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雑記帳  作者: 風花ふゆ
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Hさんのこと

 最近、思い出されて仕方のない生徒がいる。

 彼女のことを、Hさんと呼ぼう。当時、中3生だった。


 彼女は、私の勤める塾に通っていた。背が高くて、髪が長くて、基本的には無愛想で無気力。成績は、お世辞にも良いとは言えない、底辺のほう。

 彼女には弟がいた。弟は5つ下で同じ塾に通っていた。

 あと数ヶ月で産休に入るところだった私は、彼女の授業を受け持つことになった。男の先生は苦手だということだったので、私に回ってきたのだが、どういうわけか、わりとすぐ懐いてくれた。

 懐いてくれてわかったが、彼女は案外おしゃべりだった。そのせいで、時折授業が進まなくて困ったこともあった。その話の内容は取り止めのないものだったり、愚痴っぽいものがほとんどだったのであまり覚えていないが、一つだけ今でも覚えていることがある。


「うちのお母さんは、弟にはお金を出すって言っている。私には出さないんだって」


 その意味が、その時の私にはよくわからなかった。しかし、どう返答したものか見当がつかず「そうなんだ」と素っ気ない言葉しかでてこなかった。

 その後も、Hさんのお母さんの話は時々出てきたが、あまりよい関係ではなさそうだった。時折出てくる「お母さんは私のことが好きじゃない」といった感じの発言が、思春期特有の関係性から来るものなのか、歪んだなにかがあるのか。一講師の私にはそれ以上踏み込むことはできなかった。

 そのうち私は産休に入ることになった。「私の好きな先生はいつもいなくなっちゃう」という彼女に、「合格発表の日には来るからね」と約束した。

 ところが、合格発表前日に、私は熱を出して寝込んでしまった。発表当日の朝になっても下がる気配はなく、行くのを断念せざるを得なかった。何でよりによってこんな日に、と思ったが、熱で思考回路がよく回らず、正直言って彼女のことまで考える余裕はなかった。

 発表の翌日、現場にいた人から彼女が合格したことの連絡があった。そのとき、とりあえずほっとしたのを覚えている。同時に、合格発表の日には行くと言ったのに、という罪悪感が頭をもたげた。

 しばらくして、私は職場復帰をしたが、彼女は受験終了と同時に辞めていたため会うことはかなわなかった。

 でも、彼女の弟は通っていた。私の出勤時間と、彼の授業の時間がうまく合わなかったので、弟と久しぶりに会ったのは復帰から一年以上過ぎていた。

 その間、弟は私立中学へ進学していた。弟は姉と違って勉強ができたので、親が行かせてくれたらしい。もやもやした気持ちを隠して、彼に会ったときに訊いてみたのだ。お姉さんは元気か、と。彼は答えにくそうに言った。


「今、家にいないんです」


 一瞬、彼の返答の意味がわからなくて、言葉が出てこなかった。

 

 だって、彼女は家から近い高校に合格していたはずだから、家から通っているのではないの? 特に問題なければ、今、高校二年生になっているでしょう? 家にいないって、どういうことなの?

 

 訊きたいことは山のようにあったけれど、弟に訊くのは酷だった。

「もし何かあれば連絡してねって、お姉さんに伝えられたら伝えてね」

 と、私は言った。弟は頷いたが、複雑そうな表情だった。

 

 弟もまた、久しぶりの再会から一年以内に辞めていった。辞めた理由は知らない。

 彼女の家とつながるものは一切なくなった。

 Hさんから連絡があったことは一度もない。それはそうだ。私はほんの数ヶ月彼女の授業を担当したことがあるだけで、塾の責任者でもない。一講師とその生徒という関係の、それ以上でもそれ以下でもないのだ。



 それからまた、だいぶ時が過ぎた。なぜ、今になって、彼女のことが気になるのだろう。それがわからなくて、今こうして思い出しながら書いている。

 辛いことや苦しいことがあっても、前を向いて生きていてくれたらと願う。

 この願いを言葉にして、言葉が言霊になって、言霊が彼女の心を暖める一筋の光になる。それは、とても細い細い、目に見えないような光だろうけれど。どうか届いてほしいと、祈っている。

 

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