4-5
あことは月宮神社の入り口で別れた。
すでに母は車で迎えに来ていて、真幸にすぐに帰るように促した。あこと真幸の母の間に会話はない。ただ、無言で会釈を交わしあっただけだ。
家へと向かう車の中、母は真幸に問いかけた。
「真幸。四ノ宮さんと仲良いの」
「…………そこまででもない」
言ってから、真幸は訂正するように付け加えた。
「普通」
苦手意識があった。学校でも避けていた。真幸とあこは好みも異なる。こんなことがなければ、会話をすることもほとんどなかっただろう。
だけど、こんなことがあったからこそ、真幸はあこのことを知った。幽霊や神様を信じる、変なところは噂通り。そのくせ妙に現実主義で、理屈っぽい。話してみれば親切で、誰も信じないであろう真幸の相談も、真面目になって聞いてくれた。
「普通に、いい子だと思うよ」
「そう」
母は短くそう言うと、今度は真幸の手の中にあるカメラを一瞥した。
「まだ、そのカメラを持っているのね」
「うん」
真幸の母に、カメラの趣味はない。洒落たことの一つもせず、カメラばかりの真幸を、彼女は理解してくれてなかった。特に、真幸が今手にしているカメラを、母は快く思っていない。それで少しの間、カメラを置いたこともあった。
真幸はカメラを撫でる。貰い物のこのカメラは――ならば、誰からもらったのだったろう。
耳元で声が聞こえたのは、ぼんやりとそう考えているときだった。
――真幸。
カメラがじわりと熱を持つ。カメラの電源が勝手に入り、モニターに写真が再生された。驚いて体を強張らせる真幸に、運転する母は気がつかない。青に変わった信号を見やり、アクセルを踏んでいた。
――真幸、行かないで。
カメラに映るのは、かつて路地裏で優を映し、心霊写真となった写真データだ。見慣れた路地裏に、人型のぼやけた歪みだけがある写真に――――今は、優が映っている。
優は、モニターの中から真幸を見つめている。
――僕を一人にしないで。
声はどこから聞こえているのかわからない。母は前を向いたままだ。彼女には聞こえていないのだろう。
――置いて行かないで、傍にいて、離れないで。
優――口からその言葉が出かけて、真幸は口をつぐんだ。あこから言われたばかりだ。見えていなふり。気がつかないふり。反応を返さず、無視をするように、と。
――僕は君を傷つけない。
写真が切り替わる。撮ったはずのない優の写真が、モニターの中にいくつもある。そのすべてが真幸を見ている。苦しそうな、泣きそうな顔だ。
――信じてほしい、真幸。僕は君が好きなんだ。
次に切り替わった写真の中の優は、こちらに向けて手を伸ばしていた。同時に、ひやりとしたものが真幸の頬に触れる。手のひらの感触だ。指の先が、真幸の輪郭を撫でる。
だが、感触は一瞬だった。バチン、とはじけるような音とともに、カメラの電源が落ちる。黒いモニターには、青ざめた真幸の顔が映るだけだ。
はっとして、真幸はポケットに手を当てた。貰ったばかりのお守りを引っ張り出す。「厄除け祈願」と書かれたお守りの文字は、焦げたように黒ずみ、読み取れなくなっている。
――真幸、せめて。
カメラが消えるとともに、声もまた遠ざかる。遠く、置いて行かれるような声が、真幸の耳に消えた。
――僕を、忘れないで。
「…………優」
冷たいカメラに向け、真幸はかすれた声でつぶやいた。信号で止まった母は、そこで初めて、カメラを見つめる真幸に気がついたようだ。
「そのカメラ、新しいのに買い替えなさい。買ってあげるわ」
彼女は淡々と真幸に告げると、以降は黙って運転を続けた。
〇
それから、真幸は優に会っていない。
カメラはずっと沈黙したままだ。真幸は優のいる路地裏にも向かっていなかった。
優に会いに行かないのは、あこに言われたからだけではない。
今の真幸には、どうやって優に会えばいいのかわからないからだ。彼に奪われた記憶の重さが、怒りと恐怖をないまぜにして、真幸の足を遠ざけた。
これまでも、優に会わない日はあった。まっすぐに家に帰る日は、母のために家事をする。真幸は母と二人暮らし。八時を過ぎるまで帰ってこない母のため、洗濯物を取り込み、夕食を作り、風呂を沸かす。それから、翌日の弁当を用意して待つのが、真幸の日常だ。
優に会わなくなってから、もう十日ほど過ぎた。
二人暮らしには、少し広いマンションの一室。真幸は一人で洗濯物を片付けていた。ひどく静かな部屋の中、淡々と二人分の衣服をたたむ。誰もいない家も、すっかり慣れたものだった。
料理も慣れた。放課後に、誰とも遊ばずに帰ることも慣れた。母が帰るまでの時間、冷たい家の中で過ごすことも慣れた。
慣れていたはずだった。
真幸は母のブラウスを手に、息を吐き出した。部屋の広さが寒々しい。一人でする家事は、妙に静けさを強調する。鍋を沸かす音さえも、空虚に響いた。
――今までは、どうしていたんだろう。
身をすくませるような静けさも、肌に触れる冷たさも、真幸はどうやって耐えていたのだろう。母が家にいるときはよかった。今でこそ二十時過ぎまで働く母も、昔は真幸が帰るまでには家にいた。真幸が帰ってきたら料理があって、風呂が沸いていて、洗濯物を片付けることもなかった。
でも、あるときから母の帰りが遅くなり、家事は真幸の仕事になった。仕事以外にも、母には頭を悩ませることが無数にある。真幸は母の苦労を窺い見て、知っている。彼女は何度も、真幸に「ごめんね」と謝った。真幸はそれが辛かった。
「……優」
ブラウスの袖を折りながら、真幸はその名を呼んだ。
優と会っているときは、いつも帰りが二十時近かった。母が戻るまでに慌てて家事をしている間、忙しなさに余計なことを考える間もなかった。彼に腹を立て、どうしてやろうかと考えている間、真幸は悩まなかった。
優はカメラにしか映らないから、母がどんな顔をしても、カメラを手放さなくなった。写真を撮るのは楽しかった。優と一緒に町に出て、いろんなものを見て回るのは――――楽しかった。
優は真幸が辛いとき、いつも一緒にいてくれた。
なのに、真幸は――『また』、あんな別れ方をしてしまった。
〇
翌日の放課後。真幸は帰りがけのあこを呼び止めた。
「四ノ宮さん」
まだ教室には、生徒が無数に残っていた。彼らは、真幸があこに声をかけたことに、少なからず驚いているらしい。あこはいつだって一人だし、真幸はずっと、彼女を避け続けていたからだ。
「あの、これ、やっぱり返すね」
周囲の目を気にせず、真幸は言った。これ、と言いながらあこに示すのは、彼女からもらったお守りだ。
「せっかくもらったのに、悪いけど。……あと、ちょっと痛んじゃってるけど」
真幸は申し訳なさに肩を小さくする。厄除け祈願の文字が消えたお守りは、もらってからずっと肌身離さず持っていた。そのせいか知らないが、真幸は月宮神社の帰り以降、優の気配を感じたことはない。
あこは真幸からお守りを受け取ると、眉をしかめた。消えた文字を指で撫で、口元をゆがめる。
「私、もう一回優に会いに行こうと思うんだ」
「篠原さん……本気?」
「うん」
真幸は頷く。顔には知らず、苦笑が浮かんでいた。
「やっぱり、忘れられそうにないから」
「なにしてくるかわからない相手よ? お守りもこんなになって……あなた、連れて行かれちゃうかもしれないのよ」
「うん。…………でも、そうじゃないかもしれないし」
あこが心配してくれていることを、真幸はよくわかった。たしかに、彼女と最後に見た優は怖かった。黒く塗りつぶされた闇のようだった。触れた手は冷たく、捕まれば二度と戻れないような気がした。
だけど真幸は、それ以外の優を知っている。
真幸とともに町を歩き、笑って、困らせて、困らせられた。真剣な顔も、はぐらかすような顔も見ていた。
優は忘れられた神様なのかもしれない。『悪いもの』を取り込みすぎた、『悪い神様』かもしれない。
真幸は優の本当の名前を知らない。記憶を失くす以前の彼も知らない。
それでも真幸は彼を知っている。
真幸は、『優』を覚えている。
「このまま別れたくないの。前に一回、同じことしたから」
「……篠原さん」
「前にも、ひどい別れ方をしたことがあるの。思い出せないんだけど――後悔だけはしてる。もう二度と会えなくても、このまま会わなくなるのでも……忘れるんじゃなくて、ちゃんと『さようなら』をしたい」
あこは息を呑むように真幸を見つめた。何か言いたげに口を開き、悩むように視線を伏せ、泣き出しそうにくしゃりと顔をゆがめ――――最後には、深く息を吐き出した。
「…………会いに行くの、いつ?」
「今度の土曜日にしようかな……って思ってるけど」
ここ最近、日暮れに不審者が出没すると言う話がある。日の暮れが早い冬。放課後に治安の悪い路地裏に行くのは、真幸には抵抗があった。もっとも、真幸が会いに行くのはもっと危険な相手かもしれない。それでも、避けられる危機は避けたかった。
「私も行く」
あこの言葉に、今度は真幸が驚く番だ。「えっ」と思わず口を突いて出る。
「だって、一人で行かせられないもの」
「危ないかもしれないんだよ?」
「だからこそ」
あこは真剣な顔で真幸を見やる。返されたお守りをぎゅっと握り、強く頷いた。
「なにかあっても、二人なら逃げられるかもしれないわ。もちろん、篠原さんが嫌じゃなければだけど……ついて行っても、いいかしら」
「嫌じゃないよ」
真幸は首を横に振った。反応を窺うあこの恐れを消すようにしっかりと告げる。
「一緒に来てくれるなら、うれしい。ありがとう」
真幸の言葉に、あこはどこか、寂しそうに微笑んだ。