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夏休み





   一 赤い鶴のおまじない



 幼い頃のことはあまり記憶に残していないが、ひとつだけ、どうしても忘れられないことがあった。

 冬の寒い夜だった。カーテンの隙間からびしょ濡れの老婆が見えていた。カーテンと、窓の間である。つまり室内にいたということだ。どうしてあんなところにいるのだろう、寒いだろうから中に入ればいいのに。そう考えてぼんやり見ていると、その老婆と目が合った。その瞬間、黒いものがカーテンの隙間から飛び出し、天井の隅へ張り付いた。

 無意識にそちらに視線がいって、全身濡れた老婆が天井の隅に両手足を使って留まっているところを眺めた。黒い着物は今思えば喪服だったのかもしれないし、髪が乱れていたかも着物が濡れていたかも覚えていないが、びしょ濡れだと思ったことと、その憎しみの籠った形相をしていたのだ、ということは覚えていた。

 おかあさん、あそこにおばあさんがいる。

 ごく自然にそれを指摘した。知らない老婆が家の中にいる不思議と、どうして天井にいるのだろうというわけの判らなさを口にして、人差し指をそこへ指したのだった。

 幼かったからだ。何も判っていなかった。

 自分の見えているものがすべてで、それは他の人間にも見えるものなのだと疑っていなかった頃の話である。

 母は悲鳴を上げて、妹を抱きあげて隣室へ駆け込んでいった。

 帰っていた父が、老婆ほどに憎しみの籠った目で見つめたことに覚えた感情のほうが、その老婆を見たことよりもよほど胸に残っていた。

 そのすぐ後のことだった。菊弥は祖父母に預けられることになり、事情は判らないが両親とも妹ともそれ以来ほとんど会ってないし連絡もとっていない。年始に年賀状を送ったり電話をしたりしていた頃もあったが、それも煙たがられているのだと気づいてやめてしまった。

 祖父は研究者で、その道では知れた人であるとは訪れる客人の態度で幼心にも何とはなしに判った。丁寧に祖父に頭を下げる客人たち。彼らが祖父に何を頼み込んでいたのか、知るのは祖父母に預けられてからずっとあとのことになる。

 菊弥くん、と祖父は呼ぶ。菊弥くん、人でないものに関わってはなりませんよ。そうは言われても、菊弥には「他の人間にも見えているもの」と「そうでないもの」の区別が上手くつかなかった。祖父が親しくしていた神社の宮司の息子がひとつ下で、その頃から一緒に遊ぶようにならなければ祖父の教えも上手く守れないままだっただろう。

 ――菊弥、それは俺には見えない。

 そういうふうに言ってくれた幼馴染には感謝してもしきれない。そうでなければ、菊弥は人の中に溶け込むことはできなかった。両親が気味悪がったこの妙な目と耳は、祖父から受け継いだものであるのか、そうでないのか、聞けたことはない。

 ――それは俺には見えないから、近づいちゃ駄目なやつだ。

 そんなふうに手を引いてくれた幼馴染。ひとつ齢は下だけれど、頼りにしてしまっていた。菊弥の心がまだ安定しなかった頃の話だ。

 筆をとって油絵を描くようになったのは、中学一年になった年だった。自分が見えるものを絵にすることで、心の均衡を保ったのは必然だったのかもしれない。

 絵を描くことを生業にするつもりはない。だけれども、それは菊弥にとって、何よりも「普通」に生きるために大切なことだった。



 市河菊弥が入学したのは東京都宮園高等学校という男子寮のある学校だった。そこへ入学した理由は寮へ入りたかったからで、祖父母にいつまでも世話をかけているわけにはいかないという思いがあったからだ。進学するにあたって就職率が高かったことも理由にある。早く自立しなければならない。そう思っていた。

 東京都宮園高等学校は名を変えながら七〇年続く古い学校だが、現在の生徒数は極めて少ない。一学年は一クラスしかなく、付属の中学校や小学校があるわけではないから、校舎内は静かだ。しかしながら歴史のある学校ではあるので図書館は広く、申請すれば部外者でも入館可能で、近々重要文化財に指定されるのではないかというほど古い。建て替えられたのは校舎と寮は改装を何度かしているものの、骨組みや作り自体は建てられた当時のままだという。制服は黒い学ランだったものが二〇年前に紺のブレザーとチェックのズボン、黒いネクタイに変わったと聞いている。

 校舎の一階、最も校門に近い場所にある事務室で、今年の夏季休業中の寮について話を聞いたばかりだった。七月に入ったばかりだが、外は暑いし太陽は容赦なく照りつけている。そうであるのに校舎内、それも廊下となると冷たい空気がどこからともなく流れ、小さく身震いしてしまうほどだった。今年は去年とは違い、数名の申請を受けている、と返答を貰った。けれども二年連続で帰省せずに寮に居残るのは市河菊弥だけである。だから管理の話や、今年も寮監の代わりを双葉黎一が担うことになっているという話を聞いてきたのだ。

 黎一は二年の担任教員であり、国語教師である。教師陣の中で最も若く、淡々としていて無表情、見目はいいほうだが取っ付きにくいので敬遠されている男だ。去年、両親が日本におらず帰省する場所がないという理由から、菊弥は学校側に寮への居残りを交渉した。両親からも日本にいるように言われていたので、その話も伝わっていたのだろう。夏の間中居残ることはできたが、母親がもう長くはなく、入院中だという寮監のほうが帰省することになったのだ。その代わりを務めたのが黎一だったが、今年は何を理由にか、二年続けての代行らしかった。

 菊弥とて黎一が得意なわけではない。愛想はないし、進んで喋ることもない。そばにいると緊張する空気を出すし、怖いわけではないのに、あまり一緒にいたいと思う相手ではなかった。けれども黎一のほうからは気に入られているようだ、という意識はなぜかあった。その夏以来、何かと余計気に掛けられている気もしたが、可哀想に思われているのかもしれないという理解はあった。祖父母に預けられていることを知っているのかもしれない。もしかしたら電話を受けたのは、担任である黎一だったのやも。そう思うと、憐れまれているのだろうと納得ができた。

 一階に教室はない。三階に並んでそれぞれの学年の教室があり、一階、二階は専門教室や職員室などで埋められている。期末考査最終日の七月八日、もう帰宅だか帰寮だかをしている生徒が大半の校舎は静かだったが、階段の一番下に腰掛けている男子生徒がいた。一学年下、幼馴染の佐枝藤臣である。

「菊弥、終わったか」

「終わったけど、何でお前がいるんだよ。帰らないの?」

「外、暑そうだな」

 返答ではなかった。立ち上がった藤臣が隣に並ぶ。一八〇を超えたという長身に並ばれると必要以上に背が低くなった気になる。校則違反の薄い金色をした髪は痛んで陽に透けると白く見えた。黒いカチューシャで髪を上げ、逆立てている姿はどう見ても不良と呼ばれる部類だし、本人は母親に言われた「喧嘩は勝つまで帰って来るな」という教えを守っていると主張するが、地元では相当荒れていた。小学生の頃からすでに乱暴者の烙印を押されていたし、あれ以来菊弥の制止は聞くようにはなったが、いつも一緒にいるわけではないのでどこかしらで問題を起こしては教師に呼び出されていたことを知っている。

 今更勝てるわけもない。溜息になりそうな息をそっと吐いて、寮までの道を並んで歩き出した。

「お前さ、そろそろ髪の色、逃げ切れないんじゃない? 観念して染め直せば」

「勝てる喧嘩は面白くねえんだよ。三年逃げ切るから見てな」

「……そういうこと言ってるからさあ」

「俺より、あれのほうがやばいだろ。見つかって校長室行きじゃねえ?」

 くい、と顎で示されたのは蓮の浮かぶ小さな池だった。ちょうど階段の表側にあたる。道は狭く、校舎脇に植えられた躑躅と縁石、一メートルほどの通路を挟んですぐ、申し訳程度の腐ったような色合いの木でできた柵があり、その向こうが暗い色をした池だった。藻が多すぎて池というよりは沼のようなそこに、蓮の隙間に無理やりねじ込んだように、ぽかりと浮かぶ赤い色。

「――折り鶴」

「禁止なんだろ? 俺は理由を知らねえけどな」

 思わず立ち止まった。猫科の肉食獣のような丸みを帯びたつり目が、すいと細められる。嘘は許さないというように、それすらも見抜こうとするように。

「……いつからあったのかまでは知らないけど、志望校の名前を書いて鶴を折って、それをこの池に投げ入れるっていう願掛けがあったんだよ。でも事故があってから、禁止になった」

「あの窓からか?」

 古めかしいレンガ造りの、蔦の這う校舎を眩しそうに見上げる藤臣から、視線を逸らした。

 池に浮かぶ、赤い一点。

 あるはずのない場所にあるはずのない色が浮かんでいることが、不気味だった。

「女子は少ないけど、一応共学だしさ。おまじないみたいなものが流行った理由は、そこじゃないかなあ」

「……あんたさ」

 何かを言いかけた藤臣は、躊躇う素振りを見せ、歩き出した。慌てて後を追う。コンパスが違うせいで歩調が合わない。菊弥が小走りになってしまうから隣を歩くときは速度を落とす藤臣が、考え事をしているのか無言のまま先へ行ってしまう。藤臣。声を掛けたが、歩調を緩めたのは少ししてからだった。

「……何かあったら、俺に言えよ。あんた一人ぐらい守れる」

「は? 何の話?」

「勉強しかしてないような真面目ちゃんが、俺に勝てるとは思えねえけどなあ……」

「藤臣? 何なんだよ、だから」

 前を見据えたまま、つった眉の下で、意志の強い目が前を見据える。

「夏休み、俺も残るから」

「え、残るのってお前だったのか? 帰れよ、おばさんもおじさんも待ってるだろ?」

「いいんだよ。今年だけは――」

 ちら、と菊弥を見たが、言葉の先は言わず、大きな手がくしゃりと頭を撫でていった。

「飯、あんたが作るのか?」

「何でだよ。双葉先生に決まってるだろ」

「……マジかよ」

 嫌そうな顔を見せたが、あれでいて、黎一の料理が美味しかったことはおそらく去年経験した菊弥しか知らぬことなのだろう。



 校舎もそうだが、寮の外観もまた、ひどく古めかしい。薄いオレンジと茶色を混ぜたような色のレンガと、クリーム色の壁で覆われている。所々刈り切れなかった蔦が這い、修繕の後が色濃く見える。観音開きの重たい木戸を開くと、玄関ホールには帰省の支度を済ませ、実家へ帰ろうとしている生徒が五、六人、靴を履き替えていた。少し話をしたが彼らが最後だという。寮監はすでにおらず、黎一が待機している旨を教えられた。

 玄関ホールから一番近い、開け放たれた左の戸の向こうに談話室、右に食堂、向かいに階段がある。床はワインレッドの絨毯が敷き詰められ、履き替えたスリッパの音を立てながら談話室を覗いた。テレビは消えていて、誰もいない。黎一は昼食を作ってくれているのかもしれない。

「昼飯ってすぐ食えんのか?」

「知らないよ。訊いてくる」

「あー、じゃあ部屋に戻ってるわ。鞄、持って上がるか?」

「いい。後で部屋に行くよ」

 メールで済ませてもいいのだが、声を掛けるくらいを面倒がる必要はないだろう。むしろメールを起動させるほうが億劫だった。

 藤臣と分かれ、食堂を覗く。調理場から何かを炒める音が響き、胃を刺激する匂いが漂っていた。調理の音で掻き消されそうだったので、声を張る。

「先生! 昼って何時に食べられますか?」

 調理の音は切れないし、返答もない。溜息を堪えて食堂に入り、調理場を覗いた。藤臣ほどではないが、似たり寄ったりの身長の高さと、どう考えてもバランスの悪い細身の背中が見えた。長めの黒髪が動きに合わせて揺れる。白いシャツにスーツに合わせたベスト、スラックス。エプロンは付けているが、調理台の端に上着が置かれているところを見ると、ネクタイもしたままなのだろう。着替えてもいないのか、と小言を口にしそうになった。

「双葉先生!」

「――市河?」

 顔だけで振り返った黎一が、硬い音を立ててフライパンをコンロに置いた。そのまま火を消し、改めて体ごと振り返る丁寧さを見せる。

「ひと月と少し、今年も頼む」

 涼やかな目元と通った鼻筋、白い頬。精悍というよりは美人に部類されるのだろう黎一は、じっと菊弥を見下ろして淡々とした声を聞かせた。相変わらず表情はなく、声にも感情が籠っていない静かな男だ。悪い教師だとは思わないが、仲良くしたいようなタイプではない。いい男と見れば沸き立つようなクラスの女子ですら、観賞用と決めているそうだ。何を考えているのか悟らせないうえに、自分のことを話さない。対応も至ってクールのくせに、質問に行った生徒には懇切丁寧に説明してくれるという話だった。

「……それは俺の台詞ですけど。昼ご飯って、それですか?」

「ああ。去年はあまりレパートリーがなくて申し訳なかった。今年は期待してほしい」

「はあ……」

 代理なのだから気にせずともいいだろうし、実際そんなことは菊弥も気にしていなかったが謝られてしまった。親切ではあるのだろう。

「今は仕事の途中で抜けている。時間があまりなくて、手の込んだものは作れなかった。すまない」

「いやいいですよ、食べられれば。じゃあ、もう藤臣――佐枝を呼んできていいですか?」

「それなら、一〇八号室にも声を掛けてほしい」

 一〇八号室は二階、三年生の部屋が並んでいる階になる。菊弥は二年生で、藤臣は一年生だ。黎一は一階の部屋を借りているはずで、先ほどすれ違った生徒が帰省する最後だと言っていた。では他に三年生が残っているということだろうか。

「もう一人いるんですか?」

「今年、残る生徒は三人だ。君と、佐枝と、三年生の五十嵐を知っているか? 五十嵐雪成だ」

 全生徒が寮生活をしているわけではなく、一学年が一クラスしかない狭い学校で、知らない相手がいるほうがおかしい。知っているというほどではないが、知らないわけでもない。何と答えるべきか悩んだ菊弥を見て、微かに細い首を傾げる。その拍子、さらりとサイドの長い黒髪が揺れた。

「……五十嵐が苦手か?」

「え?」

「そういう顔をしたろう」

 そんなつもりはなかった。戸惑ったが黎一はただ無表情で、何をどう考えているのか判らない。苦手というほど知っているのではないのだ。二人で話したことすらない。

「苦手っていうわけじゃないです」

「何かあったら言うといい。私は君の力になりたい」

 小さく咽喉が鳴った。悲鳴を飲み込んだつもりはなかったが、それに似た心地だった。黎一はやはり感情を知らせない。教師として生徒に対して言った言葉だったのか、黎一個人が菊弥に対して言った言葉だったのか判らなかった。そんなに危なっかしいつもりはなかったし、菊弥は優等生として通っているはずだ。ゆるく首を振って頭からそれを追い出す。考えなくていいことは考えたくない。波風を立てたくない。平和でいたい。誰にも咎められず、ただ卒業して、早く大人になりたい。ただそれだけを考えていればいい。

「じゃあ、呼んできます」

「頼む」

 短く答えたあと、調理台に手を伸ばした黎一はマグカップを取り上げて静かに啜った。そういえばこの人はカフェイン中毒だった。去年垣間見たそれを思い出し、思わず笑ってしまった。



 雪成にはドアの外から声を掛けるだけに留めた。一度部屋に戻って荷物を置き、そのまま藤臣を呼んで食堂へ下りた。その時にはもう雪成も下りてすでに食事を広げていた。視線が合った気がして小さく会釈する。笑みを浮かべて小さく頷いた雪成は黎一と似たり寄ったりの髪の長さをした美少年然とした美しさを見せた。人形のように整った顔と柔らかい面立ち、どこかの血が混ざっているのかもしれないと思わせる堀の深さと目の大きさ。もう高校三年生だというのに少女染みた可憐さは健在だった。

 調理室を覗くとちょうど黎一が振り返ったところだった。受け渡し口からトレーがふたつ差し出される。乗っていたのは雪成のそれと同じ、具のたくさん入っている焼きそばと白米、みそ汁だった。去年と変わらず美味しそうだった。並んだ藤臣が何か言いたげにちらと視線を投げるが、本人の前で言うことでもないだろうから気づかなかったふりをした。

「市河、去年と同じことを頼んでも構わないか」

「ああ、いいですよ。先生はここで食べるんですか?」

「もう戻らなければならない。夜に会おう」

 片方のトレーに、そっと折りたたまれた白い紙と紙幣が置かれる。買い出しのメモとそれ用の金だ。黎一はまだ仕事があり、帰省した生徒が大半である寮の冷蔵庫に食材が残っているわけがなかった。ちょうど力のある藤臣がいるのだから荷物持ちをさせればいい。トレーを受け取り、少し悩んだが雪成の近くに座った。上着を羽織りながら調理室から出て来た黎一は、無言で寮を出て行った。

 黎一が行ってしまったからだろう、藤臣が意外そうな声を出した。

「あいつ、マジで料理するんだな」

「料理上手だよ。それに何か……世話焼き?」

「は? あれで?」

「あれで」

 去年の夏を思い出す。寮監が帰省することになり、急遽黎一と二人きりで過ごすことになった夏休み。菊弥としては寮さえ開けていてもらえるのなら一人で何とでもするつもりだったが、黎一は何かと世話を焼いてくれた。さすがに毎日浴場の準備をするほどの人数ではないからシャワーで済ませようという話になったが、食事はもちろん洗濯物の世話まで焼いてもらったのだ。寮監は当然そんなことまでしないが、黎一は担任教師だということもあって夏休みの課題まで手伝ってくれたのだ。仕事があるだろうに菊弥を優先してくれていたように思う。夏休みの終わり、楽しかった、と言われた。もしかしたら歳の離れた弟だか息子だかができた気分だったのかもしれない。

「……市河くんは、双葉先生と親しいの?」

 問いかけたのは雪成だった。話しかけられるとは思っていなかったので少々面食らったが、素直に首を傾げる。

「どうでしょう? 親しいわけじゃないと思いますよ。担任なんで、他よりは話すと思いますけど」

「そういや、変な噂を聞いたな。双葉に恋人ができたって話」

 焼きそばを啜る合間に、藤臣が独り言のように呟いた。どうして今そんな話を持ち出したのか判らず、無言で焼きそばを箸で弄った。紅生姜が隠れていないか探したのだが見当たらないようだった。どうやら黎一は菊弥が食べられないことを覚えていたらしい。

「双葉先生に恋人がいるの? そんな話はまったく聞かなかったけど」

「らしい、って噂だけな。聞く限りじゃ、女ができたんじゃなくてまだお友達ってやつじゃねえか。クラスの奴が告って、返事が『好きな人がいるから付き合えない』だったらしいからな」

 噂自体は「恋人ができた」だが、藤臣はそうは捉えなかったということだろう。それにしても、二年も上の相手にこの口調で通すつもりなのだろうか。指導するべきかと思ったが雪成は気にしたふうではない。

 二年女子は担任ということもあり接する機会が多いので、あれは観賞用、と下したが一年女子はそうでもないようだった。あの人に告白するのは勇気がいるだろうな。ぼんやりとしたイメージだが、そんなことを考えてしまった。あっさりと平坦に無理だとでも返されたら、すごすごと引き下がるしかないだろうに。その想像は容易すぎたが、しかし実際は違ったのだ。好きな人がいるから。それはとても、誠実に聞こえた。

「じゃあここ最近の話だろうね。僕のクラスの女子も、去年だったかに告白したって話は聞いたんだけど、そういう噂にはならなかったよ」

「その時は何て?」

「うん? 確か……すまない、だけだったって話」

 然もありなん。

「で? 藤臣は何でそんな話をしたわけ」

「ああ……相手、菊弥なんじゃねえかと思って」

 思わず噎せた。慌ててお茶を飲み、何とか収める。まさかそんな話になるとは思わなかった。雪成にちらと視線を流されたが慌てて首を振る。

「男同士なんですけどねえ、藤臣くん」

「そういうの気にしそうに見えねえだろ、双葉が」

 菊弥がどうこうではなく、黎一がと言いたいらしい。それにしたって暴論だ。抗議したいが、あまり煩く言うとむしろ怪しまれるだろう。溜息を吐くだけに留めた。

「……まあ、双葉先生は、職権乱用したり無理やり襲ったりというふうには見えないから。そっとしておこうね。いや、何かあったら言ってくれて構わないんだよ、市河くん」

「あの、その線で固めるみたいな空気はやめてもらえません?」

 思わず半眼で睨んでいた。



 昼食後は買い出しに出掛けた。スーパーでメモを眺めながら藤臣にカートを押させて買い物をしていると、しばらく黙っていた口を開いた。

「しかし驚いたね。白雪姫はどうやら案外気さくらしいな」

「白雪姫って、五十嵐先輩のこと?」

「そう。去年文化祭で演ったんだろう? 菊弥が言ったんじゃねえか」

 確かに言ったし、しばらくその名称で呼ばれていたがそれを嫌がっていると聞いたこともある。できれば本人には言わないでいてほしいものだ。

「あの顔だからね。そりゃあヒロインにも抜擢される」

「確かに女みたいな面だよなあ。でも」

 ふ、と可笑しそうに笑い、藤臣は手を伸ばしてメモにあるニンジンを手に取った。

「ああいうのに限って毒を持ってるもんだぜ。毒リンゴ、食わされねえようにしねえとな」

「……どういう意味?」

「さあ? それより双葉にマジで迫られたら叫べよ」

「その話、まだ続くわけ?」

 胡乱な眼差しを送ると、藤臣は肩を竦めて返した。本気なのか冗談なのか判別しがたい。黎一に失礼だろうというよりは、勘弁してくれという気分だった。ただでさえ女子の少ない共学の男子寮だ、そういう事例がないわけでもないだろう。そのうえ相手は担任教師ときている。喜ばしい話題なわけがなかった。

 買い物を終え、買い物袋をほぼ藤臣に持たせながら寮に戻る途中、また同じ話題を出した。

「双葉が菊弥に惚れてるとして」

「だからその前提やめろって言ってるだろ」

「そっち方面でも気にしなきゃならねえわけね……敵が多いなああんた」

 敵、とはどういう意味だろう。

 藤臣は何を知っているのだろう。

 平穏無事に卒業できれば文句はなかった。そのまま就職できればそれに越したことはない。絵は趣味としてまだ続けている。油絵はいい。何度も塗り直して、同じキャンバスを使えるからだ。

 寮に戻る途中の海岸沿いに、何か黒い靄があるのが見えた。さすがにあれを現実と間違えるようなことはない。じっと見ていると、荷物を片手に持ち直した藤臣はそっと菊弥の手を取った。

「俺には見えねえよ、菊弥」

「……判ってる」

「見えねえけど、守ることはできる。もう二度と、菊弥は傷つけない」

 神社の境内。

 寒い雪の日。

 広がった赤い色。

「もう気にすることないのに」

「そういう問題じゃねえんだよ」

 藤臣は短く言って、菊弥の手を引いたまま寮へ戻った。買ったものを冷蔵庫にしまって、しばらく藤臣は菊弥の部屋にいた。油絵の具の臭いのする部屋。汚さないように気を使っているつもりではいるが、どこかに絵の具がついていたら悲惨だな、と思う。次にこの部屋を使うだろう生徒の話だ。

「絵、続けねえのか」

「進学しないから」

 藤臣が菊弥の絵を好んでいるのは、自分の見えない世界を絵にされているからだ。今描き始めたのは海で見たものだ。油絵は色を乗せていくから、水彩ほど繊細ではない。そこがいいと思う。繊細に扱わなければならないものは苦手だった。苦手になった、というべきかもしれない。



 夕飯ができた、とわざわざ黎一が部屋に呼びに来てくれた。一度部屋に戻った藤臣もそのとき菊弥の部屋にいて、意外そうな顔をされた。

「仲がいいのか?」

「言ってませんでしたか、幼馴染なんです」

「幼馴染」

 繰り返し、首を傾げる。

「いくつの頃からだ?」

「そうですねえ……俺が八歳にもなってない頃です。でも小学校は転校したから……入学してからだよな?」

「あんたが七歳、俺が六歳」

 答えた藤臣は菊弥のベッドで広げていた雑誌を閉じて立ち上がり、黎一の前に立ち塞がるようにしてにたりと笑った。

「なあ、双葉センセが片想いしてる相手って、菊弥?」

「藤臣!」

「何の話だ?」

 きょと、と涼しげな眼が瞬かれる。少し長めの髪がさらりと揺れ、不思議そうに首を傾げた黎一は相変わらず一番上までシャツのボタンを閉め、きっちりベストを着て、先ほどまで調理していたことを知らせるように腕まくりをしている。

「片想いかどうかは判らないが……市河のことは好ましく思っている」

「へえ」

「双葉先生も乗らないでください! 藤臣、本気にするなよ」

 どうせ普段から何を考えているのか判らないような教師の言うことだ、本気にしているとは思えないが。

 それよりも冷めてしまう、と言って、この話は切り上げられた。

 夕飯はカレーだった。仕事が長引いて手の込んだ料理を用意できなかったと、律儀に謝った黎一は同じテーブルについた。隣り合ったのが藤臣で、向かいに黎一、その隣に雪成という形で座ることとなった。

「去年は二人きりだったんですよね、市河くんと双葉先生」

「そうだな、楽しかった」

 そんなことは言わなくていいのだが。

「市河くん、相当嫉妬されたんじゃないですか? だって双葉先生、人気ですもんね」

「そんなことはない。生徒たちは私を避けるからな」

 それは仕方ないことだろう。

 とにかくとっつきにくいのだ。何を考えているのか判らないし、説明は丁寧なのに壁が厚いように見えていた。

 黎一は困ったようにため息を吐き、こんな弱音を吐くべきではないのだが、と言いおいて愚痴を零した。

「私は生徒たちと仲良くなりたいのだが、誰も遊びに来てはくれないんだ」

 学内で教員に与えられている個室のことだろう。職員室ではなく、個別で部屋がある。そのうちの、黎一の部屋は不人気だ、と言いたいらしい。

「そりゃあんたが変な野郎だか、らっ」

「ふ、じ、お、みっ」

 思い切り足を踏むと、涙目で睨まれた。幼馴染としての時間が長い菊弥に、今更藤臣の睨みが効くわけがない。それを流して黎一に視線を向けた。

「双葉先生は、部屋に遊びに来てほしいんですか?」

「そうだな。一番来てほしいのは市河だ」

「は?」

 にたあ、と藤臣が笑う。もう一度足を踏んでおいた。

「どうして俺なんですか」

「市河を好ましく思っているからだな」

「あの、だからどうして俺なんですか、それ……」

「判らないか?」

 不思議そうにされても判らないものは判らない。藤臣や雪成に勘ぐられるのでできればやめてほしかった。

 話題を変えようと夏休みの宿題の話を持ち出そうとしたが、先に雪成が口を開いた。

「じゃあ、鶴を折ればいいんじゃないですか?」

「鶴?」

 訊き返したのは藤臣だった。

 はっとした。

 雪成は三年生だ。あのことを知っている。あの折り鶴の、もうひとつのまじないを。

「赤い折り紙に相合傘を描いて、自分と想っている相手の名前を書いて鶴を折るんです。それを投げて、あの池に入ったら成功」

 ちら、と藤臣が菊弥を見た。そちらを向くことができない。どうして教えなかったんだ、と言いたいのだろう。判っている。言いたくなかっただけだ。

「駄目だ、その行為は校則で禁止されている。生徒の見本となるべき私がするわけにはいかない」

「双葉先生って固いんですね」

「……柔らかくないか?」

 自分で頬をむに、と掴んだ黎一に、ため息が零れた。



 藤臣はその後、そのことについて言及はしなかった。菊弥が言わなかったことを、どう思っているのだろう。判らなかったが、訊かれたとしても言えなかったとしか答えられなかっただろう。

 赤い鶴の相合傘。

 それが叶うことはあるのだろうか。

 少なくとも、菊弥は成功した例というものを知らない。






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