20.少年は、説明を求める
理由は分からないが、全身が濡れた感覚に寝小便を疑って、彼は飛び起きた。
「!?」
いや、どう見ても、鼻にまで水らしき液体が詰まっている。
小児に特有の罪業に付き物の、臭気や湯気もない。
気にはなるが、心配はいらないようだった
パース・フェクティフは咳き込みながらも、状況を把握するために体を起こした。
周囲には、ほのかに甘い香りが漂っている。
(水……!? ていうか、あれ、生きて……)
自分が最後に取った行動と現在の状況の、つじつまが合わない。
まさか、再び彼女が心臓を分けてくれたとでも言うのか?
悪寒を覚えたパースは、ずぶ濡れになった自分の前髪を払い除け、立ち上がる。
流れる液体に滑りつつ、彼女の名を呼ぶと。
「く、クエリ、どこ……!? あ、いた」
「――――っ!!」
すぐ近くに立っていた彼女も、ずぶ濡れの状態だった。
どうやら、彼に心臓を再び分け与えたということではないらしい。
耳に入った水を何とか追い出すと、彼女がこちらを気遣う声がはっきりと聞こえた。
「い、生きてるのね!?
大丈夫、苦しいとことかない!?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
ただ、パースの視界には他にも、気にならない方がおかしい物体が映っていた。
指さして、クエリに尋ねる
「ていうか……何あれ」
「えーとね、ちょっとややこしいかも知れないけど……」
燃え立つような光を放つ赤い巨人が、よろめきつつも苦痛に猛り狂っている。
クエリの説明を聞くと、彼女はあれと戦いながら、この液体を偶然探し当てたらしい。
パースは大方の証拠が頭の中で繋がった気がして、彼女に語りかけた。
「……そうか。クエリ、あの毒の化身の周り」
「……?」
「ちょっと分かりにくいけど、岩の壁に金属管が環状に設置されてる。
一定間隔で穴が開いてるのが見えるかな」
実を言えば、そこはパースも、今しがた見つけたばかりのものだった。
「あれが、アムリタの散布装置なんだと思う。
毒の化身が生まれても、あそこから霊薬を浴びせかけて、今みたいに殺してしまう。
霊薬で毒を中和するって、そういうことだったんだ、きっと」
苦しむ赤い巨人の姿を見つつ、クエリは複雑な表情で呟く。
「……消毒液みたいな」
「そうだね。でも当時は機械が故障して、霊薬が撒けなくなって……
毒の化身が暴れだしたってことだったんだと思う。
今回は君が偶然、パイプへの供給元になってる貯蔵槽の場所を斧で――」
「そっか……あの巨人、このまま死んじゃうのかな」
恐らくは、その通りなのだろう。
神話に登場する本来の毒の化身は、もっと大きく、強力だったに違いないが。
「……今まで実験のたびに生まれては、こうやって殺されてきたんだろうね」
「…………でもさ」
と、クエリが反論する。
「上のパイプから浴びせられるのと、足下からだばーってされるのって違わない?
霊薬が湖水で薄まってるし、あれは死ぬっていうか、足が痛くてつらいだけって感じ」
「……言われてみればそう見えるね」
「貯蔵庫の霊薬もみんな流れ出しちゃったみたいだし……」
「…………うん」
「何かあれ、すごい勢いで肺を膨らませてない?」
「逃げよう!!」
このまま事態が収まるかと思って見ていれば、とんだ油断だった。
地底湖から猛毒の風がここに届くまでに、逃げ切れるか?
走り出したその後ろから、声が聞こえた。
「海風よ凍てつけ!」
姿は見えないが、サッファークのそれとは違う、力強い男の声。
その声と共に、パースたちに向かって冷たい空気が吹き込んできた。
毒の風はここまで届かず、どうやら毒の化身の周辺で霧状の氷になったらしい。
(誰だ……ここに竜人は、クエリとサッファークしかいなかったはず……)
サッファークはといえば、哀れにもまだ、腐った肉汁に分解されたままだった。
こぼれたアムリタをかき集めてかけてやれば復活するのかもしれないが――
声は、更に続いた。
「刃よ、突き刺され!」
閃光が走り、毒の化身の体の各所で炎を伴う爆発が起きる。
化身は更に苦しみつつ、ついに湖水の中に倒れ込んだ。
「もしかして、あれも竜詞の力――?」
だが、彼がそれを確かめようとする前にクエリが、叫ぶように呟いて地底湖へと走る。
「父さん――父さんなの!?」
「お父さん……!?」
そして、彼女が地底湖へ下りる階段を駆け下りるより早く、そこから顔を出す影。
全身の穴という穴、体中からアムリタを滴らせ、それは咳き込んだ。
「げほっ……げほ……ぶわ、ぶほっ……
そ、そうだクエリ……!
て……お前ずいぶん大きくなったな!?」
這い上がるように石段を登ってきて、あまつさえ驚く。
それは、竜人の男だった。
髪色はクエリとそっくりの海の色で、角は刃のような形状で黒く、手指の鉤爪は鋭い。
「そ、祖霊じゃなくて……霊薬の力……!?」
感激と驚愕がない混ぜになったような様子の彼女に、男――父親が呼びかけた。
「分析は後だ。それより、俺の教えた竜詞の使い方、覚えてるな」
「え、でもあたし……いや、やってみる!」
「それでこそ、戦士。行くぞ」
二人は呼吸を合わせ、立ち上がろうともがく毒の化身に向かって、手を突き出した。
そして、竜人の行使する竜詞の力が顕現する。
「光よ――」
「切り裂けぇッ!!」
地底湖の大気と湖水を灼く、まばゆい輝き。
その二人分の威力の直撃を受けて、あの巨大な毒の化身は爆散した。
赤く輝く巨大な毒の巨人の肉体が崩壊し、地底湖にいくつも水柱を立てる。
パースはそれを見て、誰かに説明を求めたい気分になっていた。
「何ていうか、誰から何を話したらいいんでしょう」
互いに自己紹介を済ませ、パースは率直に、混乱した考えを口にした。
その台詞に、彼の目の前の竜人の男が答える。
「うーん……そうだな、まずは礼か。
ありがとう、パース君。俺の娘が、世話になった」
「いえ、僕もクエリさんにはお世話に……」
「そんな固まんなくていいってば……」
父親の前で敬称付きで呼ばれたクエリが、半眼で抗議した。
どうやらパースは、クエリに心臓を返却して、一度は本当に死亡していたらしい。
だが、クエリが発見した霊薬アムリタの奔流に飲まれ、毒は消え、生命さえ戻った。
そこまではまだ分かるのだが、蓄積されていた霊薬の力は恐るべきものだった。
白骨化していたクエリの父親までもが、完全に復活してしまったのだ。
「クエリも、すまなかったな。俺は一度、外竜狩りの時に死んだお前を連れて……」
彼は一度言葉を区切り、周囲を見回しながら後を次いだ。
「ここは俺と、あのサッファークが昔、まだ協力関係だった頃に見つけた遺跡なんだ。
ここで霊薬の生産法を確立するべきだというあいつと、一度は決別したんだが……
お前が死んで悲しむ母さんを見て、耐えきれなくなってな……
矜持も何もかも捨てて、ここにアムリタが残っている可能性にかけたんだ」
「で、でもあいつは……父さんは霊薬を見つけられずに、ここで死んじゃったって……」
クエリが疑問を挟むと、彼は頷き、
「サッファークに与えて残り半分だった自分の心臓を、全てお前に分けた。
心臓が無くても、最後の竜詞でお前を地上に転移させることくらいは出来たからな。
ただ、まだ8歳のお前を人間の領土に一人で送り込むことになってしまった……
その点も、すまなかった。
だがそこで意識が途切れて、次に目覚めたらアムリタまみれだったから……
驚いたもんだ。
……しかしお前、本当に母さんに似てきたなぁ……」
彼は語り終えたのか、口元を緩めてしげしげと娘を観察する。
クエリは不愉快そうな目つきで睨み、抗議した。
「あんまりニヤニヤ見ないでくれる……」
「……本当なら、ここで死んだファラウの竜人たちも生き返らせてやりたいんだが……
さすがに残ったアムリタがこれだけではな」
ロウル・ルダーヴは、持っていた簡素な容器を軽く掲げて渋面を作った。
毒の化身の死亡後、岸辺に流れ着いていたものだ。
中身は、霊薬。
それだけではなく、地底湖の湖水からは様々なものが打ち上げられていた。
クエリが投げ捨てたサッファークの剣に、不格好ながら巨大な、一抱えもある銀塊。
愛くるしい小さなアザラシのような海獣に、美しい極彩色の織物。
ひどく足の短い馬や、素焼きの陶器に詰まった土に植えられた種名の知れない苗木。
水より重いものは、全て泡まみれの状態で流れ着いたものだ。
それに加え、何と獣人の女が一人。
成人している上に言葉も喋れるが、人生の記憶と名が無いという、奇妙な状態だった。
毒の化身も含め、これが全て、先ほどの地底湖の撹拌だけで生じたものだというのか。
(要は何もかも、神話の劣化版だってことなのか……
神々と悪鬼たちが協力すれば、神獣に天女に財宝、完全な霊薬が生まれるけど……
この実験場の設備だと、お試し版か、ミニチュアみたいなものになってしまう)
それは、地底湖の実験で生まれた彼女たちへの侮辱になってしまう所感だろうが。
ひるがえってはプリメレファスたちへの無礼にもなる気がして、彼は自戒した。
「ねえ、父さん。その最後の霊薬どうするの?」
「……捨てるにはあまりに惜しい。恐らくこの先、それを後悔することもあるだろう。
…………だが捨てる」
「え……」
「本当ですか……!?」
二人は、クエリの父親の決断に目を丸くした。