4-2
真幸の話を聞いて、あこはまたしても渋い顔をした。
ファミリーレストランの一件から一夜明け、真幸は今、あこと二人並んで、以前と同じファストフード店にいた。
カウンター席に座っているのも前回と同じ。注文したものも同じ。ただし今日は、たまたま出くわしたわけではない。真幸から連絡をとり、会って話をすることになったのだ。このときほど、真幸は自分のスマートフォンにあこの番号が入っていたことを感謝したことはない。
あこに会う目的は、もちろん、幽霊についての話をするためだった。霊について悩んでいると打ち明けると、あこはすぐに「会おう」と言ってくれた。
真幸の話を一通り聞き終えると、あこは考えるように軽く、自分のこめかみを指で小突いた。
「……『悪いもの』を吸う、ねえ」
あこの視線は、カウンター席から見える、窓の外へ向かっている。どこか遠くを見つめながら、ため息のようにつぶやいた。
「そんなことして、大丈夫なのかしら」
あこは、真幸が直面した男二人の騒動よりも、優の方が気にかかっているらしい。渋い彼女の顔つきに、真幸は不安になる。
「大丈夫って、どういうこと?」
「単純な話。『悪いもの』が集まっちゃっているんじゃないかってこと。ソレは、吸ったものをどうしているの?」
どう、と言われても真幸にはわからない。優に吸われた悪い感情の行方は、ようとして知れない。
「『悪いもの』が集まれば、より『悪いもの』になるものよ。なんでもそうでしょう? 木が林に、林が森になるように。同じもので集まって、より大きなものになる」
「……そうだね」
感覚的に理解できる。水だってそう。水分子、一滴の水滴、川から海。より大きく、強大になっていく。
「一つ一つは些細なものでも、たくさん集まればそれだけ強いものだわ。で、強くなると余計に多くのものを引き寄せるの。いわば――表面積が大きい状態ね。接触しやすくなっているの」
そうして触った先から、また集まっていく。優的に言えば、吸い取っている。吸収して、ひとかたまりになった『悪いもの』が、優の中に押し込まれている。そんな想像をしかけて、真幸は首を振った。
あこは真幸の様子を見ながら、言葉を続ける。
「集めたものは、どこかで発散させないといけないわ。じゃないといつかは、破裂してしまうもの。空気を入れ過ぎた風船とか、過充電した電池みたいに」
「……それって、優のこと?」
真幸の問いに、あこは慎重な顔でうなずいた。
「わからないけど。『悪いもの』を集めるっていうなら不安だわ。邪悪を清めるなんて、人間業ではできないもの。そういうのは、神様の仕事よ」
「神様?」
あこの口から出てきた言葉を、真幸は思わず繰り返した。
「四ノ宮さん、神様を信じているの?」
幽霊が電気や電子だと言うあこに、神という言葉は不釣り合いな気がした。神なんて存在は、理屈の範疇を越えた『不思議』の最たるものだろう。
だが、あこは真幸に首肯する。
「もちろん。うちは神社の家系だから」
「でも、幽霊は信じてないのに」
「信じてないわけじゃないわよ。幽霊というものがあって、それに対して説明をしているだけ。幽霊がいないとも言わないし、幻覚とか、嘘だなんて言うつもりはないわ。神様も同じ。神様はいるの。それに対する説明を、私は自分に納得がいくように作り上げているの」
はああ、と真幸は感心して息を吐く。詭弁のような気もするけれど、あこにとっての筋は通っている。
重力だって電気だって、目で見ることはかなわない。だけど現象があった。そこから理屈を組み立てて、その存在を世間に認めさせたのだ。
あこにとっては、神も幽霊も同じこと。たしかに存在するものだった。それを『不思議』のままにせず、理屈を足して言ったのだ。
「四ノ宮さんの考え方って、すごいね。幽霊の話なのに、ぜんぜんそんな気がしないや」
「そうかな。……なんか、恥ずかしいね。篠原さんって、まじめに話を聞いてくれるから、いつも話し過ぎちゃうわ」
あこは照れたように視線を伏せると、オレンジジュースをストローでかき回した。
――いつも?
ストローに揺れる氷の音が、シャカシャカと聞こえる。あこがうつむいている間、真幸は彼女の横顔を見つめていた。
いつも、というほど、真幸はあこと会話をしていない。せいぜい数週間前、同じ店で、同じように幽霊相談をしたときくらいだろうか。
――いや。
記憶の奥で、微かな引っ掛かりがある。それだけではなかったはずだ。真幸とあこは、もう少し親しかった――電話番号を交換する程度には。
真幸は頭に手を当てた。おぼろげな記憶のかけらが掘り起こされる。不思議なくらいに忘れていた、あことの記憶だ。
あれは高校二年生になったばかりのころ。
一年目でおおよそ人間関係も出来上がり、二年になっても、クラスのグループは早々に出来上がっていた。真幸は一年で同じクラスだった瑞穂と、瑞穂の友達の由美と一緒にいることが多かった。
あこは、この時すでにクラスから浮き気味だった。彼女のまとう空気は他人を寄せ付けなかったせいもあるだろう。だが、なにより彼女の母親に、少しばかり良くない噂があったせいだ。
水商売だとか、派手な遊び好きだとか、そう言ったたぐいの話だった。真幸もはっきりとは知らないが、漠然と耳に入るくらいには有名な話だった。
だけど、真幸はたまにあこと会話をした。篠原と四ノ宮。同じ『しの』のつく苗字同士、席が近かったためだ。
あこと真幸は話の合う方ではなかったし、少し苦手だと思うこともあった。それはしかし、積極的に避けるほどのこともない。ごく一般的な相性の問題だったと思う。
会話の内容は、覚えていない程度にはたいしたことがない。でも、連絡先を交換する程度には、親しくなっていた。
しかしそれも、春のうちだけだった。夏を過ぎたころから、真幸はあこに話しかけなくなっていた。秋には二人の仲は断絶し、クラス全体があこを避けるようになっていた。
あこから真幸に声をかけることもなかった。ただ一言、「憑いているのね」の他は。
――どうして?
「話をしてくれてありがとう」
記憶に沈む真幸に、あこは笑いかけた。
「幽霊のことだから、話す相手が私しかいないっていうのはわかってるけど。相談してくれて、ちょっとうれしかった」
あこは一人、少し寂しそうに笑った。
真幸は眉間にしわを寄せる。彼女の言葉には、ずいぶんと卑屈な響きがあった。まるで、真幸があこと話をするわけない、と言いたげだ。
「篠原さん。また話をしてね。あと、そう――その幽霊に、会わせてくれるとうれしい」
「優に?」
「そう。ちょっと気になるから。本当に悪いものなのかどうか、確かめたいし」
真幸は言葉をためらった。
あこが会いたいと言うのなら、会っても構わないと冷静な真幸は考えている。会ってわかることもあるだろう。真幸よりもあこの方が、幽霊にもずっと詳しい。わかっている。
――いやだな。
だが、即座に浮かんだのは拒絶だった。理由はわからない。納得できる理屈もない。
真幸は自分の感情に困惑しつつ、少し悩んでから、結局「うん」と応えた。
真幸の返事に、あこは嬉しそうに微笑んだ。
教室にいるときのどこか突き放した雰囲気とは違う。人当たりの良い今の彼女の笑みこそが、あこ本来の姿なのかもしれない。
ファストフード店を出たのは、二十時を過ぎたころだった。あこと真幸の帰路は逆方向で、ここで二人はお別れだった。
真幸はこの後、買い物して帰って、母の帰宅を待たなければならない。面倒だと思いながら伸びをしたとき、店の前で、どこかで見た顔に声をかけられた。
「あら、また会ったのね」
「――あ、どうも」
真幸は反射的に会釈を返す。相手は、前にこの店で席を譲ってもらったことのある、大学生くらいの女性だ。その前に会ったのはアンティーク店だった。名前も知らない相手だが、二度三度と会えば、顔も覚えてしまっていた。彼女は今日も薄手のワンピースを着て、冷たい風の中で、涼し気な顔をしている。
「こんな遅い時間に歩いてちゃだめよ。帰るなら、一人じゃないほうがいいわ」
「え、は、はい」
女性の咎めるような言葉に、真幸は恐縮したまま頷いた。もっともな言葉だが、ほとんど知らない人にそういわれるのは奇妙な気分だ。
「夜遅いと、ご両親も心配するわよ。特に父親なんかは、女の子だと心配性でしょう? うちもずいぶんと過保護なのよ」
「あ、いえ」
意識するより先に、真幸は首を振った。
「うちは片親ですから。お父さんのことは……覚えてないです」
「あら、そうなの、私てっきり……ごめんなさい」
女性は口元に手を当て、しまったという顔をした。しかし、相手ほど真幸は気にしていない。家に父親がいないのは当たり前で、片親なのも当たり前のことだと思っている。
「……余計なことを言ったわね。じゃあ、私も迎えが来たから。一人で帰らないようにね」
女性はそう言うと、表通りの歩道に目を向けた。
女性の視線の先、誰かが早足でこちらにやってくるのが見える。暗闇でよくわからないが、体格のいい男性のようだ。女性の恋人だろうかと、真幸は勝手に想像する。
「またね」と言って女性は手を振った。男性は店の前で一度だけ足を止めると、再び大股で歩き出す。女性はその後ろを、「待って」と慌てて追いかけた。
真幸はその様子を、呆然と見つめていた。
去り際に、ほんの少しだけ垣間見た男性の姿が頭に焼き付く。ファストフード店の明かりに照らされたその顔を、真幸は知っていた。
昨日、ファミリーレストランで見たばかりだ。「殺してやる」と叫んだ、あの中年の男だった。
「篠原さん」
あこが、少し離れた場所に立ち、神妙な声で言った。
「一緒に帰りましょう。私、家まで送っていくわ」
真幸は素直にうなずいた。
背筋が妙に冷たかった。