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1-2

「それで、ゆう、記憶は戻りそうなの?」

 真幸はカメラを構え直し、レンズ越しに青年を見た。

「うーん……」

 優と呼ばれた青年は、あくびでもするような声で答える。険しい顔の真幸とは対照的に、腹が立つほどのんきな表情だ。

「駄目みたいだねえ。真幸と会う前のことはさっぱり」

「ぜんぜんなにも思い出せないの? 本当に?」

 まるで他人事のような口ぶりに、真幸は眉をしかめる。口調は自然、とげとげしくなっていた。

「自分の名前も、これまでのことも。……私のデジカメのデータを消したことも?」

「これっぽっちも」

 優は肩をすくめ、真幸のカメラを覗き込んだ。魚眼にゆがむ優は、いつも以上にとぼけた表情に見える。

「そもそも僕、本当にそんなことしたの?」

「本当にそんなことしたんだよ」

 優の飄々とした態度に、真幸は低い声で言った。底冷えのするその声には、優への隠しきれない怒りが滲んでいる。

「記憶が戻れば、データを返せるかも、って自分で言ったんじゃない。だから、こうして優の記憶を探しているんだよ」

 人のいない空き地に、真幸の声だけが妙に響く。真幸の怒りに、優は肩をすくめる。彼はいつもこうだ。真幸が怒ろうが責めようが、暖簾に腕押し、糠に釘。まったく堪えない。

 それどころか、まるで初めて聞いた事実のように、困った顔でつぶやくのだ。

「覚えてないなあ」

 このやり取りも、真幸と優が出会ってから、何度も繰り返してきたものだった。


 ○


 優は幽霊の「ゆう」。呼び名がなければ不便だろうと、真幸がつけた名前だ。柔らかい物腰や口調から漢字が当てられ、いつしか「ゆう」は「優」になった。

 だけど彼の本名は、真幸も優自身も知らない。

 優は記憶喪失の幽霊だ。名前どころか、自分の死んだ理由さえも彼は覚えていない。いつ死んだのか、いつから幽霊をしているのか、どうして真幸のカメラにだけ映るのか。なにもかもわからない。本当に幽霊なのかさえも、実のところは不明だった。


 真幸が優と出会ったのは、今からひと月ほど前のこと。十月半ばにしては、少し暑さを感じる日だった。

 あの日の真幸も、学校帰りだった。寄り道をしたせいか、陽はすっかり暮れていた。昼間は暑いくらいだったのに、日暮れから急に冷えはじめたことを覚えている。

 寒風の吹く駅前の大通りを、真幸は制服のまま、早足で歩いていた。昼間の暑さに油断して、ほとんど夏服みたいな格好だった。頬に吹き付ける風は冷たく、体の芯まで凍り付くようだった。

 それなのに、真幸は自分の家には向かわずに、ひとり駅前をさまよっていた。首からは、小学生のころから愛用の一眼レフを下げ、あちこちの写真を撮ったはずだ。

 年季の入ったカメラは、女子高生が持つにはいささか重くて武骨だ。とくに、あの日は手に重く、ともすれば取り落としてしまいそうだった。

 寒さに震える手で、重たいカメラを握りしめ、真幸はいくつもの写真を撮った。どうしてあんな寒い日に、写真を撮ろうと思ったのかは忘れてしまった。ただ、なにか情動に押されて、メモリを埋め尽くすほどたくさんの写真を撮りたいと思ったのだ。

 街角の写真を撮り、空の写真を撮り、喧騒を撮り、行き交う車の写真を撮った。夢中で撮り歩くうちに駅前の大通りも抜けて、路地裏に迷い込み、それでも写真を撮る。ビルの裏側、排水溝、打ち捨てられた片隅の影まで、ファインダー越しに眺めていた。

 そうしているうちに、夕暮れを通り過ぎ、夜に差し掛かる時間になっていた。いつの間にか雨でも降っていたのだろうか。見上げた空が滲んでいた。空を撮ろうとカメラを上に向けたとき、ぱたりと足元に水滴が落ちた。

 優がカメラに映ったのは、そのときだった。

 カメラは路地裏の廃ビルを映していた。廃ビルの屋上と、滲んだ月。葵の空に薄い雲がかかり、破れたフェンスを透かして見えた。階段室だろうか、小さな建物の影に、月が少し欠けていた。

 真幸は欠けた月に焦点を合わせ、シャッターを切った。暗闇を照らすフラッシュと同時に、空間を切り取るような、カシャリという音がする。

 フラッシュの明るさに、真幸は瞬間、目を閉じた。

 そして、目を開けたとき、真幸はカメラ越しに、先ほどまではなかったはずの影を見た。

 なんの変哲もない屋上に、いつの間にか人の姿がある。高いフェンスを越え、屋上の端に立ち、それは真幸に目を向けた。

 目が合った気がした。だけど気のせいかもしれない。目があったと思った瞬間、それは真幸に向かって飛び降りてきたのだ。

 真幸はカメラを構えたまま、動くことはできなかった。落ちてくる人影は、ぐんぐんと大きくなる。

 手足が翻る。髪が風にあおられ、シャツがめくれあがっていた。頭を下に落ちてくるその姿が、次第にあらわになる。

 生気のない顔。うつろな目。なにもかもはっきりと目に映った。

 同時に、気が付いた。

 あの人影が、ずっと真幸から目を離していないことに。

 真幸は喉を引きつらせた。悲鳴にもならないかすれた声が出る。人間でないことが、本能的に理解できた。暗い瞳に光はなく、底知れない深淵が覗く。そう気が付いたときには、もう遅かった。

 ――――ぶつかる。

 自分の身を守るように、真幸はカメラで頭をかばった。痛みに怯え、得体の知れなさに震える。人であろうがなかろうが、間違いなく真幸は下敷きになるだろう。痛み、苦しみ、死の予感に、体を震わせる。

 ――ああ、こんなことになるなら。

 衝突を待つ須臾の間。真幸の頭をよぎるのは後悔だった。

 ――あんな別れ方、しなかったのに。


 だが、いつまでたっても衝撃は訪れなかった。

 恐る恐る目を開けても、そこには誰もいない。真幸一人が立っているだけだった。

 心臓が早鐘を打つ。呼吸が無意識のうちに荒くなる。握りしめたカメラは、熱を持っていた。

 改めて周囲を見回しても、人の気配すらない。屋上に目をやっても、人影などはあるはずもない。きっと幻でも見たのだ。真幸はそう息を吐き、カメラに目をやった。そのときだ。

「――――君」

 耳元で声がした。だが、真幸は顔を上げられなかった。カメラに視線が釘付けになる。

 真幸の両手の中にあるカメラ。そのカメラに、もう一本の手が伸びている。青白く透き通る、真幸以外の第三の手が、カメラの上部を掴んでいた。

「かわいそうに」

 息がかかるほど近くで、そう聞こえた。得体のしれない声なのに、奇妙なほどに優しく、寄り添うようだった。

「僕が消してあげるよ、その記憶」

 カメラが熱い。なのに、真幸には手を離すこともできなかった。足はその場から持ち上がらず、顔をそむけることさえできない。瞬きと呼吸以外の方法を、すべて忘れてしまったかのようだ。

 青白い手を振り払いたくとも、カメラはピクリとも動かない。ただただ熱を増していく。やけどをするほど熱い。カメラが溶けるほどに熱い。握りしめたカメラの端がどろりと溶け、黒いしずくが泥のように重たく落ちる。

 ――――灼ける。

 手のひらが溶ける。そう思った瞬間、カシャリ、とシャッターを切る音がした。同時にカメラの熱は消え、真幸の体が動き出す。その場に崩れ落ち、荒い息を吐きながら、慌ててカメラを放り出した。

 それなのに、どうしてもう一度、カメラを手にしたのかはわからない。カメラを構え、覗き込んだ理由はもっとわからない。もしかしたら、この時点ですでに、真幸は憑りつかれていたのかもしれない。

 カメラのファインダー越しに真幸が見たのは、ひとりの見知らぬ男だった。

 どこか呆けた様子で立ち尽くすのは、青白い顔の男。瞬きながら頭を掻き、彼は不思議そうに周囲を見回した。

 二度、三度と視線を巡らせ、彼はようやく真幸の存在に気が付いた。

 彼は怪訝そうに真幸を見た。警戒心のない足取りで歩み寄り、真幸のカメラに手を伸ばす。その手は青白く、透き通っていた。

 びくりと震える真幸に、彼は邪気のない表情で、どことなく不安そうに尋ねてきた。

「……ええと、ここ、どこですか? 僕はなにをしていたんだっけ……?」

 この時点ですでに、彼は記憶を失っていて、真幸はデータを失くしていた。


 あの日以来、真幸は優に会うために、何度もこの路地裏へ通っていた。

 怖いと思わないわけではなかった。だが、すべては、優に消されたデータを取り戻すためだ。

 真幸が路地裏へ行けば、優はいつもそこにいた。そして、データを取り戻そうと躍起になる真幸に、いつも知らぬ存ぜぬを押し通すのだ。


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