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4-6

 翌土曜日の正午。人で混み合った駅前を、真幸はいつものようにカメラを首から下げ、いつもと異なり、あこと並んで歩いていた。向かう先は、優のいる再開発地区。多くのテナントが撤退した廃ビルの奥だ。

「私、なんで彼が篠原さんに憑いたのか、わかるわ」

 人の少ない方へと歩きながら、あこは独り言のようにそう言った。

「篠原さんは、ちゃんと『彼』を見てくれるもの」

 真幸は横目で、隣を歩くあこを見た。彼女は厚手のコートを着てもなお、寒さに身を縮めている。首はぐるぐるにマフラーを巻き、長い髪を巻き込んでいた。鼻の頭は寒さに赤らみ、口からは白い息を吐き出している。少し俯いた視線は、見えない誰かを羨んでいるようだった。

「きちんと正面を向いて、見ていてくれるの。だから彼は、彼でいられたんだわ」

 記憶を失くした幽霊のために、何度も何度も会いに行くことも、幽霊を一個人として認識することも、めったにできることではない。たいていは逃げ出すか、化け物扱いだ。

「彼にとって、あなたが唯一の氏子なのね」

「……別に私は、優を神様と思っているわけじゃないよ」

 真幸はポケットに手を入れたまま、あこに不服を唱えた。

「でも篠原さんは、彼を認めて、覚えていてくれるでしょう?」

 む、と真幸は口をつぐむ。

「あなたが彼を『優』にしたのよ。神様でもなく、幽霊でもなくって、一人の男の人にしたの…………きっとね」

「そんなものなのかな」

「認められるのはうれしいものよ。周りのもの全部取っ払って、自分だけを見てくれるのが、うれしいの」

 あこは羨むように息を吐く。周囲には人の姿は減り、看板のないビルが増えていく。再開発地区の通りは、もうすぐそこだ。顔を上げて行き先を確認する真幸の横で、あこは聞き逃しそうなほど小さな声で囁いた。

「…………だから私は、あなたと友だちになりたかったの」

 真幸は一瞬、聞き間違いかと思った。

 横を見れば、あこはうつむいている。何事もないような顔で、足元を見つめていた。

「なりたいじゃなくてさ」

 真幸は少しためらってから、言いにくさを噛みしめつつ口を開く。

 あこはずっと、苦手だった。趣味も合わないし、こういうきっかけでもなければ、話をすることもなかった。

 だけど機会を得た。あこへの苦手意識は抜けないけれど、真幸はあこがどんな人間かを知った。理知的で、親切で、どこか臆病な彼女のことが、今の真幸は――好ましいと思う。

「待ち合わせして、休みの日に会って――――こういうの、友達じゃないの?」

 はっとしたように、あこは顔を上げた。思わずと言った様子で足を止め、真幸を窺い見る。深く息を吸い、ゆっくりと瞬きをする。わずかにだけ頬を緩めかけ――だけど彼女は、すぐにしかめてしまう。

 その表情は、どこか泣き顔に似ていた。

「…………ありがとう、篠原さん」

 でも、とあこはつぶやく。

「たぶん、篠原さんの記憶が戻ったら、そんなふうに言ってもらえなくなるわ」

「うん?」

 立ち止ったままのあこに、真幸は眉を寄せた。彼女のかすれた声に滲むのは、たぶん、後ろめたさだ。真幸への――罪悪感だ。

「私ね――言おうか迷っていたんだけど――たぶん、篠原さんの失くした記憶がなにか、知ってるんだ」

「えっ……」

「でも、怖くて言えないの。そうしたら、もう絶対に、篠原さんは私に声をかけてくれなくなるから」

 ――どういう意味?

 真幸の疑問に、あこは答えない。それ以上はなにも語らず、彼女は再び歩き出した。真幸さえも追い越し、早足で進む彼女を、真幸は慌てて追いかけた。

 再開発地区の裏通りに入る。人通りは、もう全くない。静まり返った廃ビル群が昼の駅前に影を落とし、空気を一層寒くさせた。

 優のいる路地裏までは、あと少し。


 あこが再び口を開いたのは、優のいる路地裏への入口が見えてくるころだ。ビルとビルの通用路を抜け、しばらく進んだ先の空き地に、いつも優がいるはずだった。

「篠原さん、彼と会う場所って、袋小路?」

 あこは足を止めず、前を向いたまま言った。ひどく強張った声だった。

「ええと……ビルの階段くらいしかないから、袋小路って言えるかも」

「道変えましょう。表通りに戻るの」

「えっ」

 いぶかしむ真幸の手を引いて、あこは足を早めた。どうしたのか、と聞こうとする真幸を、あこは目で制する。

「付けられてるわ」

 真幸は目を見開いた。早足で歩くあこを追いかけながら、まさかという思いでそっと背後に目を向ける。

 人の気配は、真幸にはわからなかった。だけど、明確な異変が一つ。

「し、四ノ宮さん――――カメラが」

 カメラから、泥のような黒い液体があふれている。歩くたびに、足元にべちょりと垂れ、点々と真幸の道筋を残していた。

「やっぱり、原因はそっちなんだわ」

「原因って」

「私、どうして彼が篠原さんのデータを消したのかと思ってたの。記憶を消すだけなら、カメラは放っておいてもいいはずなのに」

 あこは、優の元へ向かうはずの道を外れ、一つ前の道で右折した。もう二回右折すれば、元の道に戻れる。そうすれば、来た道を戻って大通りへ帰ることができるだろう。

「篠原さん、彼と出会ったのっていつだったっけ」

「だいたい三か月前――九月の、半ばくらい」

「その頃、事件があったでしょう」

 真幸は頷いた。この近所では、ちょっとした騒動になったのだ。

 遺体遺棄事件。いつだったかの喫茶店で、女性たちが大声で話していた事件だ。若い女性が殺されて、この裏通りに捨てられていた。犯人は見つかっておらず、警察は今も捜査中だとか。

「たぶん篠原さんは忘れているけどね。篠原さんが彼を見つけた日に、私も篠原さんと会っていたのよ――正確には、私の…………親と、篠原さんが」

「覚えて……ない」

 なにも覚えていない。優と出会った日は、真幸は写真を撮っていた。それしか思い出せない。

「篠原さん、カメラを持っていたわ。うちを出ていくときも。……篠原さん、彼と会う前に写真は撮った?」

「……撮ってた。たくさん撮ったよ」

「路地裏の写真も?」

 うん、と真幸は頷く。それこそ、メモリを埋め尽くす勢いで撮っていた。写るものの精査なんてしなかった。やたらめったら、あてずっぽうに――自棄になっていたように思う。

「その時に、いけないものが写ったのよ、きっと」

 いけないもの。つぶやく真幸をよそに、あこはまた右折する。

「誰かの『悪いもの』。神様が悪意を誤認するくらい、悪いものが写ってしまったんじゃないかしら」

 あこははっきりとは言わないが、『悪いもの』がなにを指すのかは、真幸にも想像することができた。

 ――事件現場の写真。

 死体が写ったか、犯人が写ったか。強烈な悪意のこもったものが、写り込んでしまったのだ。だから優は、その写真を消してしまった。カメラのデータごと――真幸の記憶ごと。

「篠原さん自身が抱いた感情も、彼にとっては『悪いもの』だったんだと思う。だけど、その二つを結びつけてしまったのは、きっと失敗だわ。本当の『悪いもの』の方は、まだ残っているんだもの」

 もう一度あこは右折する。これで三回目。このまま、まっすぐに行けば元の道に戻れるはずだ。そうすれば、来た道を戻り大通りへ出ることができる。

「じゃあ、追いかけてきているのは……」

「たぶん、篠原さんが写してしまったものだわ。強い悪意を、その感情のまま実行してしまうような、本当の『悪いもの』。彼は、他の『悪いもの』は吸い取っても、あれだけは逃げるように言ったんでしょう?」

 悪意ですらない。悪そのもの。優は真幸にそう言った。あれは、僕の手に負えないと。

「人が抱くような悪意じゃないんだわ。生まれついての性質みたいな、誰かに悪いとも思わないような、悪。そういうものなのかもしれない」

 道の先に、T字路が見えてきた。元の道が見える。あともう少し歩けばいいだけだ。

 真幸の足が少し早くなる。

 だが、道の先に誰かの人影が見えたとき、真幸は足を止めた。

 女性の姿だった。今時分寒そうな格好をした、薄手のワンピースの女性。首を振り、大きく手を振って、なにかを訴えている。

 その姿に、真幸は見覚えがある。アンティークショップで、ファストフード店で、その店の外で。三度出会い、三度とも――。

 ――同じ格好をした女性だ。

「――――こっちに来ちゃ駄目!」

 女性の声が届いた瞬間。真幸はあこの手を掴み、身をひるがえした。

 誰かがT字路の影から踊り出したのは、ほぼ同時だった。


 路地裏をめちゃくちゃに走るほかになかった。あこの足は、真幸よりも遅い。普通に走っては追いつかれてしまう。

 だから真幸は、細い路地に飛び込むと、目についたビルの入り口に飛び込んだ。そのすぐ後に、息を切らせた男が走り過ぎる。

 その顔に、見覚えがあった。

 殺してやる――そう言われていた優男だ。

 彼は真幸たちに気が付くことなく、ひとまずは通り過ぎてくれる。彼の走り去った後、どろりと重たい泥が、道を作っていた。真幸は、自身のカメラから溢れ出るものと、あれが同じものだと直感した。

「ご……めん、私……あし、遅くて……」

 あこが息を切らせながら、喘ぐように言った。あまり運動が得意なタイプではないらしい。彼女を連れて、どうやって逃げ出せばいいだろう。頭の中でぐるぐると考えるが、浮かばない。

「だ……だれか……連絡、助けを呼ぼう」

「そ、そうだね、ええと、け、警察……!」

 震えながらスマートフォンを取り出しかけ、真幸はすぐにしまった。

 ――古びたビルの一階。窓からこちらを覗き込む男の姿に気が付いたのだ。

 あこの手を引くと、すぐに振り返らず走り出す。

「こっち!」

 女性の声が、真幸に逃げ道を誘導する。必死に走る真幸の目には、角を曲がる女性のワンピースの裾だけが見える。迷わず、真幸はそれを追いかけた。

「ビルを上がって! 屋上まで! そこに『彼』がいるわ!!」

 女性のワンピースは、ひとつの古いビルに消えていく。自動ドアは開いたまま、看板もない。薄汚れた廃ビルだ。

 背後からは足音がする。ためらう暇はなかった。真幸はあこを引きずるようにして、無理矢理ビルの中に飛び込む。

 ビルの中には、消えて行ったはずの女性の姿はない。電気も途絶えたビルの中。目に映るのは暗闇に続く廊下と――――そこだけぼんやりと光る、二階へ続く階段だ。

 あそこへ行け、と言うように、真幸の背中を誰かが押す。だけど背中には誰もいるはずがない。あこは真幸に手を引かれ、隣で荒い息を整えているところだ。

 休んでいる暇はなかった。疲弊しきったあこを促し、真幸は階段へ走る。階上に、真幸を促すワンピースは、もう見えなかった。

 代わりに、背後から悲痛な声がする。

「電話をして! 私はできなかった――――お父さんに、助けてって、伝えて!」

 ――――お父さん。

 それから少しして、女性の悲鳴が上がる。まるで――まるで、殺されたかのような、断末魔だった。


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