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篠原真幸には、二つの大きな悩みがある。
一つは、同級生の四ノ宮あこ。真幸のクラスメイトで、斜め前の席に座る彼女は、クラスで少し浮いた存在だった。
神社の孫娘だからだろうか。彼女はどこか、浮世離れした雰囲気がある。特別親しい友人もなく、いつもクラスでは一人きり。伏せがちな視線は憂いが滲み、声を上げて笑うことも怒ることもほとんどない彼女は、同年代の女子よりも、一回り大人びて見える。腰まである長い黒髪に、陶器のような白い頬。人形めいた彼女の容姿は、整っているからこそ近寄りがたい。
真幸も、なんとなく彼女を苦手とし、自分から声をかけることはなかった。あこもまた、積極的に話しかけるような人間ではなく、同じクラスでありながら、ほとんど言葉を交わしたこともない。互いに空気のような、交わらない関係だった。
二週間前の、十一月も入りたての寒い日。あこから声をかけられるまでは。
「――――篠原さん、あなた、憑いているのね」
いつものように登校し、いつものように教室の自席に向かう朝。すれ違いざまに、あこはそうつぶやいたのだ。
○
なにを隠そう、真幸には憑いている。
寒風吹きすさぶ駅通り。ビルの谷間を縫うように、真幸は足早に歩いていた。
手には使い慣れた、一眼レフのデジタルカメラ。学校帰りのため、服は制服のまま。上から羽織った秋物のコートだけでは、もうここ最近の寒さを防ぎきることはできない。
秋も終わりに差し掛かり、空気は冬の気配を含んでいる。北風は冷たく吹き付け、真幸の短髪を容赦なく掻き乱した。むき出しの耳がしびれるように冷えていた。
真幸は足を止めないまま、寒さを堪えるように、ぎゅっと肩を縮めた。
駅の表通りを少し外れれば、人気のほとんどない裏通りにたどり着く。駅前の再開発で、ほとんどのビルが退去した静寂の通り。廃墟めいたビルとビルにはさまれた路地裏を、真幸は覗き込んだ。
錆びた通用門には、まだ生き残っている居酒屋の、積まれた空のビールケース。壁に張り付く排気口は、据えたにおいが吐き出し続ける。灯りらしい灯りはなく、昼も夜も変わらず薄暗い場所だった。
ぽつりぽつりと裏通りに残るのは、いかがわしいピンクの看板だ。まだ開店前らしく、店に入る人もなければ、店に引き入れようとする人もない。ひとけのない通りは、寒々しい不気味さがあった。
こんな寂れた場所など、女子高生は好んで立ち入らない。普段の真幸なら、一人で決して足を踏み入れたりはしなかった。
だが、そこを敢えて行かねばならない。真幸にはそれだけの理由がある。
ビルの隙間の路地裏に足を踏み入れ、狭い道をしばらく行くと、少しだけひらけた空地に出る。四方をビルに囲まれ、ぽかりと空いた四畳半程度の小さな空間。ビルに切り取られた空も、ここだけはかすかに照らしてくれる。沈みかけの太陽の切れ端が、赤く空に滲んでいた。
真幸がその空き地に足を踏み入れると同時に、風が消えた。かわりにどこからか、唐突な冷気が足元から立ち上る。路地裏には似つかわしくない、まるで冬山のように、奇妙に澄んだ空気だった。
「…………ああ、真幸。今日も来たんだ。懲りないねえ」
満ちていく空気の中で、おっとりと間延びした声がした。耳元で囁くようなその声は、男性にしては少し高い方だろう。穏やかでやわらかく、耳に心地よい。
声は鮮明だった。しかし路地には誰もいない。真幸ひとりだ。耳元で聞こえたはずなのに、音源はどこにも見当たらない。
真幸は少し顔をしかめてから、首から下げていた愛用のカメラを手に取った。冷たい空気の濃い方向へレンズを向け、覚悟するように息を吸ってから、覗き込んだ。
そこに映るのは、レンズに切り取られた路地裏の景色。薄汚れたビルの壁と、目の詰まった排水溝。錆びついた外階段。斜めの光に伸びる影。それから、一人の青年だった。
フィルター越しに見えるのは、今にも掻き消えそうな、繊細な顔立ちの美青年だ。面長で色は白く、ともすれば女性に見えるだろう。一重まぶたは柔らかく細められ、薄い唇は穏やかな笑みを形作っている。華やかな容貌ではないが、気が付けば見つめてしまうような、不思議な魅力があった。
彼は微笑みながら、真幸に向かって首を傾げてみせた。カメラ越しの真幸の視線を、彼は慣れたように受け止める。
「まあ、僕は真幸が来てくれて、すごく嬉しいから大歓迎だよ。ずっとここで一人だと、腐っちゃいそうだし」
くすりと笑う彼の表情は、はかない。雰囲気だけではない。物理的に、彼ははかない人だ。
カメラ越しに見る青年の姿は、背後の景色を透過している。顔から上半身までは、それでもはっきりと造作を見ることができるが、手足の先は輪郭すらも曖昧だ。そして時折、ふわりと浮く。
カメラを置けば、真幸に話しかける青年の姿はどこにもない。薄暗いビルの谷間に、真幸が一人立っているだけだった。
「もしかしたら、体のほうはとっくの昔に腐っちゃったのかもしれないけどね」
ただ、声だけが明瞭に聞こえる。
彼こそが、真幸の二つ目の悩みだった。