篠宮宗士の一周忌
三 篠宮宗士の一周忌
夕飯が終わって談話室に集まり、ソファに黎一と藤臣が、床に菊弥が、その向かいに椅子を持ってきて雪成が座っていた。部屋の明かりは消えている。どこから見つけてきたのか、燭台に立てられた蝋燭が二本だけ灯っている。それらしい雰囲気だ。
「さて、誰から話す? やっぱり言い出しっぺの僕からかな」
「俺でもいいぜ。どっちにする?」
「うーん、じゃあ佐枝くんから。面白い話、期待してるよ?」
ぱちん、と白く華奢な両手を鳴らし、雪成は嫣然と笑った。
「――宗士先輩の一周忌。始めようか」
そんなに長い話にはならねえかもしれねえけど、まあ許してほしい。
俺の祖父ちゃんの家は稲荷神社なんだけど、両親は神社とは関係ない職についてる。近所ではあったから遊び場のひとつにはしてたけど、俺はあんまりいなかったな……近所の河原を駆け回ってるほうが多かった。
俺は昔から見ての通りやんちゃばかりしててさ、菊弥とは幼馴染なんだけど、体格も昔からよかったから、菊弥のことは弟みたいに思ってた。ああ怒るなよ、判ってる、俺のほうがひとつ下だよな。でも菊弥はガキの頃から小さかったから。
喧嘩するなら勝つまで帰るな――それが俺の母親の信条でな。昔から言われてた。だから、喧嘩になったら勝つまでやめなかった。
俺が八歳で、菊弥が九歳のときだった。
寒い冬の話だ。十二月――菊弥は十月が誕生日だから、九つになったばかりだったんだよな。
俺は、菊弥を殺しかけた。
……ああ、判ってる。菊弥が気にするなって言いたいことぐらい。でもな、今もこめかみに……ほら、痕が残ってる。これだよ、俺が犯した罪だ。
やんちゃしてたって言ったろ。まあ今も似たようなもんだけどさ。……突き飛ばしたんだ、菊弥のこと。
何でだったかも覚えてる。むかついたんだ。菊弥があんまり、教師みたいなこと言うからさ。喧嘩は駄目だ、危ない遊びは駄目だって、何度もな。それに腹が立って、思わず祖父ちゃんちの神社の石段の上から突き飛ばした。
雪が降ってた。降り積もってて、柔らかい雪のお陰で助かったんだろうって言われたよな。でも俺は今も覚えてるんだ。突き飛ばした瞬間の手の力も、菊弥が止まることなくふわっと飛んで行ったことも、ぶつかったごりって音も、雪に滲んだ赤い血のことも。
救急車ですぐに運ばれて、俺は家に帰された。
その夜だったよ。
夢を見たんだ。狐の夢だった。白狐が、市河菊弥を突き飛ばしたのはお前か、って言うんだ。そうだって泣きながら頷いた。悪いことをした、菊弥に痛い思いをさせる気はなかった、死なせたくない、助けてくれって頼み込んだ。
そうしたら狐は言ったんだ。
これから何があっても、市河菊弥を守ること。
それが約束できるのなら助けよう――ってな。
だから俺はセンパイ曰く「王子様」をしてるってわけだ。菊弥を守るために、ここに残ったんだよ。
ああ――それから、言ってないことがひとつある。
篠宮宗士のこと、俺は知らねえだろうって、あんたらは言ったよな。ってことは、宗士から何も聞いてねえんだな、誰も。
俺が宗士の一周忌に頷いたのは、理由があるからだ。
あいつ、俺の従兄なんだ。母方のな。これは菊弥にも言ってねえから、驚いたろ? だから一周忌をするなら、俺にも参加する義務はあるんじゃねえかと思ったんだ。
菊弥が落ちて大怪我したとき、どうやって仲直りすればいいか相談したのは宗士だった。宗士はいいやつだったよな。でも思いつめたりするところもあった。だから窓から落ちて死んだって聞いて、やっぱりなって俺は思ったよ。そういうところ、あるやつだった。
入学した年だったと思う。好きなやつができたって、俺に相談したことがあった。まあ俺はさ、女関係も結構やんちゃしてたから、相談しやすかったのかもな。
そのときに言ってたんだよ。
告白しろって言った俺に、「知られるくらいなら死んだほうがまし」だってな。だから知られたのかもしれない。判んねえけどさ。
ああ、それに。
俺がいなきゃ、三が足りないだろ。それもこの話に頷いた理由のひとつなんだ。
市河菊弥の一、双葉黎一の二、篠宮宗士の四、五十嵐雪成の五。
な?
三は、佐枝藤臣の、三だ。
藤臣の話が終わって、沈黙が落ちた。
誰も、まさか親族がいるなんて思いもしていなかったせいだろう。向かい合っている雪成は、蝋燭の明かりだけでよく判らないが蒼褪めているように見えた。
「面白くもねえ話だったかな、悪い」
「いや、親族だったとは知らなかった。お悔やみを申し上げる」
「ありがとな、センセ」
菊弥は俯いて、手を握りしめていた。そんなことは知らなかった。思いつめる性質だった。それを知っていれば、菊弥は――。
「大丈夫か?」
「え?」
「顔色、すげえ悪い。今日はもう切り上げるか?」
黎一も、雪成も菊弥を見ていた。片手で顔を擦り、頷く。
「……ごめん、事故のこと思い出して。申し訳ないんですが、今日は切り上げさせてもらってもいいですか」
「体調不良者が出たのだから当たり前だ。部屋まで送ろう」
「いや、俺が送るからセンセはここにいろよ」
腕をとって立ち上がった藤臣を振り払い、黎一の腕をとった。今は藤臣と一緒にはいられない。強く、そう思った。
「……双葉先生にお願いするよ。藤臣は、片付け頼む」
「……大丈夫か?」
「大丈夫。ありがとう」
黎一に支えられるようにして、談話室を出た。
黎一はベッドに菊弥を寝かせ、冷たい手をそっと額にあてた。熱が出ていないことを確認したのだろう。そのまま退室するでもなく椅子を引き寄せ、ベッドのそばに座った。
「佐枝はひどく君を大切にしている。その理由に納得した」
「……事故のことですか? 藤臣は気にしすぎなんです」
「そんなことはない。良い青年だ。……あの神社を、佐枝が継いでくれればよいのだがな」
「それは不良宮司すぎませんか」
思わず笑ってしまった。
「市河は、私に何か話があったのではないのか?」
だから藤臣ではなく黎一を選んだのではないのか、と言われている。逡巡して、両手で目元を覆い、深く息を吐いた。
「先生が、俺のこと好ましい、結婚の約束をしたっていうのって」
「ああ」
「告白ですか?」
「……少し違う。確認行為だな。市河は覚えていないだろうが、私は覚えているから、嫁にもらう。そういう話になっている」
なっている、とはどういうことだろう。
手の隙間から黎一を見ると、ひどく穏やかな顔をしていた。
「――私は、人ではない」
「は?」
「人間ではない。人のふりをしている、狐だ」
そんなわけはない。今まで菊弥は気付かなかった。しかしそれを示すように、黎一の背後にある影がゆらりと揺れて狐の形をとった。あがりそうになった悲鳴を堪える。人間ではないもの。関わってはいけないと、祖父に言われていたもの。
「市河に気づかれないよう化けるのは苦労した」
「……どうして、嘘でしょう?」
「どう思う?」
判断ができない。その判断は、いつだって藤臣がしていた。
黎一が本当に人ではないのだとして、だったら嫁にほしいと言われているのも頷ける話だ。中学生くらいの頃だった、なんてこともないのだろう。二十七という年齢も作ったもののはずだ。
けれども疑心はなかった。
菊弥には幼い頃、いつだって狐が出迎えてくれた。あれが黎一だったのではないか。こんな冗談を言うようには見えない。だとしたら。
「……藤臣のお祖父ちゃんのところの稲荷神社、あれは先生のおうちですか?」
「私の家というと語弊がある。私が管理を任されている、ということだ」
「貴方の嫁になるのだと、俺はあの頃言いましたか?」
「昨夜夢で見せたろう? 思い出してほしかった、介入してすまなかった」
夢へ介入されていただなんて気づかなかった。
藤臣がいなければ、菊弥は人かそうでないものかの区別がつかない。明らかに人でないものは別だが、そうでないものは判別できないのだ。
だから黎一が本当のことを言っているのか、嘘を吐いているのか判らなかった。黎一が嘘を吐く必要があるだろうか。ないだろう。だったらこれは本当のことなのか。あの狛狐は、黎一だったのだろうか。
「信じられない、という顔をしている」
「……信じられませんから」
「そうか、では」
立ち上がった黎一は、くるり、と予備動作なく低い天井にぶつからぬ程度に飛び上がって回転した。着地したときには、毛並みのいい白く大きな狐に変化していた。
「ッえ」
それ以外の言葉が出なかった。
白い狐の目は金色で、形から狐だろうと思ったというだけで実際の狐の何倍もの大きさはある。それが口を開き、黎一の声を聞かせた。
「これで信じられるか?」
「――そんな」
「私は君の助けになりたい。私のことを信じてくれないだろうか」
必死で何度も頷いて、ベッドから降りた。床に敷いてある絨毯に座って、そうっと手を伸ばす。鼻先が触れた。すり寄った黎一の、柔らかい毛の感触が頬を擽る。
「君には私の本当の名を教えよう」
「本当の、名前」
「――黎明。宇迦之御魂大神様にお仕えする狐の一族のものだ」
「うかの……?」
宇迦之御魂大神とは稲荷神のことだそうだ。伏見稲荷大社の主祭神で、お狐様はみな、この神に仕えている。もともと船岡山にいた夫婦狐が五尾の子を連れて宇迦之御魂大神に下った。その五尾のうち、長男の息子であると説明を受ける。
「それって……結構偉い狐ってことですか……?」
「父は。私はそうでもない」
「それ本当ですか……」
疑わしい。
「私を信じてくれるか、菊弥」
「……昔はそう呼んでたんですね」
「私は今は教師をしている。菊弥だけ特別扱いはできないが、それでも見守っていたつもりだ」
頭が固い。
そのことに思わず笑ってしまった。
「綺麗ですね、先生」
「私よりも美しい狐は多い」
そういうことを言っているのではないし、他の狐のことなど知らない。菊弥は腕を精一杯伸ばして黎一の首に回した。先生。すん、と鼻を鳴らすと香のような香りがした。
「怖いものから、守ってくれる……?」
「必ず。そういう約束をした」
黎一はもしかしたら知っているのかもしれない。菊弥の罪を。
それでも今この瞬間、少しだけでいいから、甘えていたかった。