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4-3

 あこと再び顔を合わせたのは、週末の午後。場所は前に優と訪れたときと同じ。路地裏にほど近い、ファミリーレストランだった。

 翌日が休みのせいか、店内はいつも以上に混んでいた。人でごった返し、ざわざわと騒がしい。その店の隅の席に、真幸とあこ、それに優は案内された。

 優は、真幸が連れてきた珍しい人物の姿に興味津々のようだった。浮かれた様子であれやこれやと質問している。

 対するあこも、優が見えているらしい。彼女も興味深そうに優を見つめていた。

 真幸は落ち着かなかった。あこは美人だ。それに、優の姿を見ることもできる。幽霊についても詳しいし、真幸みたいにがみがみも言わない。

 優が、あこを好きになるのではないかと、不安だった。優の告白に返事をしていないのに、不安になる自分が嫌だった。

 ――どうして、こんな風に思うんだろう。

 あこが悪いわけではない。優があこになにかしたわけでもない。なのに真幸は怯えていた。

 一人、席の片隅で小さくなっていると、店員が水をもってやってきた。メニューと三つのグラスを、真幸たちのテーブルに置く。

「……あの、二つで大丈夫ですよ」

 真幸が言うと、店員が「失礼しました」と慌てた様子で頭を下げた。それから、不思議そうに首をかしげて、水を回収する。

 最近、こういうことが増えた気がする。

「真幸が友達を紹介してくれるなんて珍しいね」

 横のやり取りには気づかず、優は真幸に向けて、浮かれた声を出した。

「四ノ宮あこさん? 普通に僕が見えるんだねえ」

「その子、神社の子だから」

「……除霊するために連れてきたんじゃないよね?」

 真幸の言葉に、優の声音が一気に下がった。悪くないと頷けば、優が悲鳴を上げる。

「ひどい! 僕はこんなに君が好きなのに!」

「仲良いね」

 そんな様子を、あこは瞬きしながら見ていた。その瞳は、相変わらず優の座っているであろう方向に向いている。今は四人席の、真幸の隣にいるらしい。優が動くたび、あこの視線も移っていく。

「悪いものじゃないみたい。――でも、良いものでもない」

「優のこと?」

「うん。なんだろう、似たようなものを見たことがあるの、でも、よくわからない――」

 あこが記憶を探るように、頭に指をあてたとき。

 彼女はその姿勢のまま凍り付いた。彼女の視線は、優のいた場所を見ている。だけど、その視線がゆっくりと移動する。

『――殺してやる』

 声が聞こえた瞬間、真幸は後ろへ振り返った。何事もないファミリーレストラン。子供が駆けまわり、中学生や高校生が騒いでいる。老人たちが大声で会話をし、店員を呼ぶベルがやまずになり続ける。いたって平和な光景だ。

『殺してやる』

 だけど、声は確かに聞こえる。どこから聞こえるのだろう。何度も店内を見回して――気付いた。

 中年の男性が一人、俯きながら珈琲を飲んでいる。なんの変哲もない、少し体格がいいだけの、普通の男性客だ。だが、真幸は彼に見覚えがある。

 一度目は、同じこの店で。二度目は、ファストフード店の前でたまたますれ違った。三度目となれば、もう顔も覚えてしまう。

『娘を殺したあの男を、必ず殺してやる』

 声は、男から直接聞こえるわけではない。男は、口を動かしていないのだ。

 聞こえているのは、男のさらに後ろからだ。

 男を包むような、黒くて暗いあいまいな影がつぶやき続けている。

『殺してやる。必ず殺してやる。あの男の姿が見えたら、刺し殺してやる。必ず』

 ふと、真幸は自分の指に、なにかが零れ落ちるのを感じた。水でもこぼしたのだろうかと目を向けて、息をのむ。

 テーブルの上に置いていたカメラから、黒く重たい水が流れ出ている。どろり、どろり、黒いマグマのように重く泡立ちながらあふれ、テーブルから垂れ落ちているのだ。

「……優」

 真幸が呼ぶと、返事の代わりに、頭をなでる手の感触があった。

「大丈夫」

 優はそう言うと、席を立った。飄々とした足取りで少し離れた男のところへ向かうと、その黒いもやに両手を伸ばす。

 優に触れられ、もやは少しの間、逃れるように暴れた。いやだ。いやだと言うように、何度も何度もばたばたともがくが、優は離さない。

 彼の触れた先から、とろりと溶けるような液体がこぼれる。真幸を濡らすこの泥みたいな液体に少し似ているけれど、地面に落ちて消えるあたりは、まるで違う。

『やめろ、いやだ、消えたくない』

 影の嘆きが響く。その声は、誰にも届かない。

「かわいそうに。こんなに重い気持ちを抱えて」

 優は、次第におとなしくなる黒いもやを抱きしめて、囁くように言った。

『いやだ、忘れたくない』

「苦しみは僕が預かってあげる。少し忘れて、おやすみ」

『恵子――――』

 泣きそうな声が聞こえた。それを最後に、もやは暴れることをやめ、優に覆いかぶさり、そしてすべてが溶けて消えた。


 声は、もう聞こえない。子供たちの騒ぎ声と、たくさんのおしゃべりだけが聞こえる。

 ――なのに、カメラからあふれる泥のような水が止まらない。

「優、四ノ宮さん、どうしよう、これ――」

 困惑して声を上げた真幸をさえぎるように、店に新しい客が入る、チャイムの音が聞こえた。

 それどころではないのに、そちらに顔を向けてしまったのは、真幸の中に何か予感があったからかもしれない。


 待ち合わせで、と言う男の人の声が聞こえた。彼は案内をしようとする店員を置いて、すたすたと店を歩く。そうして立ち止った先は、先ほどの男性の前だった。

 うつむきながら珈琲を飲む男に、彼は言葉をかけた。

「町田さん、急に呼び出してどうしたんですか。また恵子さんについてですか?」

 声をかけるのは、男に殺してやると言われていた、あの優男だ。彼はへらりと笑って、男の前の席に腰かける。その足元に、消え損ねた黒いもやなのだろうか。泥のようなたまりができている。

「娘をなくされてお辛い気持ちはわかりますけどね、こう何度も呼びだされてはたまらないんですよ――町田さん?」

 反応の薄い男の姿に、優男は首を傾げた。いぶかしそうにその顔を覗き込めば、ちょうど顔を上げた男と目が合う。

 男は、どこかぽかんとしたように、優男の顔を見つめた。

「娘?」

 その顔に、鬼気迫るものはない。ただ、空虚な表情だった。

「……娘とは誰のことだ? そもそも君は、誰だね」


 あこは固まったまま動かない。

 カメラからあふれる泥は止まらない。

 優はいつの間にか真幸の隣に戻ってきていたらしく、カメラを見て「うわっ」と叫んだ。

「どうしたのこれ!?」

「……優、なにしたの」

「いや、僕は何もしてないけど」

 優はカメラを見て、心外そうに否定した。違う。真幸が言いたいのはそうではない。

「あの男の人に、なにしたの」

「……『悪いもの』を吸い取ったんだよ。深い憎しみと、後悔。恨みを晴らして、自分も死ぬつもりだったんだ」

 真幸は、優の言葉を噛むように瞬いた。それから、顔を上げる。優の声の聞こえた方向へ。

「『悪いもの』ってなに」

 見えない優を目に映して、真幸は言った。『悪いもの』。深い憎しみと後悔。誰かに対する強い感情。それを、吸い取るということ。

 それがどういうことなのか、真幸は今はじめて理解した。

「『悪いもの』を吸い取るって、全部忘れさせるってこと? 憎い感情ごと、その人に関わるすべてを? だから、あの人は娘のことも忘れちゃったの?」

「……そうしないと、あの人は人を殺したよ」

「そうかもしれないけど、でも。忘れさせていい理由にはならないでしょう!」

「忘れた方が幸せだったんだよ」

「そんなことない!」

 忘れた方が幸せなんてこと、あるものか。

 真幸はここが店の中だと言うことも忘れて叫んだ。店中の目線が集まっても、どうでもよい。子供たちが好奇の目を向け、老人たちがひそひそと話し、ヤバイヤバイという女子高生の声がする。中年男と優男も、真幸を見ている。

 だけど、今の真幸にとっては些細なことだった。

 憎しみも苦しみも辛いものだ。わかっている。真幸もそうだった。真幸も、なにかを憎んでいた。もう、忘れてしまったけれど。

 真幸の感情は、暗くて、きっと『悪いもの』だった。胸が痛くて、悲しくて、抱えているだけで破裂してしまいそうだった。その感覚だけを覚えている。日々が辛くて、悲しくて、耐えがたかったこと。

 それでも真幸は――。

「私は忘れたくなかった……!」

 真幸は声を張り上げた。喉が枯れるくらいに、感情をすべて押し込めて叫んだ。

「大切だったんだ。大事なものだったんだ。憎くて仕方がなかったけど、それでも、大切なものだったのに――――!」

「……真幸」

 優が困惑したような声を上げる。

「真幸、泣いてる……?」

「どうしても思い出せないの。忘れたくなんて、なかったのに!」

「真幸」

「触らないで!」

 優が手を伸ばした気がして、真幸は振り払うように言った。

「近づかないで、放っておいて!」

 真幸の言葉は明確な拒絶だった。記憶の欠落を埋めるのは、優への怒りだ。

 今までもずっとそうだったのだ。優が吸い取った感情は、対象そのものへの記憶だ。曾祖母に怯える子供は、曾祖母の存在を忘れ、娘の喪失に憤る父親は、娘そのものを忘れた。真幸も同じだ。写真と共に失ったのは、忘れてはいけないものだった。

「真幸」

 優の呼びかけに、真幸は応えない。無言のまま、両手を握りしめる。優も少しの間黙っていた。

「――――いやだ」

 沈黙の後に聞こえたのは、低く短い言葉だった。たった三音なのに、背筋の寒くなるような響きが込められている。真幸を丸のみにするような、それこそ暗い感情が滲んでいた。

「いやだ。僕には真幸しかいないんだ」

 冷たい手が、真幸に触れた。真幸の首筋を、体温のない手が撫でる。

「拒まないで」

 瞬く真幸の目の前。低く囁く優の姿が見えた。

「傍にいて。覚えていて。忘れないで」

 ――カメラもないのに、真幸には優の顔がわかった。整った彼の顔が、泣き出しそうに、笑うように歪んでいる。暗い瞳は、真幸の姿だけを映している。真幸に触れる手は冷たく――泥のように暗い。

「ひとりはいやだ。やっと見つけた、僕の――――」

 優がつぶやく。泣き出しそうな彼の顔が、目の前で崩れていく。どろりとしたそれは、まるで闇だ。優が吸いこんだ『悪いもの』のように、光を吸い取るだけの暗闇だった。

 優の中から、これまで吸い込んだ『悪いもの』があふれ出している――。

「君は、僕のものだ」

「だめ!」

 その暗闇が見えたのは一瞬だ。荒い声とともに腕を掴まれ、真幸の視界を覆う優の姿が消える。触れていたはずの彼の手の感触もない。真幸たちに目を向ける、騒々しいレストランの景色だけがある。

 ――でも、まだここにいる。

 確信があった。目の前に優はいる。真幸を抱きしめるように手を伸ばしている。暗闇が、真幸を取り込もうとしている。カメラが熱い。飲み込まれてしまいそうだ。

「篠原さん、逃げよう」

 立ち尽くす真幸の手をつかんだのは、あこだった。

 彼女は、もう見えなくなった優を一瞥すると、真っ青な顔で真幸を引っ張る。手の力は強く、優とは裏腹に熱を持っていた。

 真幸を掴む手とは反対の手で荷物をつかみ取ると、あこはそのまま、真幸を連れて店を飛び出した。

 ――水しか頼んでなくてよかった。

 背後から迫るなにかの気配を感じつつ、真幸はこのとき、妙に場違いなことを考えていた。


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