3-2
洋菓子店のケーキは美味しかった。
真幸はそれから、何事もなく店を出た。店で起きたことといえば、優との気まずい雰囲気と、ぽつりぽつりとした会話からのなんとなく和解である。
十九時を過ぎた空は、黒墨のようだった。星が白く、空に穴をあけている。朝から続いた上天気は、陽の暮れた今まで続いているようだ。いつもよりも、星の色が鮮やかだった。
そのまま帰ろう、というとき、優は真幸を呼び止めた。
「真幸、もうちょっといいかな」
――やっぱり。
真幸は内心でそう思う。洋菓子店では、なにもなかった。だけど今までの経験上、なにもないなんてありえない。たぶん、今日の本命は洋菓子店ではなかったのだ。
これから優に連れて行かれる先で、きっとなにかが現れる。
警戒しながらも、真幸は受けて立った。
いいだろう、と内心で真幸は力む。
優は自分の記憶を探さない。ならば、優の行動から、正体不明の彼を見極めてやろうと思った。
そんなこんなで、真幸は優につれられ、駅の周囲をあちこち回った。小物屋、雑貨店、ショッピングモール。駅から少し離れた公園を横切り、小高い丘の展望台に立つ。
公園の展望台は、冬場ということもあって誰もいなかった。この冷たい季節、好き好んで雑木林を抜け、吹き晒しの場所までは来ないだろう。観光地というわけでもなく、展望台といっても、そこには朽ちた丸太の椅子とテーブルが、寒々しく転がっているだけだ。
町の灯りも、ここまでは届かない。眼下には民家や背の低いビル群の灯りが見える。再開発の地区を挟んで、東西で明るさの差が顕著だった。路地裏を含む東の再開発区域は、落ちくぼんだように暗い。
いつのまにか、二十時を過ぎていた。今日はここが最後になるだろう。霊が出ても不思議のない暗い雰囲気に、真幸は身構えた。
対する優は、のんきなものだった。どこからともなく、はしゃいだ声が聞こえる。
「真幸、ここは町がよく見えるんだよ。ビルの屋上なんかよりも、ずっとね。星もきれいだ」
カメラを構えれば、展望台の柵に身を乗り出し、町を指さす優が見える。彼の示す方向は、暗い路地裏――優がいつもいる、ビルのあたりだった。
「前に行った珈琲店はあそこ。さっきの喫茶店はあっち。真幸、あの辺に美味しい和菓子屋さんがあるんだ。今度行ってみようよ」
「嫌だよ! また幽霊が出るんでしょ?」
「幽霊が出たって、僕が真幸を守るよ」
「また、軽くそんなことを言って……」
――軟派な。
優は平気でそういうことを言う。一緒にいたいだとか、守るだとか。彼にとっては深い意味がないとわかっていても、真顔で聞くには強い言葉だった。
「だいたい、幽霊が出るのは優のせいでしょう。いっつもそういう場所に連れて行って! 今日だって……」
洋菓子屋に行って、駅を回り、公園から展望台へ上がった。そのあいだずっと、真幸は優以外の幽霊を見ていない。
「……出なかったね」
ぽつりと真幸はつぶやいた。気勢をそがれたような、呆気にとられたような、奇妙な心地だった。
「なんもなかったね。……どうして?」
「どうしてって?」
カメラ越しに、首を傾げる優が見える。元凶の癖をして、彼は不思議そうだった。
「だって、いつも幽霊のいる場所に連れて行っているじゃない。思い出しそう、なんて嘘までついて。私を町に連れ出すのも、幽霊に会うためなんじゃないの?」
優はいつも、真幸を連れて町へ出る。一人ではなく、真幸と共に出かけるのは、なにか理由があるのだろう。憑りついている相手と行動をしなければならない等々、想像することはできる。
真幸の疑問に、優はますます首を傾げた。真幸の言葉の意味が理解できないらしい。勘違いだと言いたげに、間違いを正すように、彼は当たり前のように言った。
「出かけるのは、君と一緒にいたいからだよ。何度も言っているでしょう?」
「言ってるけど……」
真幸は口ごもる。冗談みたいに軽く、時には真面目そうな口ぶりで、優は何度もそう言ってきた。
「……なんで」
その問いは、あまりに間が抜けていた。問いを口にする真幸も、返ってくる言葉の予想はできていたはずだ。
優は真幸を見つめる。口元が、呆れを含んだ笑みになる。
「なんでって、君が好きだからだよ」
だから、優は真幸を何度も町へ連れ出した。幽霊に会うためではなく、真幸と歩くことが目的だった。
他の日はともかく、少なくとも今日はそう。なにも起こらない町を歩く。あれこれと話しながら、店をひやかし、ちょっと買い物をする。
これは、ただのデートだ。
「…………だけど、で、でも」
しばらく立ち尽くした後、真幸は言葉を思い出したように口を開いた。出てくる言葉は、たどたどしく、おぼつかない。頭の中は真っ白で、自分でもなにを考えているのかわからなかった。
「優は、幽霊じゃない」
「そうだね」
「記憶もないし」
「うん」
「私にしか見えないし、私だって直接は見えないし……!」
優は笑っている。混乱する真幸を楽しんでいるようだ。だが、真幸は怒ることもできない。
真幸は、優の言葉を簡単に受け止められない。頭の中で、必死に否定を探している。
「優は――私にしか見えないから、そういうこと言うんだ」
カメラを握る手に、知らず力がこもる。否定するのは、優の存在ではない。幽霊であるから、記憶喪失だから。そんな理由は、いっそ些末なことだった。
真幸が拒むのは、自分に向けられた好意だ。
「本当は、誰でもいいんだよ。私じゃなくても、見つけたのが、たまたま私だっただけで、優は自分を見てくれる人を逃がしたくないだけなんだ」
「真幸?」
「優が見える別の人が現れれば、きっと優はその人のことが好きになるよ。そういうものでしょう?」
夜風に吹き付け、カメラが冷える。なのに、握りしめた手のひらは熱かった。心の奥底に、真幸自身も知らない強い熱がある。
「そうやって、いつか私を捨てていくんだ」
――あの時と同じように。
頬に吹く風が冷たい。優に会ったときも、こんな風に冷たかった。
「真幸」
うつむく真幸に、優が優しく呼びかけた。
「君は怖いんだね。誰かを好きになったり、誰かに好かれることを、認めるのが」
否定はしなかった。きっと、優の言う通りだ。真幸は恐れている――また、捨てられることを。
「僕も怖かった。あの路地裏で、僕はずっと一人だった。誰も僕を知らない。僕を覚えていない。僕自身も、僕が誰だかわからない。だけど、真幸が見つけてくれた。きっと君の言う通り、ただの偶然。でも、他の誰でもなく、真幸だったんだ。それだけで、特別になるのは十分だと、僕は思う」
カメラを下ろしたまま、真幸は顔を上げた。視線の先に優がいる。カメラのレンズは通していない。なのに、今は彼の姿がはっきりと見えた。
まるで幽霊らしからぬ輪郭が、真幸に笑いかける。
「真幸は僕を見て、僕を知って、覚えていてくれる。だから今、僕は『優』でいられるんだ」
それから、優は一人、自嘲気味に顔をしかめる。
「今の僕が怖いのはね、記憶を取り戻し、君にデータを返せてしまうことだ。だって僕には君しかいないのに、君はもう僕に用がなくなってしまうでしょう?」
真幸の目的は、なくしたデータを取り戻すこと。だから幽霊である優も恐れず、何度も暗い路地裏に、一人で乗り込んでいた。
写真データが戻れば、真幸が路地裏に行く理由はない。
「僕はまた、忘れられてしまう。暗い場所で、また一人になる。それが、たまらなく怖い。……だからきっと、はぐらかしてきたんだ」
「……そう簡単に、忘れないよ」
真幸は低く答えた。そっぽを向いて、口を曲げて、まるで拗ねているようだ。
「ちゃんと覚えているよ。こんな面倒な幽霊、忘れないって」
「写真データが戻っても?」
「戻って、はいすっきり忘れましたなんてできないよ。そういうものじゃないでしょ」
「本当の本当? 絶対?」
「くどい!」
しつこい優に、思わず真幸は声を上げた。優を睨みつければ、彼は意外なほどに穏やかな表情を浮かべている。
「――真幸。君がそう言ってくれるなら、僕も覚悟を決めるよ」
真幸に微笑みかけながら、彼は噛みしめるようにゆっくりと言った。その姿に、真幸は瞬く。
「写真データを取り戻せるように、協力するよ。真幸がいなくなることは怖いけど、僕は君が好きだから。君が忘れないって言ってくれたことを、僕は信じたいから」
背後の町の光も、空の星も、優の体は透過しない。それが奇妙だった。
――カメラもないのに。
おぼろげだった優が、少しずつ鮮明になっていく。だんだんと、実像を持ち始めている。
――幽霊なのに。
「だから、真幸も信じてくれる? 僕は君を傷つけるようなことをしないって。本当に、君を好きなんだってこと」
真幸は答えられなかった。頷きを返すことすらもできない。
――男なんて、みんな嘘つきだ。
知らないはずの記憶の影が、真幸の奥深くに揺れている。また裏切られるのが怖くて、立ちすくんだまま動けない。
優は無言のままの真幸に手を伸ばす。驚く真幸の頬に、優の冷たい手の感触があった。
だけど、それは一瞬のことだ。優の手は、束の間の感触だけを残して、真幸の体をすり抜ける。
そのことが、なぜだか真幸を安堵させた。