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アンティークショップは以前に来た時と変わらず、別世界のような空気が流れていた。
店に漂う甘い香り。ゆっくり流れるオルゴールの音。リボンやレースに彩られ、可愛いもの以外を寄せ付けない。なんど足を踏み入れても、居心地の悪さに真幸は尻込みしてしまう。
店の客は、一人だけだった。ちょうど真幸が駆け込んだときに、その客も出て行くところで、うっかり肩がぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい」
慌てて真幸は頭を下げた。
相手は、真幸よりもいくらか年上だ。大学生か、それよりも少し上くらいだろうか。今時分では寒そうな、薄手のワンピースを着た女性だった。
いきなりぶつかった真幸に、彼女は気を悪くした様子もなく、「気を付けて」と微笑んで去っていった。
彼女が店の最後の客だったらしい。今店の中にいるのは、真幸と優と、店員だけだった。店員は、真幸が来たことに気が付いているのかいないのか、一人で歌を口ずさんでいる。
「かわいい、かわいい、かわいい子」
オルゴールの音に合わせて、彼女は歌う。真幸たちに背を向けたまま、カウンターの奥で作業をしているようだ。いつか見たような、チェックのスカーフとワンピース。腰に巻かれたリボンが見て取れる。
「かわいい子が好き。かわいいものが好き」
歌声は、人気のない店内によく響いていた。誰もいないと思ってか、その声量は次第に大きくなっているようだ。
なんの作業をしているのだろうか。彼女の傍には工具が広げられている。アンティーク修繕でもしているのかもしれない。
「優、どう? なにかわかる?」
真幸は店員から目を離すと、優に小声で問いかけた。撮影禁止の注意を受けているので、カメラは構えない。優がどこにいるのかは、今の真幸にはわからなかった。
「優?」
「見て、真幸」
店の一角で、優の呼ぶ声がした。真幸は素直に誘われて、声のした方へ向かう。
アクセサリーの棚の前で、真幸は足を止めた。
「似たようなペンダントがいっぱい」
優の声は、すぐそばで聞こえた。彼の姿は見えないが、示しているだろう場所はすぐにわかった。
あの地味なペンダントと同じものが、ひとつの区画を占拠している。中古の格安品として、投げ売りされているらしい。ペンダントに嵌められた石は、どれもこれも暗く光を通さない、くすんだものばかりだった。ペンダントのみならず、ブローチや髪留めにも加工されているが、元が元だけにあまり心惹かれるものはなかった。
「これ、全部いけないよ」
「いけない……って」
由美が持っていたものと同じだろうか。
「よくない気持ちが込められている。ああ、そうだ、思い出した。だから僕は――」
「かわいい」
優の声を、歌声がさえぎる。
「かわいい格好のかわいい子が好き。かわいい、かわいい女の子」
上機嫌な歌声は、徐々に大きさを増し、いつしか店のどの音よりも大きくなっていた。
かわいい、かわいい。繰り返すその音は、どこか妄執めいて聞こえた。
「……優」
真幸は傍にいるはずの優に呼びかけた。
明らかに異常だった。彼女の声は、いまやオルゴールさえもかき消していた。
歌う彼女の声だけが、店に響き続ける。しかし、彼女は振り向きもしない。座って作業をしたままだ。大声で歌っているはずなのに、彼女の方は揺れもせず、身じろぎさえもろくにしない。
不気味さにおののき、一歩足を引いたとき、真幸の背中になにかが当たった。
店員を見つめる真幸背後にあるのは、商品の飾られた棚のはずだった。ちょうど、優が見つけたペンダントのある場所だ。目の前に立って品物を見ていたのだから間違いない。
だから、誰もいるはずはない。人の立てる場所などないのだから。
「――――かわいい」
背後から聞こえた声に、真幸はぎこちなく振り向いた。
目に映るのは、真幸を見下ろす黒い影だった。棚から滲みだし、ぼんやりとした人の輪郭を描いている。
それは真幸の肩を抱いた瞬間――不気味にゆがんだ笑みを浮かべた。
「かわいい子が好き。かわいい格好のかわいい子が好き。ずっと、ずっと聞いていたい」
歓喜に満ちた歌を、それは真幸の耳に囁きかけた。震える真幸の喉から、悲鳴にならない呼吸が漏れる。
肩に触れる存在が、凍るほどに冷たい。妄念が真幸を捕らえ、飲み込もうとしている。
――――怖い。
「だめだよ」
ぞっとするほどに低い声が、真幸の腕を引いた。
「真幸は僕が先に見つけた。僕のものだ」
黒い影から引きはがされ、真幸は前のめりに倒れた。転びかけた体を、声の主が受け止める。シャツの感触と、知らない男の人の胸。顔をあげれば、前を睨む優の姿があった。
優は真幸の体を抱きとめ、肩を掴んでいた。掴まれている感触がある。触れている感覚がある。真幸よりも背が高く、固い男の体だ。
目を見開く真幸に、優はにこりと笑った。気を落ち着かせるための優しい笑みは、なぜだか真幸の背筋を凍らせる。先ほどの影よりも、ずっと良くないものに触れているような心地がした。
「かわいい子……」
黒い影は、真幸を追いかけ手を伸ばす。うっとりとした歌声とともに、すがるような黒い手のひらが、真幸にもう一度触れようとする。
暗い、深い妄念が、少女を求めている。
「あげられないよ。彼女は僕のかわいい子だから」
その黒い手を、優が掴む。握りしめられた影は、逃れようと身じろぎをする。が、優は離さない。暴れくねる手をおさえて、彼は一人、涼しい顔をしていた。
暴れる影は、優に掴まれた手の先から、ゆっくりと溶け出した。どろり、どろりと重たく溶け、少しずつ形を小さくする。小さくなるほどに、苦しげにもがくが、いつしかそれも止めた。
「かわいい、わたしの――――」
すべてが溶けて落ちたとき、歌声は聞こえなくなっていた。
オルゴールの音だけが、静かな店に響いていた。
泥のたまりも消えたとき、カウンターにいた店員がはっとしたように立ち上がった。背を向けていた入り口に振り向き、真幸たちを見て、しばらく瞬きをする。
それから、慌てたようにカウンターから出てきた。
「あら、すみません。いらっしゃいませ。おひとりさまでしょうか? お好きに見て行ってくださいね」
愛想よく笑う彼女に、真幸は会釈した。
優の姿はもう見えない。肩に触れた手の感触も、幻みたいに消えている。
結局またしても、なにも買わずに真幸は店を出た。
冷たい風の中、まだ非現実の中にいるような心地だ。だけど優の姿は見えないし、触れられない。カメラを構えて、はじめて確認できる。
「優」
「なに?」
そう問われて、真幸はすぐに言葉が出てこなかった。どうして優の姿が見えたのか、優に触れられたのはなぜか、疑問はいろいろある。
「あれも、やっぱり幽霊だったんだよね?」
だが、出てきたのはそれらの疑問のどれでもない。核心に触れるのを避けるようにして、真幸は言葉を投げかけた。
真幸の問いに、さあ、と優はあいまいに答えた。
「僕には生きているものと死んでいるものの区別はつかないから、どっちかはわからないよ。でも、やっぱり『悪いもの』だったね」
「……私の友達は、もう大丈夫なのかな」
「たぶんね」
優はいつもと変わらず、飄々と答える。
「あの影は、ペンダントに感じたものと同じだったから。ペンダントに対して、なにか強い思い入れがあったみたい」
「思い入れ……」
なぜだろう、と真幸は思った。
かわいいものが好き。かわいい子が好き。そう言っていたのに、他の無数のかわいいものではなく、よりにもよってあの地味なペンダントに、影は憑りついていたのだ。
あの影の、死の間際の持ち物だったのか。かわいくないペンダントだからこそ、かわいいものに憧れた――とか?
考えても答えは出てこない。だけど、そのことはずっと真幸の心に引っかかっていた。




