03.少年は、謀られて飲酒する
あの一瞬で、彼が危険な状態にあると判断し、彼の襟首を引いて助けた。
そして即座に、躊躇なく前に出て、大ネズミを倒したのだ。
クエリがいなければ、彼は腹をすかせたネズミに齧り殺されていたかもしれない。
(すごい……ぼ、僕には絶対無理……!)
さすがは、竜人の氏族の娘といったところか。
他にもこうした大ネズミが、この区画にいるかもしれない。
ああ、今にもそこの壁の、大きな亀裂から!
「…………!!」
急に怖くなり、パースは慌てて立ち上がった。
そして彼女に続いて入室し、扉を閉めて礼を言う。
「あ、ありがとうクエリ……助かったよ」
「いいって、大したことしたわけじゃないし……
それよりこの部屋の紙に書いてある字、読める?」
そう言われて、部屋の内部を見回す。
そこには一箇所に集められて面積の広がった机と、その周りに配置された椅子。
部屋の壁は木張りになっており、一面に多量の紙が貼り付けられていた。
パースは無造作に錆びたピンで貼られた紙を見て、思わず感嘆した。
「うわぁ……」
贅沢なことに、壁一面の紙は全て、走り書きやメモに使われていたらしい。
中には太い毛筆で強調された字もあるが、内容はパースにも読めるものだった。
(紙がこんなにいっぱい……かなり裕福な人たちが使ってたのかな)
クエリが回答を待っているらしいのを見て、パースは暫定的だが意見を伝えた。
「うん……会議の部屋かな。何か、日程に関する打ち合わせをしてるように見える」
「ていうか、読めるのね」
「父さんが印字職人だから……難しい単語はわからないけど、まぁ、それなりに」
「具体的にはなんて書いてあるの?」
「えーと、ちょっと待って……日程、繰り上げ……一覧?」
決して読みやすくはない雑な走り書きも多く、並んでいる語は難解だった。
だが、全体としては日程や、それに関わる何かの打ち合わせのように読める。
それを見たクエリが、彼に催促した。
「何か思い出さない?」
「少し読めるだけだよ……難しい綴りが多くてよく分からない。
僕が馴染みのあった場所じゃないね、絶対」
全部を読めない悔しさも相まって、断言してしまった。
ここまで身に覚えがないなら、そうしてしまって構わないだろうが。
クエリは周囲を改めて見回しながら、提案する。
「うーん……じゃあ次の部屋」
二人は部屋の中を一つずつ確認しながら、廊下を進んだ。
パースの方は、大ネズミが出てきそうな壁の亀裂も注視しながら。
「やっぱり、人居ないっぽいね」
「ていうか何か、とっくの昔に放棄されたって感じに見えるな」
ほとんどの部屋は、最初に入った会議室(?)と同様だった。
大抵は、何かの会議や、書類の仕事をしていたらしき跡。
書類やメモが壁に張り付いていたり、机に放置されていたりしている。
ただ、書類の文面は、14歳のパースの知識では意味が判らない単語が多く踊っていた。
綴りから意味を類推できそうな単語もあった。
ただ、この大量の文面の全てを解読をするような時間は、恐らくないだろう。
無論、時おり違う用途で使われていたような部屋もあった。
「倉庫……?」
朽ちた木箱が多く積み上げられた部屋は、空き部屋を転用したといった趣だ。
中身を見ると、
「書類か……こっちも?」
字は小さく、やはり読み慣れない単語が踊っている。
パースはそちらは諦め部屋の一面を埋めるように並んだ本棚に向かった。
置かれているのは、やはり難解な語で書かれた本。
「にゅう……かい――えーと……なんて読むんだこれ……」
「無理して読むことないよ。次行こう次」
「悔しい……何とか読めそうなやつもあるのに……」
「他に何もなかったら、また後で来ればいいでしょ」
「はい……」
クエリは部屋を出て、次の部屋の中を改めようとする。
すると。
「…………?」
パースは急に息苦しくなって、膝をついた。
振り返ったクエリが、訝りつつもそれを案じてくれる。
「ちょっと、大丈夫……!?」
「う、ごめ……何か、息苦しくて……」
「…………?」
彼女は周囲の空気を嗅ぐように、パースの周囲を歩いてスンスンと鼻を鳴らした。
「……毒気が出てるってわけでもなさそうだけど……
パース、あなた何か持病とかあるんじゃないの?」
「そ、そんなの無いはず……だけど……
最初に話した……朝に、水汲みに出かけたのが、最後の、記憶で……!」
息苦しさはますます強まってきた。
厳密には、肺を膨らませることが出来なくなっているような感覚だ。
「ちょっと待ってて……!」
クエリは彼を寝かせようと言うのか、木箱の山を崩して、いくつかを床に並べた。
「座って」
「うん……」
息苦しさが増す。
クエリは彼を木箱に座らせ、やや力を込めながら背中をさすってくれた。
摩擦と彼女の手の体温で臓腑が暖められるのを感じ、心なしか気が楽になる。
「……ありがとう」
彼女に礼を言うのは、早くも二度目か。
いいってば、などと言うのだろうと思っていた彼女の返事は、しかし、違った。
「何であたしたち、二人でこんな場所にいるんだろうね……」
その声には、自嘲が含まれている気がした。
パースは息苦しさが治まってきたのを感じて、自分の考えを述べる。
「僕も君も、相手を騙してこんな所に連れてくる理由は無いはずだから……
少なくとも今の状況は、君のせいじゃないはずだよ」
「……そりゃあね。氏族と父と母の名に掛けて、そんな不逞は働きませんとも」
クエリはその言葉を少しだけ、喜んでくれたようだ。
彼の背を撫でるのは続けてくれていたが、パースはそれを留めて、腰を上げる。
「ありがとう、だんだん楽になってきた。もう大丈夫」
「一応、気付けの薬があるから。これ飲みなさいこれ」
「……?」
彼女は背の荷物を降ろし、中から革袋の水筒を取り出す。
そしてその蓋を外して、パースに渡した。
「直に口つけちゃっていいから、くいっと一口」
「………………」
彼女は親指と人差指で輪を作り、口元で傾けるような仕草でそれを促してきた。
竜人の持っていた、気付けの薬。
彼は意を決して、中のぬるめの液体を喉に少量、流し入れた。
「……!」
美味だった。
甘酸っぱい、何の木とは特定できないが、果汁のような味わい。
喉越しはさらりとしていて、清水を飲んだかのようだ。
液体自体に治癒効果でもあったのか、息苦しさが更に軽くなった気がする。
パースは原料が気になって、革袋の口を袖で拭きつつ、クエリに尋ねた。
「おいしいね。何これ」
「火竜舌の葉で作ったお酒」
パースは事実を知ってむせた。
「げほッ!! げほッ!! げほッ!!」
「ちょ、何も急にむせることないじゃん!?」
抗議するクエリに、弁解する。
「だ、だっ……酒……!」
「おいしかったでしょ?」
「いや……そうだけど」
彼にとっては、そういう問題ではない。
酒は子供の体に毒だと、村の大人たちの説明を過度に信じてきたパースにとっては。
「で、でも酒は大人になってからって……」
「体調が悪い時にちょっと飲むくらいなら体に良いの!
何よいい子ぶっちゃって……!」
彼の主張は、クエリの機嫌を損ねてしまったらしかった。
彼女は荷物を再び背負いあげ、のしのしと部屋を出て次に向かってしまう。
後頭部を軽く掻きながら、パースはその後を追った。