狐の絵
二 狐の絵
夕飯後風呂に入ってから部屋の扉が鳴ったのでてっきり藤臣だとばかり思い、キャンバスに向かったまま「入れば」と返してしまって後悔した。
扉を開けたのはスリーピースのスーツを気崩していない黎一で、少しいいか、と平坦な声を掛けられたものだがら慌てて振り返った。何かやらかしただろうか。思わず立ち上がったが、そのままで、と片手で制されてしまった。
「市河の絵を見に来た。いいだろうか」
「ああ……構いませんよ、もちろん」
去年もそういえば、同じことを言われたのだと思い出した。黎一はどうやら菊弥の絵が好きらしく、夏休み中、よく顔を出していたし、外へ絵を描きに出るときは決まってついてきていた。何をするでもなく、ただ描いている絵を眺める黎一が、唯一問いかけたのは続けないのかということだった。
「――今年も、狐の絵が増えているな」
部屋を見渡して、どうしても消せなかった狐の絵が増えていることに気づいたらしい黎一は嬉しそうだった。描いては塗りつぶし、描いては塗りつぶしを繰り返す菊弥が、唯一残しているのが狐の絵である。
「……はい。みっつほど」
「これと、これと……それか」
「よく覚えてますね」
「記憶力はいいほうだ」
そんな気はしていた。
「今描いているのは、狐ではないな」
「ああ、これは――」
昼間に見た、海で死んだ霊の絵だ。
「……ちょっと、違いますね」
「市河の絵は恐ろしいと、教師の間では評判だな。本当に霊を見ているのではないかというほどだ、と話題に上っているのを聞いたことがある」
「……どう思いますか?」
「うん?」
試してみたところはあった。本当に黎一が菊弥を好ましく思っているのだとして、それが生徒へ対する愛情であれ同情であれ、好印象があったとして、果たしてこの目や耳が、受け入れられるだろうか。
「そうだとしたら、どう思います? 本当に俺に、幽霊が見えていたら」
「見えているんだろう?」
「え?」
息を呑んだ。そんなことは黎一には言っていない。少なくともこの学校に入ってからは、一度しか口にしなかった。その相手も、今はもういないから藤臣以外誰も知らないはずだ。
それなのに黎一は、さも当たり前であるかのように淡々と言った。
「見えているだろう。私は……それが市河のような人間にとっては苦しいことであると、聞かされたことがある」
「聞かされたって」
「叔父にな、教えられた。叔父がもらった嫁も見える人間……見る鬼と書いて見鬼というのだが、随分苦労したと聞いた」
身近にそういう相手がいたことは純粋に驚いた。返す言葉を失っていると、掛けてもいいか、とベッドを指す。頷いて、キャンバスに向けていた椅子を動かして向き合った。
「先生は、そういう方をよく知っているんですか?」
「どのくらいか、親族にはいるな。苦しんだ者、受けた過誤ゆえに何も見ず過ごした者、いろいろだ。市河は苦しんだほうか?」
「……そうですね。こんな話、久しぶりにします」
幼い頃から妙なものが見えていた。それゆえに両親は気味悪がり、妹が生まれていたこともあって祖父母に預けられるに至った。藤臣と出会ったのはその頃だ。その頃すでに藤臣はやんちゃをしていたが、それでも菊弥には優しかった。菊弥が怯えると、いつも手を繋いでくれた。他の人間に見えるものなのかそうでないものなのか、判別してくれていたのは藤臣だ、と言うと、合点がいったように黎一は頷いた。
「だから仲がいいんだな。佐枝は市河を守ろうとしているだろう」
「それはまた別の理由です」
「訊いても?」
「うーん、俺はもう気にしていないので、言わないことにします」
開いた脚の間に指を組み、しばらく黙っていた黎一は、静かな声で呟いた。それがあまりに切実に聞こえ、菊弥はひどく驚いた。
「……他に覚えていることは?」
「他、ですか」
「市河はどうして狐の絵を描いている?」
「それは……」
近所に稲荷神社があった。そこへ行くと、菊弥は何かに守られるように何も見ずに聞かずに済んだ。死者の姿も、声も、聞こえない。絵を描くことを知らなかった幼い菊弥にとって、あの場所は唯一、存在を許されている場であるような気がしていた。
「近所に稲荷神社があったんです」
「そうか」
「そこが大好きで。……もしかしたら、お狐様に好かれていたのかもしれません」
知らないうちに、狐に守られていたのではないかと、思っていた。
「稲荷神社は信仰し始めると、ずっと信仰を続けなければ狐に祟られるという噂がある」
「ああ、そういうのも聞きますね」
「それは嘘だ。狐は慈悲深い。いや、稲荷神が慈悲深い、というべきだろうか」
慈悲深い狐が、あの稲荷神社にいたのだろうか。だから菊弥は、守られていたのだろうか。そうかもしれない。だからあの神社にいる間は安心できた。藤臣がおらずとも。
「市河は狐に守られるのは嫌か?」
「え? どうでしょうね、実際に会ったことはないんで判らないですけど……人でないものと関わっちゃいけないって、お祖父ちゃんによく言われていました」
「……そうか」
「でも、守ってくれるなら……お狐様のお陰で他のものが見えなくなるなら、お願いしたいです」
じっと黎一は菊弥を見つめた。様子を伺っているようでもあった。それが本当であるのかを確かめるように。
やがてそうか、と息を吐くように頷いて、珍しく、柔らかく微笑むので驚かされた。
「私は市河の絵が好きだ。これからも描いてほしいと思っている」
「……ありがとうございます」
「狐も、もっと描いてくれると嬉しい」
「はは、考えておきます」
黎一は狐が好きなのか。だからああいう話をしたのかもしれない。
次の絵は狐にしようと決めた。
夏休みの宿題は早く終わらせるに限る。
藤臣と談話室で宿題を広げていると、雪成が通りかかった。外へ出る途中のようだ。
「仲、いいんだね。二人」
「ああ、幼馴染なんです」
この話をするのは夏休みに入って二回目だ。わざわざ口にしたりはしないから、学校の人数が少ないとはいえ知られていることでもない。そもそも雪成とは、名を知っている程度の関係でしかないのだから当たり前だが。
「そうなんだあ……」
じいっとこちらを見た雪成は、談話室に入ってソファに腰かけた。出かける途中ではなかったのだろうか。玄関のほうへ向かったように見えたのだが。
しばらく宿題をする様子を眺めていた雪成は、ぽつりと何かを口にした。首を傾げると、何でもないんだけど、と笑いながら言いなおす。
「市河くんって、王子様が二人いるみたいだね」
「はあ?」
本当に意味が判らなかった。
「双葉先生と佐枝くん。二人の王子様に守られるのって、どんな気分?」
「王子様も何も、片方は担任で片方は幼馴染ですよ。昨日の話、まだ引きずってるんですか?」
「――狡いよね、双葉先生も佐枝くんも独り占め、なんてさ」
何を言われているのだろう。困惑がすぎた。独り占めなどしているつもりはないし、仲良くしたいのならそれこそ、黎一に関して言えば部屋へ行けば歓待してくれそうな空気だった。藤臣にしたって、幼馴染だからという以上に、あの時のことがあるだけだ。勝手に責任を感じて、それを自分に許していないだけ。それだけだから、それ以上ではない。王子様なんて以ての外だ。
「あの」
「俺は王子ってガラじゃねえな。あって騎士だろ」
「うわ、自分で言う……」
「菊姫を守るナイト、ってね」
からかうように低く咽喉奥で笑った藤臣は、そのネコ科の肉食獣染みた目をちらと雪成に投げる。可笑しそうに笑ってはいるが、目線は獰猛だった。
「白雪姫はナイトをご所望か? それとも王子様か」
「……その呼ばれ方、嫌いなんだ」
「だったら菊弥に言いがかりつけんじゃねえよ。別に俺は王子気取ってるわけじゃねえんだから」
険悪になってしまった。
藤臣の袖を慌てて引くと、肩を竦める。雪成はしばらく黙っていたが、謝罪を口にして出ていってしまった。どこへ行ったのかは知らないが、あまりいい感情は持たれていないのかもしれない。黎一か藤臣が好きなのだろうか、と思ってしまうのは、昨日の話が頭に残っていたからだろう。同性だ。それを考え直して首を振る。少女染みた雪成の容姿も関係しているかもしれない。
「何で喧嘩売るような真似するんだ」
「ナイトだからな」
ふざけた返答だ。
「毒リンゴ、仕掛けてきたな」
「だからそれ、何なんだよ」
「菊弥は昔から見えないものに敏感だった」
片手でシャーペンを回しながら苦笑する。その姿があまりに様になっていて、これで金髪でさえなければな、と思わずにはいられなかった。見た目が完全に不良なのに、仕草が妙に色っぽい。
「その代わり、見えるものに対して鈍感だ。だから心配してるんだろ」
「……そう?」
「気づいてなかったのかよ。そりゃ俺も心配になると思わねえ?」
見えないもののことばかりを考えていたのは事実だ。幼い頃から「他の人間に見えないもの」は菊弥のすぐそばにあった。いつだってはっきり見えて、それが恐ろしくて稲荷神社で泣いていたこともある。
迎えに来てくれるのは、いつも藤臣だった。
「……迷惑かけてごめん」
「かけてるのは心配だ、馬鹿」
藤臣の優しさが有難かった。
菊弥は祖父母に育てられている。だから、和食が多かった。
ビーフストロガノフ、という料理を初めて見た、昼食の場でのことである。
「すごい」
「マジで双葉、料理するんだな」
ひそひそと交わしながら席に着く。昨夜と同じように、黎一も座った。菊弥たちが食べだすまでじっと様子を伺っているふうだったが、しばらくして口を開く。
「市河、どうだろうか」
「どう、……美味しいですけど」
「成長したか」
去年と、という意味だろう。
「ものすごく。本当にレパートリー増えたんですね」
「今夜も楽しみにしていてほしい。仕事が早く終わりそうだからな」
「楽しみにしてます」
去年を知っているのが菊弥だけだから声を掛けたのだろう。そう思わなければ黎一の、この菊弥を指す頻度は納得ができない。談笑しながら食べ終わる前、そうだ、と思い出したように雪成が楽しそうな声を出した。
「今夜か、明日にでも、お話しませんかー?」
「お話、ですか?」
「そうそう」
これから夏休みを楽しく過ごすんだし、市河くんと佐枝くんが幼馴染だってこと知らなかったし、と続け、雪成はひどく優雅に笑った。それは去年見た文化祭での白雪姫にすら似た笑みだった。
「――宗士先輩の話とか、しようよ。一周忌としてさ」
篠宮宗士。去年、夏休み明けに窓から落ちて死んだ三年生だった。もう半年もすれば卒業するはずだった先輩だ。
悲鳴をあげそうだった。
それを無理やり堪え、蒼褪めた菊弥をちらと見て、黎一が首を振る。
「一周忌にしては早すぎる」
「そうですけど。学校が始まったら、もうそんな話できないじゃないですか」
「それに佐枝は篠宮を知らない」
それはそうだ。
隣の藤臣を見上げると、少し思案する顔をしてから、頷いた。
「いいぜ、明日なら」
「藤臣? でもお前――」
「ただ形を変えよう」
両肘をテーブルに突いた藤臣は、挑むように雪成を見た。
「一人ずつ、言ってねえことを話す。最低でも他の三人が知らねえこと、でいい。もちろん嘘を混ぜてもいいし、作り話でもいい。それっぽい話ならそれでオーケー。そういうのなら参加する」
「いいね、楽しそう。じゃあ、明日」
「明日夜、談話室で」
日時を最終的に決めたのは藤臣だった。そのままトレーを持って立ち上がり、ごちそうさま、とだけ残して食器を片付けてホールを出ていってしまった。
明日の夜、談話室で。
篠宮宗士の、一周忌が始まる。
部屋で無心に筆を走らせていた。篠宮宗士の一周忌。それが何を意味指すのか、判らないではない。美術室からは何も見えなかった。見えなかったというよりも、菊弥が何も見ようとしなかったのだ。薔薇が育てられているという古い温室は、図書室からしか見えなかった。温室からは、何が見えていたのだろう。
部屋の扉が慣らされた。昨夜のことがあるので筆を止めて返事をすると藤臣だった。入室を促しながら筆を動かし始める。
「俺に話しときたいことはねえか?」
視線を一度藤臣に流し、首を振る。
「俺に話せば、明日話さずに済むぜ」
「何の話? 話してないことなんていっぱいあるよ」
「俺はあんたを守るために残ったんだ」
そう言われても、話すことなんてない。
図書室と、温室。その関係性を知るものはいない。温室は校舎の裏にある。図書室は三階で、美術室は二階だ。窓辺でいつも絵を描いていた。光の入り方が好きだったからだ。図書室も、窓際は陽当たりがよかっただろう。
雪成は、宗士と仲が良かったのだろうか。去年の二人はどうだっただろう。上手く思い出せない。菊弥はこの学校に馴染むのに必死だった。海辺の学校は、そこかしこに「他の人間には見えないもの」がたくさんいた。
「守るって、何から?」
「あんたを脅かすものから」
気にせずともいい、と言っても藤臣は聞かないだろう。話してくれ、ともう一度言われたが、やはり首を振るに留めた。
その二時間後だった。もう一度部屋の扉が鳴ったので、今度は誰だと立ち上がって出迎えると黎一だった。仕事中ではないのだろうか。
「夕飯の仕込みに帰ったからな、一度、市河の絵を見たいと思って」
「……ありがとうございます」
「君の描く狐は、荘厳で、繊細で、優しい。そういうふうに見えていたのか」
「そうですね……そうだと思います」
狐の絵に触れてもいいかと問われた。もう乾いているものだったので頷くと、そうっと丁寧に、優しく指先で撫でる。
とっつきにくい人だと思っていた。よく判らない人だと。
けれどここ数日、もしかしたら去年の夏から、黎一に対する印象は少し変わっているのかもしれない。案外に世話焼きで、カフェイン中毒で、いつも背筋を伸ばしてきっちりスーツを着ている人。そしてなぜかは判らないが、菊弥を気にかけてくれている。
「双葉先生の好ましいって、どういう意味なんですか?」
「そのままだが?」
絵を置いて、振り返る。そのまま部屋の中央でキャンバスに向かっている菊弥の頬を、大きく冷たい手が撫でた。
「……菊弥」
名を呼ばれたことに驚いたが、あまりに真剣な目で見おろされていて身動きも取れなかった。菊弥。もう一度呼ばれた名はひどく優しい音をしている。
黎一は困ったように、さらりと長めの黒髪を揺らした。
「……私のことを、覚えていないか?」
「え?」
「私とのことを、忘れてしまったのか。……かなしい」
どこかで会っていただろうか。黎一ほど顔が整っている男性に会っていたら覚えていそうなものだが、菊弥の記憶の中にはまるでない。入学してからのことしか、覚えていなかった。
それがひどく申し訳なくて、頬に添えられた手を、思わず握る。
「俺は、先生にどこかで会ってますか?」
「……会っている。何度も。私は君を、ずっと見守ってきた。ずっと、力になりたいと思っていた。それは嘘ではない」
「どこで……?」
ずっと見守っていた。
それは、どうしてだろう。
「私の出身は少し遠いが、いくらか前に派遣された場所があった。そこで君と出会った。君は心優しく、私は君を守りたいと思った」
「いつ頃の話ですか?」
「――君が、孤独に悲しんでいる頃だ」
判らなかった。
黎一は添えていた手を離し、丁寧に頭を撫でた。その手がひどく優しい。座っている菊弥と視線を合わせ、つかみどころのない教師、という今までの印象を覆すほどひどく穏やかでいとおしそうな顔をした。
「私と君は、結婚の約束をした。覚えていないだろうが、私は今も、そのためにここにいる」
素っ頓狂な声をあげなかった自分を褒めたかった。
好ましいと思っている、というのは本当に恋愛の意味での「好き」だったのだ。
眩暈がしそうなことを、言われていることは確かだった。
黎一が出ていってから、慌てて藤臣の部屋に駆け込み、籠っていた。ベッドを勝手に占拠して、布団を被って丸まっている。声を掛けられても反応ができない。先ほどのことが頭の中をぐるぐると回っていた。
「……もしかして本当に双葉に迫られたんじゃねえだろうな?」
びく、と肩を揺らしてしまった。
「おい、叫べっつったろ」
「せ、迫られてない……」
「嘘つけ」
「ほんと……なんか、昔会ってたみたい……」
幼い頃、おそらくはよく判っていない頃だったのだろう。結婚の約束を、黎一とした。だからずっと見守ってきたと言っていた。そのためにここにいると。
菊弥のために、教師になったということだろうか。
「う、うわ、うわあ、わあ……」
「おい本当に何があったんだ?」
「何もないぃ……」
そうとしか、言えない。
その夜、夢を見た。
幼い頃の夢だ。藤臣はいつもどこかに遊びに行っていて、神社にいることは少なかった。そこで狛狐のそばに座り込み、一人遊びをしていた。
「きつねさん、おてだまできない?」
あの頃、「他の人間に見えないもの」と「そうでないもの」の区別がついていなかった頃、菊弥は何にでも話しかけていた。妙な子どもだっただろう。両親が気味悪がるのも仕方なかったのかもしれない。
きつねはもちろん答えなかったはずだ。けれど夢の中で、声が聞こえた。
「私はしたことがないから、見せておくれ、菊弥」
「いいよぉ」
少年らしい遊びは苦手だった菊弥は、お手玉だとかおはじきだとか、祖母に教えられる遊びばかりを一人でしていた。
返った狐の声は淡々としていた。黎一のそれのように。
「きつねさん、きつねさん」
「何だ?」
「きつねさん、ずっといっしょ?」
菊弥にとって、稲荷神社のお狐様は友人のようなものだった。ずっと一緒にいてくれる。それを問いかけて、声は可笑しそうに笑った。
「もちろん、菊弥が望むなら、いつまででも」
「ほんとう?」
「そうだ、嫁にもらおう。私の嫁に、菊弥をもらおう」
「およめさん、女の子だよ?」
不思議に思って答えたが、狐は意に介していないようだった。嫁にもらおう、市河菊弥。そう言って笑う。
「菊弥をいつか、嫁にもらおう。それまで私が守ってやる」
「ほんとう? こわいのから、守ってくれる?」
「菊弥が怖い思いをしないように。私がそばにいる間は、危険なことは絶対に起こらない」
そのことにひどく安心した。
だから菊弥は、じゃあお嫁さんになろうかなあと返してしまったのだ。
それが、誓約と形を変えることを知らずに。
飛び起きた。
背中を汗がびっしょり濡らしている。黎一の声だったように思うのは、あんなことを言われたせいだろうか。おそらくは、あの場にいたのは黎一だったのではないか。狐だと思って話しかけていた相手が黎一で、ああいうやり取りをしたのでは。
藤臣が言っていた、黎一は気にしなそうだ、というような言葉を思い出していた。
部屋には、黎一が気に入っているという狐の絵がいくつも飾ってある。自分で描いたものだが、菊弥自身も気に入っていた。
あの頃見た狐を思い出しながら描いているので、そのすべては下からのアングルだった。他の稲荷神社を見たことがないわけではないし、狐も見たが、それでも菊弥が描いているのは藤臣の実家の狐である。
黎一は確か二十七だから、あの頃のことを考えると中学生ほどだったはずだ。
何を思って嫁になどと言ったのだろう。
本当にこれは夢だったのだろうか。過去にあった出来事なのではないか。
それすらも、判らなかった。