家族
「あんたあたしを、アル中だと思ってなめてんだろ。」
女は言った。時間はまだ夜の八時にしかならないが、彼女はすでに相当酔っていた。キッチンの床には空けられたワインの瓶が2本転がっている。小学4年生の娘がその空き瓶を片付けようとしていた。その表情には、また始まるんだ、という大きな不安が張り付いていた。
「なめてなんかいないさ。」男は努めて冷静に言った。「ただ、君を思ってのことだ。」
「あたしを、『思って』!?」
女は突如高い声で笑い出した。その背後に、不安げにこちらを見る娘の姿があった。男は娘に向かって、上に上がっていなさい、と手で合図した。女はそれに気がつき後ろを振り向いた。
「美和子。」
名前を呼ばれた娘は一瞬びくりと震えたように見えた。しかし、逃げ出すわけにも行かず、わなわなと震えたまま、母親の顔を見つめていた。女は娘の方に片腕を伸ばした。しかし相当に距離があるため、その手は半分も届かなかった。それでも女は身体を伸ばして、娘を抱き取ろうとしているようだった。
「もう上に上がっていなさい。」見かねて男は言った。
「美和子、美和子。」女は娘を求めた。娘は理性を失った母親にすっかり怯えてしまって、そこから動くことが出来ない。不安な顔で、父親を見た。
「美和子、美和子...、そんな顔しないで。美和子も、お母さんが、好きだよねえ。」女は猫のように優しい声で娘に呼びかけた。
「嫌い。」娘は怯えながら言った。
「嫌い?」ふと、女の動きが止まった。そしてまた、甲高い声で笑い始めた。その笑い声に部屋の壁が共鳴してきんきんという金属的な音が聞こえた。
「嫌い?嫌いだったの。」
女は言った。
「嫌いだったの、美和ちゃん。嫌いだったの?」
女の声が急に勢いを無くした。
「そうね、お母さんアル中だもんね。またお酒、飲んじゃったもんね。...お母さんも嫌いよ。美和ちゃんなんて。お母さんを嫌いって言う、美和ちゃんなんて。」
女は冷たいフローリングの床に座り込んだまま、俯いてぼそぼそと言った。
「お酒なんて嫌い。お母さんを不幸にするもの。」
女はそう言うと、まだ手元に残っていたワインを瓶からぐいとあおった。
「お父さん、離婚するの?」
娘が父親の顔を見ていった。「お父さんとお母さん、離婚するの?」
「離婚?離婚?そうよ、離婚するのよ。」
女が言った。
「お父さんとお母さんは離婚するの。また楽しい女の子に戻るの。」
彼女は若い頃から重度のアルコール依存症だった。
それでも、結婚し、娘が生まれてしばらくするまでは酒を断っていた。初めのうちは禁断症状が出た時期もあったが、それも時間と供に落ち着いてきたので、周りはすっかり直ったと安心していた。
しかし、娘が大きくなり、しだいに手がかからなくなってくると、彼女はまた少しずつ酒に手を出すようになった。夫が買ってきていた数本のワインを勝手に開けて飲んでいたこともあった。夫はその兆候が現れだしてから、家では酔ったところを見せず、酒も置いておかないようにしていたが、彼女はそれでも、自分で近くのコンビニに出かけては、漁るように酒を買ってきて、彼が帰ってくる前にすっかり飲んでしまうのだった。
「お母さん達は、離婚するの、こんなお家を出て行くの。」
女は歌うように言った。
なかなか飲酒を止めない妻に、男は、今度飲んだら、離婚すると言っていた。女はそれから、3ヶ月は辛抱した。しかし、今日になって、彼が会社から帰ろうとすると、先に帰っていた娘から彼に電話があった。
電話口の娘は、震える声で言った。
「お父さん...お母さんが、また飲んでるの...。」
男は急いで家に帰り、靴も脱ぎ捨てたまま家に上がった。そして、リビングの扉を開けると、その向こうには、もはや立っていられないほど泥酔した彼の妻がいた。
「おっかあさんたちはね、好きらったのよ。」女は言った。
「でもね、すきらったのはどっかいったの。だから離婚しちゃうの。バイバイしちゃうの」
女は突然泣き始めた。小さな声で何か言っているようだったが、その声は聞き取れなかった。
娘は心配そうな顔で母親を見つめていた。娘はこれまで真っ直ぐに育った。この子の将来のためにも、離婚した方が良いかもしれない。男はそう考えていた。
「お父さん」娘は父親の顔を見て、言った。
「お母さんと離婚しないで。」娘は不安げな顔で訴えた。
「お母さんのことを嫌いなんだろう。」男は言った。妻の耳に入るのを承知しながら。
「じゃあ、離婚した方が良いじゃないか。」
「かわいそう。」娘は言った。「お母さん、かわいそう。」
娘はそう言うと、うなだれた母の背中を支えた。母親はそれすらも認識できていないようだった。
「あたし達が、一人ぼっちにしたのよ。知らない町で、友達も上手く作れないのに。」娘は、泣き続ける母親の背中をさすった。
「これで、離婚しちゃったら、お母さんもっとひとりぼっちになっちゃう。」
娘はそう言って、母親の顔をのぞき込んでいた。泣いている妹を心配する姉のような仕草だった。特に教えていなくても、彼女はすでに思いやることを覚えたようだった。
男はその様子を見ながら、しばらくリビングの入り口に突っ立っていた。そして、まだ帰宅したままの格好であることに気がつくと、慌ただしく書斎に戻り服を着替えた。彼が再びリビングに戻った時には、すでに娘と母親の姿はそこにはなかった。
どこへ行ったのか。男が家の中をうろうろしていると、二階から、娘だけが静かに下りてきた。
「お母さんは?」
男が尋ねると、娘は微笑んで、
「もう寝た。」と答えた。
男は小さな娘の身体を抱きしめた。娘も、懸命にしがみつくように、細い腕で彼女の父に抱きついた。
父親に抱かれながら、娘は泣いているようだった。今までずっと我慢していたものが、一気にわき上がってきたという様子で、父の体に顔を埋めて、声を上げて泣きじゃくった。
後ろで一つに結われた娘の髪を撫でながら、男は、この子の将来と、この家庭のあるべきかたちについて、思いを巡らしていた。
娘の、その髪の結い方は、彼女の母が彼女に教えたものだった。
『キッチン・ドランカー』という社会問題に衝撃を受けて、一気に書き上げた作品です。
心を病んだ人間の狂気と悲しさが、読んでくださった方に上手く伝わっていれば、この小説は成功だと思っています。