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4-4

 あこに手を引かれ、辿りついた先は、駅の近くの大きな神社――あこの祖父が務めるという、月宮神社だった。

 駅から徒歩十分。ファミレスからは徒歩五分。再開発で土地がひっくり返されて行く今も、この神社の周囲だけは時が止まったように変わらない。

 神社を取り囲むのは、ケヤキから成る雑木林だ。今は枯れ、寒々しい裸の枝の覆う雑木林の入り口を、『月』宮神社の名のとおり――狛兎が見張っている。

 真幸にとっても、この神社は見慣れた場所だ。地元では、参拝といえばこの神社であり、夏祭りや初詣もだいたいここへ来る。真幸の家からは少し距離があるため、遅くまで遊んで親に車で迎えに来てもらったことも、一度や二度ではなかった。

 狛兎の横を通り抜けると、あこは足を止めた。走っていたのはほんの五分程度だが、あこは荒く息を吐き、ぐったりと兎の像に体を預けた。

「ここまで来れば、ひとまずは大丈夫のはず」

 像越しに外を覗き込み、あこは喘ぐように言った。もともと体力のない彼女だが、疲労感はそれが原因ではないのだろう。青ざめた顔が、恐怖を滲ませていた。

「ここなら、神様が守ってくれるはずだから」

 言われて、真幸は無意識に首から下げたカメラに触れる。カメラの熱はもう消えて、冷たくなっている。だが、真幸は安堵の息すら吐けなかった。胸の奥が震え、頭は混乱に揺れている。

「優…………」

 置いてきてしまった。泣きそうな顔が、頭に残っている。それが、彼への恐怖なのか、恨みなのか、あるいは後悔なのか。それすらも今の真幸にはわからなかった。

「篠原さん、あなた大変なものに憑かれていたのね」

 入り口から目を逸らすと、あこは真幸に苦い顔を向けた。

「あんなの、幽霊なんかじゃないわ」

 真幸は立ち尽くしたまま、あこに目をやった。

「……じゃあ、優はなに」

 幽霊の優。真幸はずっとそう思っていた。記憶を失くし、路地裏をさまよう地縛霊のたぐい。なにか未練を残して、現世をさまよっているだけの、ただの死んだ人間だと信じていた。

 ――だけど、もしかしたら本当は、気がついていたのかもしれない。

 あこは幽霊を『電気』と言った。強い思いが電気信号として残り、周囲に影響を及ぼしている。静電気のように、電気の影響を受けやすい人間もいれば、受けにくい人間もいる。それが幽霊で、霊感ではないのか、と。

 優は体がないだけで、普通の人間みたいだった。思考は飛び、移り変わり、揺れる。強い思いが発した単純な電気信号というには、あまりに複雑すぎるのだ。

 あこは真幸の視線を受け、少しだけためらっていた。悩むように口元に手を当て、そっと告げる。

「わからない、けど」

 あこの理知的な視線が迷う。理屈っぽい彼女が、優の存在を前にひどく揺らいでいる。

「今の理屈じゃ説明できない存在なんだわ。人間や幽霊みたいに、私たちと同じ高さにいないの」

 人間ではない。幽霊でもない。理屈を超越した存在。あこの口は、神妙に、かみ砕くようにゆっくりと告げた。

「たぶん――――たぶんだけど……私にはあれが、神様に見える」

「……神様」

 繰り返す真幸に、あこは頷いた。

「『悪いもの』ばかりを吸い込んで――自分を失くした神様なんだわ」

 真幸は目を伏せた。手の中のカメラは冷たい。真幸を掴んだ時の、優の手のように。


 立ち話もなんだから、と言って、あこは真幸を神社に招き入れた。

 石畳の境内を抜け、拝殿の手前で折り曲がると、神社内部の人間しか入れないような、古びた二階建ての建物に入る。

 雑木林の影に隠れた、一見すると社の一つにも見えるその建物は、おそらく社務所か何かなのだろう。一階には和装の人々が数名で事務仕事をしており、あこの姿を見かけると、「おかえり」と声をかけてきた。あこは彼らに軽く返事をすると、真幸を二階に導いた。

「私、ここに住んでいるの」

 昔ながらの急な階段を上り、ぎしぎしと音のする板張りの廊下に面したふすまを開けて、あこがそう言った。ふすまの奥は六畳一間で、古いサッシの窓が見える。風で揺れる木々が窓をコツコツと叩き、隙間風が吹き込んでいた。

 部屋の中には、ちゃぶ台と箪笥と本棚。本棚には参考書が詰まっている。祖父母の家でも見ないくらいに、古く寂れて見えた。

 二階には、他の部屋は見当たらない。ふすまの反対側は窓になっているし、廊下の突き当りには、小さな扉がついているだけだ。扉の先は物入れになっていて、古いガラクタが詰まっていたはずだ。

「…………一人暮らしなの?」

「そ。というより、居候かしら。私、ママと大喧嘩して家出中なの。それで、おじいちゃんに頼み込んで、部屋を借りたのよ。ここ、パパのおじいちゃんの神社だから」

 躊躇する真幸をよそに、あこは慣れた様子で部屋に入ると、隅に積まれた座布団を二枚引き出した。

「適当に座って。家族は誰もいないから大丈夫。パパの実家には、ママは近寄れないの」

 あこの声音は明るいが、わざとらしさは隠しきれない。真幸を気遣うように窺い、目が合うとばつが悪そうに、慌てて顔をそむける。親しもうとしながらも、よそよそしい彼女の態度に、真幸は眉をしかめた。

 あこの家庭事情は、真幸も噂で聞いたことがある。父親はすでに亡く、母親と二人暮らしをしていたはずだ。その母親の方に悪評があり、あこは高校で避けられていた。

 水商売だとか、男に色目を使うだとか、服装がとても母親らしくないとか。あこの母だけあって、なまじ美人なだけに、その噂は妙な信憑性を持って伝わっていた。

 込み入った家庭事情に気後れしつつ、真幸はあこの誘うまま、部屋に足を踏み入れた。

 ちゃぶ台前に用意された座布団に座ると、あこは電気ストーブを近くに引き寄せながら、向かい側に腰かけた。

 電気ストーブの電源を入れると、あこは「さて」と改めたように言った。

「これからどうする?」

「どう……って」

「彼のこと。このまま外に出たら、また見つかっちゃうわよ」

 真幸は目を伏せた。隣で電気ストーブが音を立てているが、部屋を暖めるには力不足だ。真幸は寒さを耐えるように、両手をぎゅっと握りしめた。

「……優は、どうなったの?」

 うつむいた視線が、畳に落ちた影を見つめる。思い出されるのは、ファミレスでの彼の姿だ。

 泣きそうな優の顔と、真幸に伸ばした手。それが暗闇めいた黒に変わる。まるで優自身が――――『悪いもの』みたいに。冷たく、寒気がして、飲み込まれてしまうような気がした。

 だけど考えてみれば、彼はずっと、人の心を飲み込み続けてきた。真幸の大切な記憶も、曾祖母への孫の気持ちも、大好きなかわいいものへの愛も、娘を失くした父親の心も。

「……神様は、良いものばっかりじゃないわ」

 あこは言葉を選ぶように、真幸にそう言った。

「怖いものや、人に害をなすものも神様よ。それをあがめて、称えて、鎮めているの。きちんと敬っているうちはいいけど、それを忘れてしまえば、神は祟りもする」

「祟り……」

「彼がそういう神様かはわからないけど――でも今は、彼は『悪いもの』だわ。だって、『悪いもの』を吸い取りすぎて、吐き出してなかったんでしょう?」

 食当たりみたいなものだわ――あこはそう言って首を振った。

 真幸は想像する――真幸の見てきた彼は、何度も他人の『悪いもの』を吸い取り続けてきた。暗い感情は苦しい、辛い、悲しいから。「かわいそうに」と言って、当然のように奪ってきた。

 『悪いもの』を清めて返すのは、神様の仕業だ。もしかしたら昔は、優も人々に祀られて、きちんと神様の役目を果たすことができたのかもしれない。だけど今の優は、自分がなぜ『悪いもの』を吸うことができるのかも知らない。それどころか、自分自身が何者かさえもわからない。

 だから今の優は、溜めるばかりだ。他人の悪意を身の内に抱え続けた彼は、いつしか――彼自身まで『悪いもの』になってしまった。

「どうにかできないかな……」

 こぼれるような真幸の言葉に、あこは複雑な表情を向けた。同情と、心配と――それだけではないなにかがある。

「……まあ、どうにかしないといけないのは確かだわ。彼、篠原さんのことお気に入りみたいだから、今のままじゃいずれ捕まって、連れて行かれちゃうかもしれないわ」

「連れて行かれるって」

 真幸は顔をしかめた。耳に優しくない響きだ。優の冷たい手を思い出し、真幸はひやりとした。あのまま彼の手に捕らえられていたら、真幸はどうなっていたのだろう。

 ――優は私を、どうするつもりだったのだろう?

「だから、その前に対処しないと。神社ここにいる間はいいけど、外は保証できないもの」

 風が揺れ、木々が窓をコツコツと叩く。外を見やれば、すでに日が傾き始めていた。今日は休日。真幸の母が家にいる。あまり遅くなるわけにもいかない。

「対処って、なにをするの?」

 真幸が尋ねると、あこは渋い顔をする。どうにかしないと、とは言っても、問題はなにをどうすればいいのかがわからないことだ。

 幽霊であれば、あこの知識の届く範囲だ。お祓いでも何でもできるかもしれない。だが、神となると――――。

「ねえ、四ノ宮さん」

 ふと、真幸はあこに呼びかけた。神、神と言っていたが――そう言えば、気になることがある。

「そもそも――――優はなんて神様なの?」

 あこは瞬いた。それから、ああ、と声を上げると、真幸の手を引いて立ち上がった。


 月宮神社の歴史は長い。古くは、平安時代から存在するという。主な御祭神は天照大神だが、神社の名前から月に対する信仰も強い。ゆえに、あちらこちらに月の使徒である兎の姿があった。

 歴史の分だけ、神社には古い資料も残っている。特に、地元に根付いたこの神社は、土地の資料が多い。昔の神社や、社の位置の記載された地図も、どこかにあるはずだった。


 一階の事務所で、真幸とあこは地図を睨んでいた。

 神社に勤める事務員が、真幸たちに茶と菓子を出してくれる。あこが友人を連れてきたことが珍しいのか、彼らは少しそわそわしていたようだった。

 そうして、二、三時間も経った頃。

「――――わかんないわ」

 出された茶請けのアラレを齧りつつ、あこは音を上げた。

「それっぽい神社はいくらでもあるけど、どれが彼かなんてわかるわけないわね。小さな社なんて、再開発でだいぶ移動させられちゃってるし、取り壊されたものもあると思うわ」

「……そうだね」

 真幸も息を吐く。記憶を失くした優から、彼が何者なのかを判別する方法はない。稲荷、蛇、虫や獣。小さな社には様々祀られているが、そのどれに該当するか、彼からは判別がつかなかった。

「せめて名前でもわかれば、お祀りすることもできたでしょうけど。……もう、忘れられた神様なのね」

「……だから、記憶を失くしたのかな」

 冷めた湯呑を両手に持ち、真幸は水面を覗き込む。

「誰からも忘れられたから、優も自分を忘れちゃったのかな」

 だから優は、忘れられることを恐れていたのかもしれない。誰にも覚えてもらえない、誰も知らない。誰からも求められない神様の存在価値は、なんだろう。人のいない路地裏で、彼はずっと一人きり。真幸が来るまでなにをしていたのだろう。

 優は求められてもいないのに、真幸の記憶を奪った。記憶がないまま、誰かの『悪いもの』を吸収し、溜め続けた。その理由はもしかして――――。

 誰かに、必要とされたかったのだろうか。

「忘れられた?」

 真幸のつぶやきに、あこが顔を上げる。はっとしたその顔に、わずかな期待が滲んでいた。

「それだわ」

 あこが立ち上がり、地図を見ていた真幸の手を取る。

「忘れちゃえばいいのよ、彼のこと」

「ええ?」

「あなたが彼のことを覚えているから、彼もあなたに執着するのよ。誰からも忘れられたから、彼が自分を忘れたなら――――篠原さん、あなたが彼を忘れれば、彼もあなたを忘れるはずでしょう?」

 握りしめられたあこの手に、真幸は戸惑った。人々の記憶と優の関係は、ただの憶測だ。本当に関連があるなんて、真幸にはわからない。

「いや、でも、そんな上手いこといくなんて」

「上手くいかなければ、他に方法を考えるのよ。でも、今のところどうしようもないんだし、やってみてもいいと思うわ」

 あこの言う通り。真幸たちは未だに、優から逃げる手段を見つけられていない。果たして本当に、優が真幸を追いかけるのかは疑問だが――――万が一、もう一度あの手に触れたとき、真幸は逃げられる気がしなかった。

「徹底的に彼から逃げて、考えないようにするの。こればっかりは、幽霊の対処と同じだわ。気がつかないふり、見ないふり。なんの反応もせず、無視をする。会いに行ったりなんかしちゃだめよ。篠原さんにとって、彼は存在しない。そう思い込むの」

 力強く言い聞かせるあこに、真幸は口をつぐんだ。肯定を返すことができずにいる。

 ――――忘れる。

 その響きが、真幸には重たかった。

「篠原さん。じゃないと、あなたが危ないかもしれないのよ」

 あこの声は真摯だ。心配してくれているのだと、真幸にはよくわかった。特別仲が言い訳でもないのに、彼女は不思議なほど、真幸に親身になってくれる。ありがたいことだけれど、だからこそ居心地が悪かった。

 気まずい空気を壊したのは、真幸のスマートフォンだった。甲高い機械音に、慌てて取り出してみれば、母からの着信がある。半ば安堵しつつ、あこに断りを入れて、真幸は電話に出た。

「……もしもし、お母さん?」

『真幸、こんな時間まで帰らないで、心配したわよ』

 耳にあてたスピーカーから、母の声がする。真幸の無事の声に、安堵半分、咎めるような響きが半分ある。

『二十時を過ぎたら連絡を入れなさいって言ったでしょう。最近また、不審者の話も出てるんだし……今どこにいるの』

「今…………友達の家」

 少し悩んで、真幸はそう告げた。横目でちらりとあこを見る。彼女は茶に口を付けつつ、真幸の電話が終わるのを待っていた。

『こんな遅い時間までご厄介になって、大丈夫なの?』

「大丈夫……なのかな? ――もう帰った方がいい?」

 後半の言葉は、あこに問いかけたものだ。彼女は察したように指で丸を作る。

「うちは全然平気。一人暮らしだし。篠原さんをこのまま放っておけないわ」

「平気だって」

『なら、帰るときには連絡をちょうだい。迎えに行くから。今、どこにいるの?』

「月宮神社――ええと、四ノ宮さんの家」

 母からの返事は帰ってこなかった。真幸は一瞬、電話が切れたのかと思った。だが、スマートフォンの画面は通話のままだ。

 短い沈黙の後、母の低い声が聞こえた。

『帰ってきなさい。すぐに迎えに行くわ』

「お母さん?」

『今から行くから。神社の入り口で待っていなさい』

「えっ。今くるの? なんで急に。お母さん――お母さん?」

 母からの返事はない。ツー、という機械音から、今度は完全に切れたのだとわかる。

 突然の態度に唖然としつつ、真幸はあこにつぶやいた。

「帰って来い、だって」

「ああ……うん、そうね。当然だわ」

 あこは、真幸ほど戸惑った様子はない。仕方ないと言った表情で頷いた。

「もう外も暗いし、いつまでも神社にいるわけにはいかないものね。でも、このまま帰すのも不安だし……」

 言いながら、あこは周囲を見回した。

 二十時を過ぎた社務所は、だいぶ人の数が減っていた。神社への参拝自体は二十四時間可能だが、おみくじやお守りの販売は十八時で終了する。今残っている人々も、会計作業や戸締りを終えて早く帰ろうと、どこかそわそわした様子だった。

 あこは居残りの人々には目を向けず、社務所の端に置かれた箱に近付いた。箱の中は、束になったお守りが入っている。そのうちの一つを手にすると、あこは真幸に手渡した。

「役に立つかわからないけど……念のため、持っておいて」

 お守りは渋い藍色をしていた。表には「厄除け祈願」と書いてある。裏に兎の刺繍がされただけの、ごく一般的なものだ。

「ありがとう。なんか、いろいろ」

 お守りをポケットにしまいつつ、真幸はあこに礼を言った。あこは真幸の言葉に瞬き、どこか照れくさそうに――それでいて、どこか苦々しさのにじむ笑みを浮かべた。

「ううん、いいの。篠原さんの力になれたなら、うれしい」


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