所なのだろう。だから、優との待ち合わせも、いつもこの場所だった。

「優。ここにいたんだ」

 後ろからは、男が追いかけてきている。逃げる場所もない。だけど真幸は、束の間、恐れを忘れた。妙に凪いだ空気が、非現実的だった。

「会いに来たよ」

 優に向け、真幸は囁くように言った。そんな状況ではないと、頭ではわかっている。それでも足は、勝手に優に向かう。

「そっちはだめ」

 足を踏み出した真幸を、あこが引き留める。つないだ手に力を籠め、彼女は泣きそうな顔で真幸を見上げていた。

「四ノ宮さん?」

「行っちゃだめ」

 でも、と真幸は思う。あそこに優がいる。そう、そもそも真幸は、優に会いに来たのに。

「篠原さん、あなた、憑かれているのよ」

 真幸は瞬く。憑かれている。

 そうなのかもしれない。怯えるあことは裏腹に、真幸は妙に冷静だった。冷たい冬の空気が頬を撫でる。心の中から恐怖が欠如し、優を見つけた安堵だけがある。

「あれはもう、悪霊と変わりないわ。私たち、おびき出されたのよ」

 あこは顔を上げ、優の姿を見やった。真幸も見る。

 優の周囲は、まるで黒い霧がかかったようにぼやけていた。うずくまった優の足元には、黒い泥のようなものが広がっている。優の周囲から、ぼこぼこと音を立ててあふれ出すのは、暗い、苦しい、溢れかえるほどにため込んだ『悪いもの』だ。

「あなた、殺されてしまうわ」

 震えながら、あこは首を振る。今の優は、『悪いもの』。人に害をなす存在だ。孤独を恐れ、真幸を求め、連れて行こうとしている。

 黒い泥は、優を中心にじわりじわりと広がっていく。まるで、屋上を埋め尽くそうとしているかのようにも思えた。

「あの男も、幽霊も……みんな、きっと『あれ』が呼び寄せたんだわ」

 今、真幸を引き留めるのは、あこの細い手だけだ。あこはそのために、真幸についてここまで来た。冷たい手が、真幸をこちら側に押しとどめるために。

 真幸はあこに振り返った。あこの手が真幸の思考を現実に引き戻す。今の状況の異常さが、彼女の手から伝わってくる。

 足が誘われている。階段室を離れて、優の元へ行きたい――無意識にそう考えている。でも、行っては駄目だ。あの泥に触れてはいけないと、本能が告げている。

「真幸……」

 泣きそうな声で、優はつぶやいた。

「僕には真幸しかいないのに」

 一度深く頭を膝にうずめると、優はそれからゆっくりと顔を上げた。

「忘れないで、傍にいて、覚えていて。一人は怖いんだ」

 上げた顔を、今度はゆっくりと真幸に向ける。

「真幸が好きなんだ」

 優、と声をかけようとして、真幸は一瞬ためらった。

 彼の顔が見えない。こちらを見ているのに、真っ黒に塗りつぶされたように、暗い。目も鼻も口もあるはずなのに、なにも見えない。

 誰も覚えていない、神様の顔だった。

「真幸は、僕のものだ。誰にも渡さない。逃がさない。こっちにおいで」

 ぞっとした。怖いと思っているのに、優から目が離せない。真幸を掴むあこの手が震えている。あこの手を払うと、真幸はまた一歩、階段室から離れて優に近付いた。

「篠原さん!」

 あこが慌てて真幸を追いかけた。次の瞬間、ガチンと固い音がする。あこは怯えた顔で振り返ったが、真幸は前を向いたまま。音だけを聞いていた。

 ガチャガチャと、ドアノブの空回りする音が響く。それからすぐ、苛立ったように扉を叩きつける音がした。

 鍵のない扉を、外側から誰かが乱暴に叩いている。金属を打ち合わせるような激しい音が、何度も響く。

「おいで、真幸。大丈夫、だいじょうぶ。こわくない。こわくないよ。僕を――――」

 何度も何度も。

 何度も何度も何度も何度も何度も。

「――僕を信じて」

 泥のような黒い影が揺らめく。同時に、階段室の扉が勢いよく開かれた。


 扉から転がり出てくるのは、二人の男だった。

 二人は取っ組み合いながら、屋上へ転がり込んでくる。一人はあの優男だ。手にナイフを持っている。ナイフには――血が付いている。

 もう一人は、真幸のよく知る人物だ。その顔を見て、真幸は息をのむ。見間違えるはずがない。

 真幸と少し似た、丸い顔。運動は得意だと言って、良く鍛えていた大きな体。自転車で、真幸とあちらこちらへ写真を撮りに出かけた。中学へ上がる真幸に、彼の秘蔵のカメラを譲ってくれた。真幸は喜んで写真を撮った。

 手の中のカメラが熱を持つ。ジジ、と音を立て、モニターがひとりでに光った。触れてもないのに、勝手に画面が切り変わる。壊れていたはずの写真データが再生される。

 映し出された写真を、真幸は見下ろした。路地裏の景色。今にも雨が降り出しそうな空の色。ゆっくりと、時が巻き戻るように、写真が再生されていく。

 写真は路地裏から町へ、人のあふれる表通りへ、そして。

 ――あの日。

 真幸は静かに目を伏せる。止まらない写真の『再生』。失われていたはずの記憶がよみがえる。

 あの日――真幸は写真を撮っていた。

 早足に歩きながら、町や空、人々に、裏通り、手当たり次第にカメラに収めていた。映す写真は、なんでもよかった。ただ、メモリを埋め尽くすほどたくさんの写真を撮りたいと思ったのだ。


『真幸、ごめんな』

 耳の奥に、申し訳なさそうな声がよみがえる。駅の近くにある、少し立派な洋食屋。一番高いケーキセットを真幸に押し付け、あの人は言った。

『もう、戻れないんだ。母さんも承知してくれた』

 真幸は言葉を聞きながら、ずっとカメラを握りしめていた。すがるように握るそれも、だけど彼から与えられたものだ。

 カメラの中には、ほんの半年前、家族旅行に行った写真が残されている。春の沖縄は暖かくて、父も母も水着で海に出た。カメラを向けると恥ずかしそうにしたので、調子に乗って何枚も、二人が揃った写真を撮った。

 真幸は知らなかった。このときには、もう、彼が母を裏切っていたこと。

『四ノ宮さんとの再婚は、真幸が卒業するまで待つつもりだ。それなら苗字も変わらなくて済むし……それに四ノ宮さんの娘さんも…………』

 彼は言葉を濁し、そのまま続きを口にはしなかった。二人で向かい合ったまま、長らく無言の時間が流れた。真幸は運ばれてきたケーキに口を付けなかったし、彼も注文したコーヒーを飲まなかった。カップの中で、ゆっくりと熱が冷めていく。

『……ごめんな。でも、離れていても、父さんは真幸の父さんだから』

 ――嘘つき。

 男なんて信用ならない。平気で裏切る。隠し通せるはずのない嘘をつく。

 高校二年生に上がった春。真幸はあこと知り合った。席が近いこともあって仲良くなり、一緒に遊んだりもした。あこの住むマンションに遊びに行って、帰りが遅くなったとき、父に車での送迎を頼んだことがある。

 あのとき。あのとき、あのきれいな人が――あこの母が見送りに立ち、父は車から出て挨拶を交わした。あれが、すべてのはじまりだった。


 恨みと、憎しみと、後悔が、あの日の真幸を突き動かしていた。楽しかったはずの写真を埋もれさせたくて、夢中で写真を撮っていた。

 だけど真幸には、写真を消すことはできなかったのだ。

 冷たい風が吹き抜けた。冷え切った指がカメラを握りしめている。真幸の記憶と共に、写真データの再生も終わった。モニターには、照れくさそうに並んだ父と母の写真がある。

 真幸の口から、細い息が漏れる。声が出ない。心臓の忙しない音が真幸の体に響いていた。

 目の前では、まだ二人の男が掴みあっている。

「うちの娘になにしやがる! ふざけるな!!」

 そう叫んで、彼は男を殴りつけた。相手の男は笑っている。殴られてもへらへらとした表情を崩さず、ナイフを振り上げる。

「……お」

 真幸の喉から、ひきつった声が上がる。口が勝手に言葉を吐き出す。ずっと忘れていた、憎くて憎くて、許せなくて、大嫌いで、それでも忘れたくない、大好きなひと

「――――お父さん!!」

 男のナイフが、父の肩を裂く。赤い血が視界にあふれる。見たこともないような鮮やかな赤色に、頭がくらりとした。

 父はうめき声を上げ、それでも男の服を掴んで離さない。男はいら立ったように、もう一度ナイフを握りなおした。

 ――だめ!

 声が出ない。体が震えている。でも、止めないと。真幸の手は、自分でも意識せずにカメラを操っていた。

 フラッシュが、屋上を一瞬だけ照らした。カシャリと事務的な音がする。それから、誰もが一斉に真幸に顔を向けた。

 真幸の手の中にはカメラがある。撮ったばかりの写真がモニターに映し出されていた。

「お父さんから……離れて……!」

 真幸はかすれた声を絞り出した。

「け、け……警察……! 警察、呼ばれたくないでしょう!」

 強張った手で、真幸はスマートフォンを取り出した。それを見て、男が表情を歪ませる。真幸の方が優先だと思ったのだろう。父を乱暴に振り払うと、男はゆらりと立ち上がった。

 反射的に足を引く。その足の感触が奇妙だった。底なしの沼に足を踏み入れたように、足元がおぼつかない。

 足元を見て、真幸は理解する。黒い泥の中に、真幸の片足が浸かっている。これより背後は闇なのだ。黒くて顔のない、忘れられた神がいる。真幸を手招きしている優がいる。

「行っちゃだめ、篠原さん……」

 あこは泣きながら、微かな声で言った。

「真幸、逃げろ……!! 真幸から離れろ!」

 父が叫んだ。

 男は薄く笑っている。

 ――逃げられない。

 真幸はこれ以上、下がることも進むこともできない。後ろには闇があり、目の前にはナイフを手にした男がいる。ナイフからは父の血がしたたり落ち、点々とした血の跡を地面に残した。

「真幸」

 聞き慣れた声が真幸を呼んだ。優の声だ。姿はないのに、耳元で聞こえる。

「真幸、大丈夫」

 冷たいなにかが、真幸に触れようとしてすり抜ける。真幸の体を、何度も冷気が往復する。まるで、実体のない手が、真幸を掴もうとしているかのようだった。

「僕を信じて」

 ――優。私は……。

 ぐ、と真幸は唇を噛みしめた。涙目の顔を上げると、大きく息を吸い込む。

「私は」

 男が近づいてくる。冷たい気配が背中にある。どちらも危険な、深い闇のようだった。

 ――でも。

「私は優に会いに来たんだ」

 真幸はずっと、幽霊の彼と一緒に過ごしてきた。言葉を交わし、町を出て、色んなものを見て、怒って、騒いで、楽しかった。真幸のために、記憶を取り戻そうとしてくれた。

 怖くないわけではない。頭の奥では警鐘が鳴り続けている。この先はいけない。踏み込んではいけないと。

 ――それでも。

 神様なんて知らない。『悪いもの』かも知らない。

 真幸は知っているのは――飄々として腹立たしい、真幸の記憶を消してしまった、真幸にとっての辛い時間を、ずっと一緒に過ごしてくれたのは。

 ただの、はた迷惑な悪霊の『優』だった。

「私は『優』を信じてる」

 真幸は言い切ると、大きく一歩足を引く。足元のおぼつかない、暗い泥の中に踏み込む。視界すらも闇に染まるような暗闇の中に体を預ける。

「真幸」

 冷たい手が伸びてくる。いつか夜景を見たとき、真幸をすり抜けたのと同じ手だ。その手を、真幸は。

 握りしめた。

 確かな感触がある。真幸の手を包み込む、大きな男の人の手だ。体温はなく、冷たく、決して逃れられない強さがある。

「おいで真幸。僕は君が好きなんだ。だから」

 真幸を掴む手が、ぐい、と真幸を背後に引っ張った。体が後ろに傾き、闇の中へ飛び込んでいく。

 あこが悲鳴を上げた。男がこちらに向かってくる。父が止めようと手を伸ばすが、間に合わない。

「僕が、真幸を傷つけたりするもんか」

 真幸の体を、冷たい手が抱き留めた。顔を上げれば、黒い闇の中で目を細める優がいる。カメラ越しではない。背景も透けてはいない。暗い泥の中に、確かに優は立っていた。真幸を見て、いつもみたいに優しく微笑みかけている。

 ああ、と真幸は理解する。この手の強さは、きっと、優への信頼だ。

 真幸が信じるから、優は『優』としてここに存在する。少しずつ輪郭を持ちはじめ、形を得、今は真幸の肩を支えてくれている。

 傍から見れば、非現実的な光景だった。どこからか流れ出る黒い泥。霧のような闇。どろりとした暗闇の中に、端正な男が立っている。あこが息を呑んだ。父も、ナイフを握る男さえも、みんな優の姿に目を奪われている。

 ――見えているんだ。

 優の姿も、この黒い泥も。泥がゆっくりとその範囲を広げていく様子も。

「ゆ、優……!」

 屋上を埋め尽くす泥に、真幸は思わず声を上げた。泥には感覚がなく、ただ冷たく、鳥肌が立つような不気味さだけがあった。

「大丈夫。君が信じてくれるなら、僕は神様にもなれる」

 優はそう言って、安心させるように真幸の手を握った。それから、顔を前に向ける。

「僕がとったものを返してあげないと」

 優の視線の先にいるのは、あの男だった。男の足は、もう泥の中にある。驚いた顔で男は自分の足元を見ているが、その場から動く気配はなかった。

 いや、違う。泥から逃げようという様子で、男は身じろぎをしていた。足を引き抜こうとしているのだろう。片足に力を込めるが、持ち上がらない。

 原因は、すぐにわかった。黒く染まった泥の中から、同じくらい黒い色をした手が伸びている。あの手はなんだろう。ごつごつとした、男の――。

『……恵子』

 ――あれは。

 優の吸った、『悪いもの』だ。

 娘の名を呼び、嘆く父の心だ。

 父親の手が、どろりとした闇を纏って男にまとわりつき、足元から這い上がり――首筋に手をかける。

 男は悲鳴を上げた。もがくように暴れて、夢中でナイフを振り回す。黒い手を振り払おうとナイフを突き刺すが、空を切るだけだった。

『恵子、お前を守れなくて――』

 泣きそうな声を上げ、黒い手は力を込める。男は顔を恐怖に歪め、声を張り上げ――そして、声を失った。すべての力を失ったように、男はその場に膝をつき、倒れた。

『――すまなかった』

 すすり泣きがかすかに響いた。その音が少しずつ薄れていく。屋上を満たす黒い泥も、後悔にまみれた父親の手も。いつしか見えなくなっていた。

 奇妙な沈黙が流れる中、真幸は無意識に顔を上げた。どうしてそうしようと思ったのかわからない。なにか、誘われるように、階段室の上へと目を向けた。

 少し日の傾き始めた、冬の寒空。陽光を背にして、薄手のワンピースの女性が、そこに立っていた。

「――お父さん」

 彼女は真幸を見やると、どこか寂しそうに微笑んで、そのまま幻のように消えてしまった。


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